ダニエル3章〜4章「あなたの王はだれなのか」

2011年5月1日

英国のある新聞が、「この世界の何が間違っているのだろう」という疑問を読者に問いかけたところ、G.K.チェスタトン という有名なクリスチャン作家が、あまりにも簡潔に、「記者さま、私です。敬具。G.K.チェスタトン」と返信したとのことです。これこそイエスのメッセージの意味を心から理解した人の姿勢です。

私たちは「罪」ということを、何かの道徳基準を達成できないことばかりのように見てはいないでしょうか。しかし、創世記3章が描く人間の罪の根本とは、自分を神とすることでした。私たちは無意識のうちに、人に非難される必要もない完璧な人間になることを願っていないでしょうか。しかし、それはイエスの救いを不要とすることです。

私たちが、死に至るまで神への誠実を守ることができるとしたら、それは、強い人間だからではなく、「私は神のあわれみなしには一瞬たりとも生きることができない……」と、自分の弱さを自覚していることの結果に過ぎません。

私たちは、この世の成功者を尊敬しますし、また、尊敬されている者もしだいに傲慢になります。古来、人々の信頼を得て絶対権力を握った者は、ほぼ例外なく自分の価値基準を絶対化する神のようにふるまいました。それは、現代のリビヤの カダフィ 氏の場合も同じです。

私たちも、様々な人に気を使って生きていますが、最も大切な方に栄光を帰することを忘れてはいないでしょうか。

1.「しかし、もしそうでなくても……あなたが立てた金の像を拝むこともしません」

エルサレム王国を滅ぼしたネブカデネザル王は金の像を造りましたが、それは、高さ六十キュビト(約27m)、幅六キュビト(約2.7m)という巨大なもので、バビロン州のドラの平野に立てられます (3:1、2)。これは当時としては、バベルの塔を思い起こさせるような巨大建造物です。

そして、ネブカデネザル王は人を遣わして、支配地のすべての高官を召集し、像の奉献式に出席させました。そのとき伝令官は大声で、「諸民、諸国、諸国語の者たちよ。あなたがたにこうじられている。あなたがたが角笛、二管の笛、立琴、三角琴、ハープ、風笛、および、もろもろの楽器の音を聞くときは、ひれ伏して、ネブカデネザル王が立てた金の像を拝め。ひれ伏して拝まない者はだれでも、ただちに火の燃える炉の中に投げ込まれる」(3:4-6) と叫びました。

そして、民はみな、それらの楽器の音を聞いたとき、「ひれ伏して、ネブカデネザル王が立てた金の像を拝んだ」(3:7) というのです。

こういうことがあったその時、あるカルデヤ人たちが王の前に進み出て、ダニエルの友人の「ユダヤ人シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴ」のことを訴えて、「王よ。この者たちはあなたを無視して、あなたの神々に仕えず、あなたが立てた金の像を拝みもいたしません」と言いました (3:8-12)。

そこでネブカデネザルは怒りたけって、この三人を召して、「もしあなたがたが、角笛、二管の笛、立琴、三角琴、ハープ、風笛、および、もろもろの楽器の音を聞くときに、ひれ伏して、私が造った像を拝むなら、それでよし。しかし、もし拝まないなら、あなたがたはただちに火の燃える炉の中に投げ込まれる。どの神が、私の手からあなたがたを救い出せよう」(3:15) と脅します。

ここでは、5、7、10、15節の四回に渡って同じ楽器の名が記されていることです。これらの楽器が一度に音を出すとき、それはさぞ壮麗な響きを奏でたことでしょうが、問題は、それらの音を聞くやいなや、すぐにネブカデネザルの像を拝むことが強制されていることです。

これを何度も続けられると、人々は集団催眠にかかったように、一斉に同じ行動を取るようになります。人々は王の命令に自動的に従うロボットのようにされてしまいます。

それに対し三人のユダヤ人たちは、王に向かって、「私たちはこのことについて、あなたにお答えする必要はありません。もし、そうなれば、私たちの仕える神は、火の燃える炉から私たちを救い出すことができます。王よ。神は私たちをあなたの手から救い出します。しかし、もしそうでなくても、王よ、ご承知ください。私たちはあなたの神々に仕えず、あなたが立てた金の像を拝むこともしません」(3:16-18) と大胆に答えます。

ここでは、「しかし、もしそうでなくても」という表現が大きな意味を持っています。たとえば、当時のユダヤ人はみな、神はご自身の住まいとしてのエルサレム神殿を守ってくださると期待していましたが、実際は、このネブカデネザル王がその神殿を破壊しました。それは、ネブカデネザル王の方がイスラエルの神よりも偉大であるということのしるしと見られました。それに対し、このダニエルの友人たちは、目に見える現実が、神の無力さを現しているような状況であったとしても、自分たちの神への忠誠を保つと答えたのです。

神はしばしば、私たちの期待のようには動いてくださいませんが、それは神が無能だからではありません。彼らはここで、神のご計画が人間の目にはわかりえないことを謙遜に告白しているのです。

創世記の終わりの部分のヨセフ物語の例にもあるように、神はヨセフが奴隷に売られたときも、無実の罪で牢獄に入れられたときも、何の救いももたらしてくださらない神のように思えましたが、ヨセフがその中でも忍耐を続けて神に信頼し続けた結果、神は奇想天外な勝利をヨセフに見せてくださったのです。

ところで彼らの返答に対し、「ネブカデネザルは怒りに満ち……炉を普通より七倍熱くせよと命じ」、「この人たちは、上着や下着やかぶり物の衣服を着たまま縛られて、火の燃える炉の中に投げ込まれ」ました (3:19-21)。

その際、「炉がはなはだ熱かったので」、彼らを炉に投げ込んだ人たち自身が、「その火炎に焼き殺された」ほどでした (3:22)。そして、三人のユダヤ人は「縛られたままで、火の燃える炉の中に落ち込んだ」(3:23) のでした。

しかし、そのとき、ネブカデネザル王は、「私たちは三人の者を縛って火の中に投げ込んだのではなかったか」と言いながら、「だが、私には、火の中をなわを解かれて歩いている四人の者が見える。しかも彼らは何の害も受けていない。第四の者の姿は神々の子のようだ」と炉の中に起きている不思議を描きました。

これは、人となる前のキリストが彼らを守ったと解釈されます。神はかつて預言者イザヤを通して、「わたしは、あなたとともにいる……火の中を歩いても、焼かれず、炎はあなたに燃えつかない」(43:2) と約束しておられたことが文字通り実現しました。

それに驚いた王は、「いと高き神」が三人を守ってくださったことを素直に認め、火の燃える炉の口に近づいて、「シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴ」のことを「いと高き神のしもべたち」と呼びながら、「すぐ出て来なさい」と命じました (3:26)。

そして、「太守、長官、総督、王の顧問たちが集まり、この人たちを見たが、火は彼らのからだにはききめがなく、その頭の毛も焦げず、上着も以前と変わらず、火のにおいもしなかった」(3:27) ということに驚きました。

そして、ネブカデネザルは、「ほむべきかな、シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴの神。神は御使いを送って、王の命令にそむき、自分たちのからだを差し出しても、神に信頼し、自分たちの神のほかはどんな神にも仕えず、また拝まないこのしもべたちを救われた」とイスラエルの神の偉大さを認めながら、

同時に、「諸民、諸国、諸国語の者のうち、シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴの神を侮る者はだれでも、その手足は切り離され、その家をごみの山とさせる。このように救い出すことのできる神は、ほかにないからだ」というそれまでと正反対の命令を下しました (3:28、29)。

そして、「それから王は、シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴをバビロン州で栄えさせた」(3:30) というまったくの逆転が起きました。彼らは自分の死を覚悟した結果と引き換えに、栄光を受けたのです。

復活のイエスに出会った後のペテロは、死の脅しにも屈することなく、「人に従うより、神に従うべきです」(使徒5:29) と言いながら福音を宣べ伝え続けました。それは自分の弱さを自覚したペテロのうちに復活の主の御霊が宿っていたからです。

私たちも人生のどこかの場面で、神に従うべきか、人に従うべきかの選択を迫られることがあるかもしれません。そのとき人々のひんしゅくを買いながらも、神への忠誠を保つことこそが何よりの証しになります。多くの人は心の底で、この世の権威に盲目的に従う人を軽蔑し、信念を全うできる人を求めているからです。

2.「王さま、私の勧告を快く受け入れ……貧しい者をあわれんであなたの咎を除いてください」

4章では最初に、ネブカデネザル王が、「いと高き神」こそが世界の支配者であり、その支配は永遠に続くという賛美を書き送るという不思議が描かれます。

その宛先の「諸民、諸国、諸国語の者たち」とは、先に王の命令で金の像を拝んだのと同じ人々を指します。そして、王はどのようなことが自分に起こったのかを知らせようとします。

まず彼は、「私、ネブカデネザルが私の家で気楽にしており、私の宮殿で栄えていたとき、私は一つの夢を見たが、それが私を恐れさせた。私の寝床での様々な幻想と頭に浮かんだ幻が、私を脅かした」(4:4、5) と描きます。

彼は、「バビロンの知者をことごとく」集めて夢の私の前に連れて来させて、その夢の解き明かしを迫りますが、誰もできませんでした。

しかし、最後に、ダニエルがその夢を解き明かしますが、その際、王は、「彼の名は私の神の名にちなんでベルテシャツァルと呼ばれ」と言いながら、「彼には聖なる神の霊があった」と描きます (4:6-8)。

王は、以前と違い、まず自分の夢の内容を告げます。それは王自身が、この夢は自分にとっては差し当たり都合の悪いことを告げているということに心の底で気づいていたからです。たぶん、他の呪法師たちはたとえ夢の解釈ができたとしても、王の怒りを恐れて話すことができなかったことでしょう。

その点、ダニエルとその友人たちは、自分の身の安全よりも天の神への忠誠を大切にするということが証しされていたので、ネブカデネザル王もその解き明かしが真実であることを信頼できたことでしょう。それで王は夢の内容を、4章9-17節で次のように語ります。

呪法師の長ベルテシャツァル。私は、聖なる神の霊があなたにあり、どんな秘密もあなたにはむずかしくないことを知っている……

私の見た幻はこうだ。見ると、地の中央に木があった……その木は生長して強くなり、その高さは天に届いて、地の果てのどこからもそれが見えた。

葉は美しく、実も豊かで、それにはすべてのものの食糧があった。その下では野の獣がいこい、その枝には空の鳥が住み、すべての肉なるものはそれによって養われた……

見ると、ひとりの見張りの者、聖なる者が天から降りて来た。彼は大声で叫んで、こう言った。『その木を切り倒し、枝を切り払え。その葉を振り落とし、実を投げ散らせ。獣をその下から、鳥をその枝から追い払え(4:13,14)。

ただし、その根株を地に残し、これに鉄と青銅の鎖をかけて、野の若草の中に置き、天の露にぬれさせて、地の草を獣と分け合うようにせよ。その心を、人間の心から変えて、獣の心をそれに与え、七つの時をその上に過ごさせよ(4:15、16)……

それは、いと高き方が人間の国を支配し、これをみこころにかなう者に与え、また人間の中の最もへりくだった者をその上に立てることを、生ける者が知るためである』(4:17)。

ネブカデネザルが見た夢には不思議にも、この幻の解釈が含まれています。それが最後の文章です。この部分は、新共同訳では、「すなわち、人間の王国を支配するのは、いと高き神であり、この神は御旨のままにそれをだれにでも与え、また、最も卑しい人をその上に立てることもできるということを人間に知らせるため」とわかりやすく訳されています。

それにしても、これは当時の王にはとうてい理解できないことでした。なぜなら、当時の人々は、地上の王が権力を握ることができるのは、天の神々の意思を理解し、神々の力を受け止めることができた結果であると理解されていたからです。

しばしば、今でも、あの人は格別に信仰深いから、神は彼に力を与えてくれると、人間の信仰心こそが祝福を勝ち取る鍵であると理解されています。それからしたら、「最もへりくだった者」(厳密には『最も低い者』)とは、決して神の好意を勝ち取ることができないような存在を意味します。これは当時の呪術師にも王にも理解できない視点でした。優秀な力ある者こそが、神の好意を勝ち取ることができるという考え方が常識だったからです。

そして、この誤った常識は、現在の多くの人々の世界観をも支配しています。

その上で、王は、「ベルテシャツァルよ。あなたはその解き明かしを述べよ。私の国の知者たちはだれも、その解き明かしを私に知らせることができない。

しかし、あなたにはできる。あなたには、聖なる神の霊があるからだ」(4:18)と述べます。ここに王がダニエルとダニエルの神への信頼が表現されています。

それを聞いたダニエルは、「しばらくの間、驚きすくみ、おびえ」ますが、王の「あなたはこの夢と解き明かしを恐れることはない」ということばに促されて、まず、「わが主よ。どうか、この夢があなたを憎む者たちに当てはまり、その解き明かしがあなたの敵に当てはまりますように」と言いつつ、夢の解き明かしをします (4:19)。

まず第一に、「生長して強くなり、その高さは天に届いて……その葉は美しく、実も豊かで……その下に野の獣が住み、その枝に空の鳥が宿った木」とは、ネブカデネザル王自身を指し、これは、王の偉大さは増し加わって天に達し、主権は地の果てにまで及んでいることを示すものでした (4:20-22)。

しかし、そこに、「ひとりの見張りの者……が天から降りて来て」、「この木を切り倒して滅ぼせ。ただし、その根株を地に残し、これに鉄と青銅の鎖をかけ……天の露にぬれさせて、七つの時がその上を過ぎるまで野の獣と草を分け合うようにせよ」と言いますが、それは、王に起こることであり、

王は、「人間の中から追い出され、野の獣とともに住み、牛のように草を食べ、天の露にぬれ……七つの時が過ぎ」た後に、王は、「いと高き方が人間の国を支配し、その国をみこころにかなう者にお与えになる」と「知るようになるというのです (4:23-25)。

これは、この世の天国から地獄に落とされるようなものです。

ただし、それで終わるのではなくダニエルはその後の希望を、「木の根株は残しておけと命じられていますから、天が支配するということをあなたが知るようになれば、あなたの国は……堅く立ちましょう」と述べながら、

「それゆえ、王さま、私の勧告を快く受け入れて、正しい行いによってあなたの罪を除き、貧しい者をあわれんであなたの咎を除いてください。そうすれば、あなたの繁栄は長く続くでしょう」と大胆にも悔い改めを迫ります (4:26、27)。

ダニエルの勧告は、ネブカデネザル王の夢の最後の部分への解釈として生まれたものですが、このようなことばを他の人が述べたとしたら、たちどころに死刑にされたことでしょう。

人は基本的に、自分は正しい行いをしていると思い込んでいますし、特に、この世の支配者である王は基本的にだれでも、自分は立派な政治をしていると思い込んでいるものです。また、そのような誇りがなければ確信を持って命令を下すこともできません。

ネブカデネザルがこのことばにどのように反応したかは記されていません。彼はダニエルのことばを「いと高き神」から与えられた知恵として受け止めようとしていたことでしょうが、同時に、決して自分を悔い改めの必要な罪人であるとは理解しなかったはずです。

それは箴言の作者も、「人は自分の行いがことごとく純粋だと思う」(16:2) と書いている通りです。

3.「すると私に理性が戻って……いと高き方をほめたたえ、永遠に生きる方を賛美し……」

そして、続いて驚くほど簡潔に、「このことがみな、ネブカデネザル王の身に起こった」(4:28) と記され、それが具体的に描かれます。「十二か月の後、彼がバビロンの王の宮殿の屋上を歩いていたとき」、王は、傲慢にも、「この大バビロンは、私の権力によって、王の家とするために、また、私の威光を輝かすために、私が建てたものではないか」と言います (4:29、30)。

そして、「このことばがまだ王の口にあるうちに、天から声が」届き(4:31)、そこで、「ネブカデネザル王。あなたに告げる。国はあなたから取り去られた。あなたは人間の中から追い出され、野の獣とともに住み、牛のように草を食べ、こうして七つの時があなたの上を過ぎ、ついに、あなたは、いと高き方が人間の国を支配し、その国をみこころにかなう者にお与えになることを知るようになる」と告げられます (4:31、32)。

そして、「このことばは、ただちにネブカデネザルの上に成就し……彼は人間の中から追い出され、牛のように草を食べ、そのからだは天の露にぬれて、ついに、彼の髪の毛は鷲の羽のようになり、爪は鳥の爪のようになった」と、彼の正気が失われ獣と同じ姿に落とされた様子が描かれます (4:33)。

当時は、このようなことが起こると、すぐに新しい王が立てられ、一度失脚した王は二度と権力に戻ってくることができないはずでした。しかし、先にダニエルが、「木の根株は残しておけと命じられていますから」といっていたように、王の復帰への道が奇跡的に残されていました。「七つの時」とは、多くの学者が七年間のことを指すと理解していますが、定かではありません。

ただし、「その期間が終わったとき」と記されながら、再び、ネブカデネザル自身のことばとして、「私、ネブカデネザルは目を上げて天を見た。すると私に理性が戻って来た。それで、私はいと高き方をほめたたえ、永遠に生きる方を賛美し、ほめたたえた」(4:34) と描かれます。

「理性が戻ってきた」ことの結果として、神への賛美が生まれるというのは興味深い表現です。なぜなら、多くに人々が今も、信仰と理性の関係を水と油の関係のように誤解しているからです。しかし、本来、理性は信仰を補強するものでもあります。理性によって主をたたえたいものです。

そして、その賛美の内容は、4章初めと同じに、「その主権は永遠の主権。その国は代々限りなく続く」と表現されながら、「地に住むものはみな、無きものとみなされる。彼は、天の軍勢も、地に住むものも、みこころのままにあしらう。御手を差し押さえて、『あなたは何をされるのか』と言う者もいない」(4:35) と描かれます。

これは、絶対的な権力を握っている地上の王が、天の神こそが真の絶対権力者であることを実体験を通して告白したものです。

その上で、彼は改めて自分に現された神の恵みを、「私が理性を取り戻したとき、私の王国の光栄のために、私の威光も輝きも私に戻って来た。私の顧問も貴人たちも私を迎えたので、私は王位を確立し、以前にもまして大いなる者となった。

今、私、ネブカデネザルは、天の王を賛美し、あがめ、ほめたたえる。そのみわざはことごとく真実であり、その道は正義である。また、高ぶって歩む者をへりくだった者とされる」(4:36、37) と告白します。

ネブカデネザルは、自分の意思で謙遜になることができず、神から理性を奪われ、獣のようにされることによって初めて、神のご支配の意味がわかりました。

ただし、彼がこのようにダニエルの神をあがめることができるようにされたのは、神ご自身がまずネブカデネザルに夢を見させ、ダニエルを通して夢の解釈を聞いていたからです。その際、ダニエルとその友人が、いのちがけで神への忠誠を守り続けたことが何よりも王を立ちなおさせるきっかけになったことでしょう。王は、ダニエルとその友人のことばには権力者におもねる偽りがないと認めたからです。

当時、神はエルサレムにおいては、不思議にも、預言者エレミヤを通して、バビロンの王ネブカデネザルに服従して生き延びるようにと語り続けていました。

一方、バビロンの地では、王の命令に屈することなく、神への忠誠を保つことが証しされていました。一見矛盾することのようですが、この世の王の立場を冷静に見ているという点では一致します。

しばしば、人は、権力者を悪く見すぎて反抗すること自体に生きがいを感じたり、また反対に、絶対化して自分の意思を失ったりするからです。

とにかく、ここで起きたのは、エルサレム神殿を滅ぼした王が、エルサレム神殿の神をあがめるようになるという不思議です。ただ、そのような奇想天外なことが起きたのも、ダニエルとその友人が、命懸けで自分たちにとっての真の王は、ネブカデネザルではなく、イスラエルの神ヤハウェであることを告白した結果です。

私たちもこの世的な成果を求める以前に、日々の生活で、「あなたの王はだれなのか……」という問いに答え続けることが求められています。この世の組織で力を発揮できる人が、必ずしも、神に喜ばれる人ではない、いやそれどころか、しばしば、その逆の現実が多いということを決して忘れてはなりません。

私たちに求められていることは、この世の人々から尊敬されることではなく、いつでもどこでも自分の神をあがめ続けることなのです。