ダニエル7章「キリストの勝利は既に現れている」

2011年6月5日

私たちの周りには、キリストのご支配を見えなくさせる様々な不条理が日々おきます。しかし、聖書をよく読むと、すべての悲惨は神の御手の中にあるということが分かります。

私たちは自分の人生を自分で把握していたいと思いますが、そう思えば思うほど、不安に圧倒されることでしょう。大切なのは、キリストの勝利は既に明らかになっており、キリストの支配は既に歴史の中に現され、完成に向かっているということを知ることではないでしょうか。

なお、イエスはご自身のことを「人の子」として紹介されましたが、当時は、それを聞くときにダニエル7章13節を思い浮かべる人が少なからずいました。まさにイエスの福音はダニエル7章を抜きには語りえないのです。

1.「天の四方の風が大海をかき立て、四頭の大きな獣が海から上がって来た」

「バビロンの王ベルシャツァルの元年に」とありますが、これは5章に記された出来事の少し前の時代で、紀元前552年頃のことと思われます。それはバビロン帝国が538年に滅びる14年前のことです。

そこで、「ダニエルは寝床で、一つの夢、頭に浮かんだ幻を見て、その夢を書きしるし、そのあらましを語った」(7:1) とありますが、これはそれまでと違い、ダニエル自身がイスラエルの民に向かって語り聞かせる夢のような意味があります。

まずダニエルは、「私が夜、幻を見ていると、突然、天の四方の風が大海をかき立て、四頭の大きな獣が海から上がって来た。その四頭はそれぞれ異なっていた」(7:2、3) と記します。これは2章に記された「四つの国」に対応するものです。

ここでは、「天の四方の風が大海をかきたて」とありますが、「風」とは「息」とも訳すことができます。これはまさに「天の風」、「神の息」である聖霊によって大海がかきたてられ、「四頭の大きな獣」が上がって来たというのです。それは途方もなく恐ろしい情景ですが、それを起こしたのは神ご自身の「だというのです。

最近ドイツからの異端的なグループが被災地を回って、今回の悲惨が神のさばきであることを認めるようにと説いて回っていますが、災いの意味を合理的に説明するということは神の領分を侵すことです。

ヨブ記などに明確なように、災いの意味を論理的に説明できた友人たちは神の怒りを買ってしまいました。ヨブは神に必死に問いかけますが、神はヨブに災いの原因を説明しようとはされません。

私たちに本当に必要なのは、災いの理由を知ることではなく、災いが私たちを愛する神の御手の中で起こっていることを知り、神に立ち返ることです。そして、私たちに与えられている確信とは、「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています」(ローマ8:28) という揺るがない希望です。

「第一のものは獅子のようで、鷲の翼をつけていた」(7:4) とありますが、これは明らかにバビロン帝国を指します。獅子は百獣の王と呼ばれるように、強さの代名詞です。そして「鷲の翼」とは襲いかかる速さを象徴していると思われます。

不思議なのは、「見ていると、その翼は抜き取られ、地から起こされ、人間のように二本の足で立たされて、人間の心が与えられた」という描写ですが、これは先にネブカデネザル王がその傲慢さをさばかれ、野の獣と同じように理性を失った状態にまで落とされた後で、再び理性を取り戻したということを指しています。

ブレーズ・パスカル は、「人間はひとくきの葦に過ぎない。自然の中で最も弱いものである。だが、それは考える葦である」と言いましたが、それはしばしば誤解されるように、人間の理性の力を称えるという意味ではありません。これは、まさにその反対に、人間のすばらしさは、自分の頼りなさや弱さを知ることができるということを意味していました。

自分の強さをアピールして周りを威嚇するというのは、動物的本能であって、神のかたちに創造された賢い人間のすることではありません。真に知恵ある者は、神と人との前に謙遜になることができるはずです。

そして、「第二の獣」は「熊に似」ていて、その不思議な姿が、「横ざまに寝ていて、その口のきばの間には三本の肋骨があった」と描かれます(7:5)。これはメディヤとペルシャの連合国を指すと思われ、ペルシャの方がはるかに強いのが「横ざま」に寝る姿に現れ、その「口のきばの間」に「三本の肋骨」があるのは、三つの国々を次々に滅ぼしたことを指すと思われます。

そして、「それに、『起き上がって、多くの肉を食らえ』との声がかかった」とありますが、これはバビロン帝国をも飲み込むようにとの勧めだと思われます。

この後、突然」に現れるのが、第三の獣で、それは「ひょうのような」姿でした (7:6)。それは足の速さを示します。そればかりか、「その背には四つの鳥の翼」があって、自由に飛び回ることができ、「四つの頭」によって四つの方向を一度に見て襲いかかることができることを現します。

これはギリシャのアレキサンダー大王がたちどころに当時の世界を支配して、それが四つの国に分かれることで成就したとも思われます。そして、「それに主権が与えられた」とは、この驚くべき支配が、この大王の天才に帰せられるというよりは、天の神の導きによるということです。

古代世界の公用語がギリシャ語になったのは、ひとえにそのためです。そして、旧約聖書も紀元前250年前後にギリシャ語に翻訳される(七十人訳)ことによって、世界中で読まれるようになってゆき、それがイエス・キリストの誕生の舞台となってゆきます。まさに神のみわざです。この第三の国については、8章でなお詳しく描かれます。

この書では特に、紀元前330年前後のアレキサンダー大王の支配から紀元前170年前後の アンティオコス・エピファネス までのことが詳細に描写されているように見えます。それで、多くの学者は、この書はこれらの出来事の後に、ダニエルの名前を借りて記されたと解釈します。

確かに聖書の預言の本質は、後の時代の流れを詳細に描写することにはありませんし、神が予めダニエルにその後の歴史を語って聞かせ、歴史がその通りに動いたということであれば、まるで神が人間を将棋のこまのように動かしているとも誤解されます。それではそこで悩みながら、いのちをかけてでも理想を実現しようとする人間の努力があまりにも軽く見られていることになってしまいます。

しかし、よく見ると、この預言は極めて象徴的なもので、現実の歴史の動きの後で初めて意味がわかるという性格のものです。

しかも、それが実現する時代の記述もありませんから、ノストラダムスの大預言 などという未来予測の書とは根本的に異なります。基本的には、それぞれの王国の変遷には人間の罪の性質が現れています。

バビロン帝国は全土をひとつのカルチャーの下にまとめるという強権政治によって成り立っていましたが、ペルシャ帝国はその反動で、各民族の自主性を尊重する政策によってより広い領土を支配しました。しかし、そこでは宮廷儀式や政治的な権威が形骸化して、現実への対処能力を失い、組織の硬直化が起こり、有能な独裁者を人々が待ち望むようになります。

しかし、独裁者の後には必ず、複数の独裁者による領土の分割と領土争いが生まれます。神はダニエルを通して、人間の歴史がそのようなことの繰り返しであることを示したと言えましょう。

そして、その原則は現在の日本の政治にも適用できます。今、多くの日本人は、硬直化した体制を崩す有能な独裁者を求めているのかもしれません。しかし、そこには同時に、その後の内紛や戦争の危険が伴います。

私たちはやはり、神が、エルサレム神殿が廃墟とされた時代に生きた現実のダニエルを通して、歴史の流れをより広く高い視点から見るようにと、その後のことを生き生きと記させたと理解したいと思います。

実際には、イエスが誕生した頃のユダヤ人の間では、ダニエル書が非常に愛読されていました。それは、ダニエルの預言が、まさに恐ろしいほどに正確にバビロン捕囚後の世界の歴史を描いていたからです。

しかし、ここに記された預言は、この時代だけに適用されるものではなく、今の私たちの時代をどのように見るべきかの指針でもあります。

2.「第四の獣は殺され……燃える火に投げ込まれる」

「その後また、私が夜の幻を見ていると、突然、第四の獣が現れた」(7:7)とありますが、これは2章に記されていた鉄と粘土で成り立っている第四の国に相当します。

そして、その獣の様子が、「それは恐ろしく、ものすごく、非常に強くて、大きな鉄のきばを持っており、食らって、かみ砕いて、その残りを足で踏みつけた。これは前に現れたすべての獣と異なり、十本の角を持っていた」と描かれます。これは無敵のローマ軍の攻撃力を示唆するものです。「十本の角」とは、通常の動物の二本の角の五倍の威力を持つという圧倒的な力の象徴表現です。

しかも、「私がその角を注意して見ていると、その間から、もう一本の小さな角が出て来たが、その角のために、初めの角のうち三本が引き抜かれた。よく見ると、この角には、人間の目のような目があり、大きなことを語る口があった」(7:8) と描かれます。

これはその強大な王国の中で、人知れず新しい王が生まれ、この国の三人の王をもしのぐ勢力となり、「大きなことをかたる口」という傲慢さこそがこの新しい王の特徴となるということです。

そのような中で、ダニエルは、「私が見ていると、幾つかの御座が備えられ、年を経た方が座に着かれた」と全世界の創造主であられる方が、王座の中心にただひとり座り、この世界にさばきを下すという様子が描かれます (7:9)。「その衣は雪のように白く」とは、この世のすべての汚れを超越した神の聖さを現し、「頭の毛は混じりけのない羊の毛のようであった」とは、神の知恵がこの世のあらゆる知恵を凌駕する純粋なものであることを示します。また、「御座は火の炎、その車輪は燃える火で、火の流れがこの方の前から流れ出ていた」(7:9、10) とは、ローマ軍の戦車隊をたちどころに追い散らすような神の攻撃力を示す表現です。

そしてそこには、「幾千のものがこの方に仕え、幾万のものがその前に立っていた」と、この世の王がおびただしい家臣を従えているのにまさる神の権威が示されます。

その上で、この方のさばきの様子が、「さばく方が座に着き、幾つかの文書が開かれた」と描かれます。これは、神のもとには、この世の王や支配者の行いが正確に記された文書があり、神はその人の行いに従って公平な、誰もが納得せざるを得なくなるようなさばきを下すということを表します。

そして、神の明確なさばきのことが、「私は、あの角が語る大きなことばの声がするので、見ていると、そのとき、その獣は殺され、からだはそこなわれて、燃える火に投げ込まれるのを見た」(7:11) と描かれます。これは第四の獣から生まれた三人の王をしのぐ強力な王が、自分を神であるかのように傲慢に誇ったことへの報復です。

なお、「残りの獣は、主権を奪われたが、いのちはその時と季節まで延ばされた」(7:12) というのは不思議です。なぜなら第一の王国がバビロン帝国、第二の王国がペルシャ帝国、第三の王国がギリシャ帝国を具体的に指していたすとすれば、これらの王国はそれぞれに続く王国によって滅ぼされ、消え去ったはずで、残っていることが不思議だからです。

ですから、この預言の中心は、紀元前六世紀から紀元一世紀にわたる具体的な期間を指すというよりは、この世に繰り返し現れる異なった王国の特徴を描いたものということができるのではないでしょうか。

3.「見よ、人の子のような方が天の雲に乗って来られ……」

7章13節の「私がまた、夜の幻を見ていると」という書き出しは7章2節の「四頭の大きな獣」の現われと並行関係にあります。獣が四頭の獣が海から上がってくるのに対して、ここでは、「見よ、人の子のような方が天の雲に乗って来られ、年を経た方のもとに進み、その前に導かれた」と描かれます。

しばしば、「天の雲に乗って来る」ことが、天から地に降るイメージと誤解されますが、「来られ」とは場所の移動以上に「現れ」を指す言葉と理解できます。しかも、「天の雲」とは、孫悟空の場合のような移動の手段ではありません。聖書では、「天の雲」というのは「神の栄光の現れ」を意味します。

ですからここでは、「獅子のような」また「ひょうのような」獣の「現われ」との比較で、「人の子のような方」の「現われ」が、「天の雲」という栄光に包まれている様子が強調されています。

そして、その方は、天から地に「下る」のではなく、「年を経た方のもとに進み、その前に導かれる」という栄光の御座に引き上げられるという「上昇」の動きを指し示しています。

そして、そのことの具体的な意味が、「この方に、主権と光栄と国が与えられ、諸民、諸国、諸国語の者たちがことごとく、彼に仕えることになった。その主権は永遠の主権で、過ぎ去ることがなく、その国は滅びることがない」(7:14) と描かれます。

「ひょうのような獣……に主権が与えられた」(7:6) とは、何よりもアレキサンダー大王のような支配のことでした。彼はギリシャ北部のマケドニア地方の王として即位して六年もしないうちにペルシャ帝国やエジプト王国を次々と滅ぼし世界帝国を築きますが、彼はその七年後には病死し、その王国は分裂します。世界史上これほどはかない王国はありません。

それに対して、「人の子のような方……に、主権と光栄と国が与えられた」ときの支配は、この方が当時の別の文化圏であったインドや中国を含む文字通り全世界に及ぶ王となり、また、その方の支配は、「永遠の主権で、過ぎ去ることがなく、その国は滅びることがない」と言われているのです。

私たちは「人の子のような方」として現れるキリストの支配を、この世離れした霊的なことと矮小化して捉えてはいないでしょうか。

イエスの時代の人々は、ダニエル7章13節に描かれた救い主の現われを待望していました。彼らは、そこに大帝国の具体的な興亡が描かれていることに感動し、アレキサンダー大王に勝る救い主が現れ、イスラエル王国を中心に世界がまとめられることを夢見ていました。

イエスも、そのような期待を否定するどころか、ダニエル書のことばを用いてご自分を「人の子」と紹介していました。事実、イエスは、エルサレム神殿の壮麗さに感動する弟子たちに、神殿の崩壊に続く苦難の時代に起こる救いのことを、「そのとき、人の子のしるしが天に現れます。すると、地上のあらゆる種族は、悲しみながら、人の子が大能と輝かしい栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見るのです」(マタイ24:30) と、ダニエル7章13節を引用しつつ、ご自身が神の国を完成に導くという過程を描いています。

そしてイエスは、ユダヤの最高議会で裁判を受けられたとき、大祭司が彼に、「あなたは神の子キリストなのか、どうか、その答えを言いなさい」と迫ったとき、「あなたの言うとおりです」と言ったばかりか、「なお、あなたがたに言っておきますが、今からのち、人の子が、力ある方の右の座に着き、天の雲に乗って来るのを、あなたがたは見ることになります」と言われました。そして、大祭司はこのことばを聞いたとたん、これが神を冒涜することばであると断言し、満場一致での死刑が確定したのです。

つまり、イエスが死刑になった最大の理由は、ご自分をダニエル7章13節が描く救い主であることを明言したことによるのです。しばしば、これはキリストの再臨を現すことばとしてのみ理解されますが、ダニエルの文脈でも明らかなように、またイエスご自身が、「今からのち」と強調されたように、救い主の栄光はすぐに現れました。それは十字架上の姿であり、何よりも、栄光の復活を表します。

初代教会の最初の殉教者ステパノは裁判の席で、聖霊に満たされながら、「見なさい。天が開けて、人の子が神の右に立っているのが見えます」(使徒7:56) と証ししたとたん、人々は、冒涜のことばを聴くまいとして「耳をおおい」ながら、彼に殺到して石で打ち殺しました。

それほどに、ダニエル7章13節のことばは、イエスを救い主と認めるか、また反対に神への冒涜者であると断罪するかの分かれ道になる決定的なみことばであったのです。

4.「国と、主権と、天下の国々の権威とは、いと高き方の聖徒である民に与えられる」

この幻は、ダニエルの心に希望や喜び以前に「悩み」をもたらし、彼に「脅かし」をもたらしました (7:15)。そのことがこの幻の解き明かしのあとに再び記されます (7:28)。それは、この幻は、地上的な意味での楽観論を否定し、当面の世界に戦いが続くことを示しているように思えたからではないでしょうか。

なお、2章4節から続いたアラム語表現は7章の終わりで閉じられます。そして、ここではまず、この幻の「解き明かし」がダニエルに示されます。

まず第一に、この幻が示していることの結論部分が、「これら四頭の大きな獣は、地から起こる四人の王である。しかし、いと高き方の聖徒たちが、国を受け継ぎ、永遠に、その国を保って世々限りなく続く」(7:17、18) と要約され、神の国の完成への希望が大胆に告げられます。私たちも「いと高き方の聖徒たち」として、キリストとともに王とされます (黙示20:6、22:5)。

多くの人々は、「世の終わり」などということばとともに、世界的な戦争や飢饉や地震や大津波や火山の噴火などを思い浮かべがちかもしれませんが、聖書が描く世界のゴールは、神の平和(シャローム)が全世界を覆い、愛の交わりが完成するときであるということを決して忘れてはいけません。

聖書が示す真の意味での「終末」とは、世界の「終わり」というよりは、歴史の「目的地」を現す概念なのです。

その上で「第四の獣」のことが、改めてその破壊力の強大さが強調され (7:19)、その上で、第四の獣の内部で権力闘争が起き、最後に三人の王を打ち倒した者が、反キリストとして聖徒たちを一時的な敗北に追いやる様子が、「その角には目があり、大きなことを語る口があった……その角は、聖徒たちに戦いをいどんで、彼らに打ち勝った」(7:20、21) と描かれます。

しかし、その直後に、「それは年を経た方が来られるまでのことであって、いと高き方の聖徒たちのために、さばきが行われ、聖徒たちが国を受け継ぐ時が来た」(7:22) と記されます。それは、神の民が一致団結して反キリストに勝利を収めるのではなく、神ご自身が第四の獣をたちどころに滅ぼすからです。

その後、第四の獣の一時的な勝利と最終的な滅亡へのプロセスのことが再び描かれながら、ここでは特に、反キリストのことが、「彼は、いと高き方に逆らうことばを吐き、いと高き方の聖徒たちを滅ぼし尽くそうとする。彼は時と法則を変えようとし、聖徒たちは、ひと時とふた時と半時の間、彼の手にゆだねられる。しかし、さばきが行われ、彼の主権は奪われて、彼は永久に絶やされ、滅ぼされる」(7:23-26) と記されます。

「ひと時とふた時と半時の間」とは、黙示録などにも繰り返されるサタンの勢力が全地を混乱に陥れる「三年半」という短い期間の象徴です。

それに対して、神がサタンの勢力を縛る期間が「千年の間」と表現されます。これはサタンの力が猛威をふるう期間が短く限定されている一方で、サタンを徹底的に抑える期間は途方もなく長いということを示します。

実際の歴史でも、大迫害の期間は「束の間」に過ぎませんでした。たとえばローマ帝国では 皇帝ディオクレチアヌス のもとでの大迫害は有名ですが、それは約二年間にも満たない期間の後に皇帝は引退し、その直後、キリスト教を擁護する 皇帝コンスタンチヌス が勢力を持ち、帝国をキリスト教化します。

日本でも第二次大戦中に大迫害がありましたが、それも数年間のことで、戦後はすぐにキリスト教会の爆発的な成長に転じます。

ですから、しばしば「大患難期」として恐れられる時期は、世の終わりの特定の期間を指すという以前に、この歴史に中に何度も起こった大きな苦難の時期が、神の御手の中で、常に限られた短い期間であったことを示すものです。

最後に、私たちの希望が、「国と、主権と、天下の国々の権威とは、いと高き方の聖徒である民に与えられる。その御国は永遠の国。すべての主権は彼らに仕え、服従する」(7:27) と描かれます。キリストに従う聖徒たちはすべて、この永遠の祝福の中に招き入れられます。これこそが「永遠のいのち」です。

私たちは苦しみに会うとき、その期間が永遠に続くような錯覚に陥ります。しかし、本当に苦しい時期はほんの一瞬に過ぎません。それに耐えさえしたら、後には永遠の祝福が待っているのです。

そのことを思いながらパウロは、「ですから私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです」(Ⅱコリント4:16、17) と告白しています。

多くの人々は、自分の理性と努力で、環境をより住みやすく平和なものに変えることができると信じて休む間もなく働き続けてきました。確かに、前向きな考え方には、人生をより美しくする力があります。しかし、そのような発想では、解決できない問題があります。

そればかりか、それでは、努力が正当に評価されない事態に陥ったときに、かえって出口のない絶望に追いやられます。私たちはもっと長い目で、キリストの支配の現われを見る必要があるのではないでしょうか。

努力自体が必然的に実を結ぶのではなく、キリストご自身が、私たちの思いを超えた時間の流れの中で、人の想像を超えた形で、私たちの努力に実を結ばせてくださるという真理を覚えたいものです。

キリストはダニエル7章を用いて、ご自身の救いの壮大さを語ってくだったということを改めて感謝しましょう。