イザヤ45章15節〜46章13節「胎内にいるときから担われている私」

2010年6月27日

私たち福音派の教会では、イエスを救い主と告白したときから、神の子とされ、新しい人生が始まったという意味で、「救いの証し」を分かち合います。その中で、つい、昔の自分や、生まれ育った家庭環境を悪く描きすぎる傾向があるかもしれません。 “イザヤ45章15節〜46章13節「胎内にいるときから担われている私」” の続きを読む

イザヤ44章23節〜45章15節「神の不思議な救いのご計画」

2010年6月13日

アメリカ北部でのことですが、高速道路を走っているある家族の車に鹿が飛び込んできて、車が大破しました。その車に乗っていた7歳の男の子は、「どうして神様は守ってくれなかったの?」と言ったそうです。それに対して、13歳の次女は、「神様が守ってくれたから、誰も怪我をせず、大事故にならずに済んだんだよ!」と答えたとのことです。今日の箇所では、「まことに、あなたは、ご自身を隠す神」(45:15)というイザヤの告白があります。聖書にご自身を啓示しておられる神は、同時に「ご自身を隠す神」でもあります。その結果、同じ出来事が、7歳の男の子には、神がご自身を隠しているように見え、13歳の少女には、ご自身を啓示しておられるしるしと見えました。 “イザヤ44章23節〜45章15節「神の不思議な救いのご計画」” の続きを読む

伝道者2章12節〜3章15節「四苦八苦の人生を神の御手の中で」

2010年5月30日

1968年に一年間という期間限定つきでプロ活動したフォーク・クルセダーズの名曲「何のために」が、ふと思い浮かびました。その歌詞は次のようなものでした。 “伝道者2章12節〜3章15節「四苦八苦の人生を神の御手の中で」” の続きを読む

イザヤ42章10節〜43章13節「わたしの目には、あなたは高価で尊い」

2010年5月16日

私たちの周りには、確かに、平気で嘘をついたり、平気で人を裏切ったりする人がいます。しかし、そのような人の歴史をみると、しばしば、彼ら自身が、あまりにも軽く扱われてきたということがわかることでしょう。キリスト教は、罪を指摘し、罪からの救いを教える宗教と言われますが、旧約の流れから見ると、神がどのようなことに最も厳しく怒っておられるかが見えてきます。 “イザヤ42章10節〜43章13節「わたしの目には、あなたは高価で尊い」” の続きを読む

イザヤ41章1節〜42章9節「たじろぐな。わたしがあなたの神だから」

2010年5月2日

私たちはみな、様々な恐れに囚われて生きています。しかし、私は長い間、自分の心の中にある漠然として「恐れ」を無視して生きてきました。確かに、傍から見ると、私は自分で自分の道を次々と切り開いてきた人のように見られることでしょう。自分でも「僕は臆病ではない!」と言い張りたい気持ちがあります。 “イザヤ41章1節〜42章9節「たじろぐな。わたしがあなたの神だから」” の続きを読む

イザヤ40章「目を高く上げて、だれがこれらを創造したかを見よ」

2010年4月18日

私たちは基本的に自分の力を、他の人との比較で計ります。そのため人の心の中には、以下の詩にあるような醜い思いがあるのではないでしょうか。「もし私の隣人が 私より強いならば、私はその人を怖れる。/ もしその人が 私より弱ければ、私はその人を軽蔑する。/ もし私とその人とが 同じであれば、私は詭計に訴える。/ 私がどのような動機をもっていたら、その人に服従することができ、/ 私にどのような理由があったら、その人を愛することができるのだろうか」(ジャン・ド・ルージュモン) “イザヤ40章「目を高く上げて、だれがこれらを創造したかを見よ」” の続きを読む

ルカ23章50節〜24章12節「キリストの復活を今ここで体験する」

2010年4月4日 イースター

キリストの復活のしるしは何よりも弟子たちの変化に見られます。イエスの弟子たちは私たちと何も変わらない平凡な人々でした。しかし、その彼らが、死をも恐れず、イエスの復活を証する大伝道者になっています。何しろ、イエスの伝道の生涯はたったの三年間に過ぎません。これは仏陀やマホメットなどとは大違いの短さです。 “ルカ23章50節〜24章12節「キリストの復活を今ここで体験する」” の続きを読む

ルカ23章32〜49節「十字架上で輝くイエスの愛」

2010年3月28日

ルカが描くイエスの十字架の場面は、何と美しいことでしょう。十字架刑という最もおぞましい刑罰が、そのみにくさの描写を最小限に抑えながら、イエスが死に至るまで隣人を愛し、神に信頼し続けた様子が描かれています。十字架は、救い主の悲劇ではなく、愛の勝利として描かれています。 “ルカ23章32〜49節「十字架上で輝くイエスの愛」” の続きを読む

ルカ23章13〜31節「あの人がどんな悪いことをしたというのか」

2010年2月28日

私たちは、「どうして、自分ばかりがこんな嫌な目にあわなければならないのか・・・」とつぶやきたくなることが多くあります。しかも、自分の労苦が報われる代わりに、不本意に担わされてしまった責任に対して、不当な非難を受けることがあります。それを警戒するからこそ、私たちは、互いに、責任を押し付けあう傾向があります。 “ルカ23章13〜31節「あの人がどんな悪いことをしたというのか」” の続きを読む