マルコ4章1〜34節「百倍の実を結ぶ神のみことば」

2011年6月12日

誰かの講演を聞いたとき、「先生のお話はとってもわかりやすく、実生活に役立つものでした」というのは、最高の賛辞になります。しかし、聖書のお話しでそれを望むことは、ときに、邪道に陥ります。なぜなら、イエスはときに、敢えて、簡単に理解されることがないことばを話されたからです。しかし、それは不思議に、心に残ることばでした。

ヨハネの福音書の冒頭には、「初めに、ことばがあった・・・すべてのものは、この方によって造られた・・・ことばは人となって、私たちの間に住まわれた」(1:1,3,14)と記されています。神は、「ことば」によって世界を創造し、「ことば」によって世界を贖い、「ことば」によって世界を完成に導いておられます

ある意味で、聖書のことばはわかりにくくて当然とも言えます。わかりやすく訳そうとしすぎることは、神の言葉を人間のことばに変えてしまうことになりかねません。今はわからなくても、何とも言えず、心に残るみことばがあります。そのみことばは世界を創造した神のみことばの一部です。そして、それがあるとき、心の底に落ちて、あなたを再創造することができるのです。

私はメッセージのたびに、「この感動をわかってほしい!」という思いが先行しがちだったかと反省しています。しかし、そのようになればなるほど、みことばの権威が隠されてしまう可能性があるかもしれないとも思いました。

ある先生がメッセージの最初に、「眠い人はどうぞお休みください。しかし、人のじゃまにならないように、いびきはお控えください・・・」と言っていました。そこに隠された深い意味が、今、改めてわかった気がしています。

今日はペンテコステですが、聖霊の働きは人間的なはからいを超えたところで、みことば自体を通して見られるからです。

1.「心をかたくなにするメッセージ」

「イエスはまた湖のほとりで教え始められた。おびただしい数の群衆がみもとに集まった。それでイエスは湖の上の舟に乗り、そこに腰をおろされ、群衆はみな岸べの陸地にいた」とは、イエスご自身がより多くの会衆にご自身のことばを伝える工夫をされたことを示しますが、不思議にも、同時に、「イエスはたとえによって多くのことを教えられた」と記されています(4:1、2)。

これは、イエスが、敢えて聴衆がすぐには理解できない話をされたという意味です。特に、この種まきのたとえは、日常的なことばが用いられ心に残り易いのですが、解釈は極めて困難です。

「よく聞きなさい。種を蒔く人が種蒔きに出かけた。蒔いているとき、種が道ばたに落ちた。すると、鳥が来て食べてしまった。また、別の種が土の薄い岩地に落ちた。土が深くなかったので、すぐに芽を出した。しかし日が上ると、焼けて、根がないために枯れてしまった。また、別の種がいばらの中に落ちた。ところが、いばらが伸びて、それをふさいでしまったので、実を結ばなかった。また、別の種が良い地に落ちた。すると芽ばえ、育って、実を結び、三十倍、六十倍、百倍になった。そしてイエスは言われた。『聞く耳のある者は聞きなさい。』」(4:3-9)。

イエスは話の最初と最後で、「聞きなさい」ということばを強調しておられます。これを聞いた人々は、イエスがなぜ、このようなたとえを用いて話されたかの意図はわかりませんでしたが、それは忘れられないような強い印象を残したのではないでしょうか。

せっかく種が蒔かれたのに、「道ばた」「岩地」「いばらの中」に落ちた種は無駄になってしまいました。それは何とも言えない失望感を残すたとえです。しかし、「良い地」に落ちた種にはダイナミックな希望が生まれ、それが、「三十倍、六十倍、百倍」の実を結んだというクライマックスを生む表現で記されます。

このようなたとえは、神が、しばしば、夢や詩文を通して語られたことに似ているかもしれません。

そしてこの後のことが、「さて、イエスだけになったとき、いつもつき従っている人たちが、十二弟子とともに、これらのたとえのことを尋ねた」と記され、それに対するイエスの答えが、「あなたがたには、神の国の奥義が知らされているが、ほかの人たちには、すべてがたとえで言われるのです。

それは、『彼らは確かに見るには見るがわからず、聞くには聞くが悟らず、悔い改めて赦されることのないため』です」と記されています(4:10-12)。

この引用は、イザヤ6章9、10節の要約です。それは、「心をかたくなにするメッセージ」と呼ばれています。ただ、その前に、預言者イザヤはセラフィムの賛美とともに神の栄光を拝し、燃え盛る炭によってくちびるがきよめられ、罪を贖っていただいた様子が描かれています。その上で、主が、「誰を遣わそう。誰がわれわれのために行くだろう」と言っておられる声を聞いて、「ここに私がおります。私を遣わしてください」と応答しますが(6:8)、その上で託されたメッセージは奇想天外なものでした。

それは、「聞き続けよ(聞いて、聞け)。だが悟るな。見続けよ(見て、見よ)。だが知るな」(6:9)という矛盾に満ちたものです。それによって、「この民の心を肥え鈍らせ、その耳を遠くし、その目を堅く閉ざせ」というのです。

つまり、敢えて、理解されることがないように語れというのです。しかも、その目的は、彼らが「自分の心で悟らず、立ち返っていやされることのないため」だというのです。つまり、彼らが、「私は洞察力が鋭いから、自分の力で悟った!」などと自分を誇ることがない状態を作り出すことです。

この不思議なみことばは、四つの福音書すべて、また使徒の働きとローマ人への手紙の二箇所で引用されているほどで、イエスやパウロによって語られた福音が実を結ぶことのなかった理由の説明に用いられています。それによって「救い」は、人間の力ではなく、主ご自身の「恵みの選び」(ローマ11:5)によるということが明らかにされます。

宣教に関しての私たちの使命は、結果を出すことではなく、みことばを分かち合うことです。イザヤの働きが、その時代には何の理解も得られず、その労苦は実を結ばなかったのは、まさに主のみこころだったのです。

イザヤの預言の意味が理解されるようになったのは、イスラエルの民がバビロン捕囚という苦難を体験した後のことでした。ただ、彼はその前にマナセ王に殺されました。またイエスの弟子ペテロが、神の国の福音を真に理解できたのは、イエスを三度知らないと否認するという挫折体験の後でした。

残念ながら、人は、自分の無力さや罪深さを思い知らされるまで、福音を「心で」理解することができない傾向があります。私たちも、みことばを学び、またそれを伝えながら、何の変化も見えなくて空しくなることがあります。しかし、それは、みことばが無力なのではありません。イエスのみことばは、分かり易く、心に残り易いのですが、時が来なければ心の底に落ちないのです。

たとえば、イエスは、「心の貧しい者は幸いです」「悲しむ者は幸いです」と不思議なことを言われましたが、どう考えても、「心(霊)が貧しい」ことや「悲しむ」ことを「幸い」と言うのは言葉の矛盾です。これは簡単に納得してはいけないことばです。しかし、ふと、自分の心の貧しさに打ちひしがれたり、圧倒的な悲しみに直面したとき、この逆説に込められたイエスの愛と慰めが迫ってくることがあります。

しかし、本当に落ち込んでいるときには聖書を開く気にもならないということがありますので、普通の状態のときにみことばを蓄えて置く必要があるのです。

2.「みことばを聞いて受け入れ、三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶ人たち」

しかし、イエスは弟子たちを責めるかのように、「このたとえがわからないのですか。そんなことで、いったいどうしてたとえの理解ができましょう」(4:13)と言います。イエスはある意味で、弟子たちがまだそれを理解できなくても当然と思える状態の中で、彼らが必死に理解しようと心を集中するようにと、注意を喚起するような言い方をします。イエスのひとつひとつのことばには眠った心を目覚めさせるような言い回し(レトリック)が満ちています。

まずイエスは、このたとえの中心が神のことばにあることを、「種蒔く人は、みことばを蒔くのです」(4:14)と言います。実は、旧約聖書に一貫して流れるテーマは、神からすばらしい「教え(律法)」を与えられ、それを守れば幸せになれるはずだったのに、それができなかったということです。その理由が、ここで三つの観点から描かれます。

第一は、空の鳥が種を食べるように、サタンが人の心に蒔かれたみことばの種を持ち去ったということです。これは、アダムとエバの最初の堕落が代表例です。今も、新興宗教は、聖書のみことばを、文脈を無視して、数多く乱用して信用を失わせながら、「蒔かれたみことばを持ち去ってしまう」(4:15)ことを続けています。

第二は、岩の上にまかれた種のように、すぐに芽を出しますが、根をはることができないで、試練がくるとすぐに枯れてしまうということです。事実、イスラエルの民は最初に律法を受けたとき、「主の仰せられたことは、みな行ないます」(出エジ24:1)と、「すぐに喜んで受け」(4:17)ましたが、驚くべきことに、そのように約束した直後、金の子牛を作って拝み、また、カナン人の強さを知ってエジプトに帰りたいと言い出してしまいました。今も、涙を流してみことばに感動したはずの人が、いつのまにか「つまずいて」(4:17)、消えているということがあります。

第三は、いばらの中に落ちた種のように、その成長が押しふさがれてしまうということです。イスラエルの民は、約束の地で豊かになったとたん、「世の心づかいや、富の惑わし、その他いろいろな欲望が入り込んで」、神の恵みを忘れてしまいました。モーセはそれに対し、「あなたは心のうちで、『この私の力、私の手の力が、この富を築き上げたのだ』と言わないように気をつけなさい。あなたの神、主(ヤハウェ)を心に据えなさい」(申命記8:17,18)と警告していました。

それは、現代的な危険でもあります。何か問題が起きても、すべてハウ・ツーで解決しようとばかりしてしまい、主にすがり、主のみことばに聞くということを忘れてしまいがちではないでしょうか。なお、「みことばをふさぐので、実を結びません」(4:19)とは、「みことばを窒息させ、生み出せなくなる」とも訳せる言葉です。残念ながら、外面的には敬虔な信仰者に見えても、内面では、霊的ないのちが窒息しているということがあります。

このたとえは、しばしば、みことばを聞く人間の姿勢を正すために用いられますが、そのような勧めばかりが先行すると、このたとえの本質を見失います。そればかりか、みことばの力よりも、自分の信仰の姿勢ばかりに目を向けると言うナルシズムに陥りかねません。

たとえば、「あなたの心は、道ばただ、岩地だ、いばらで満ちている」などと責めても、どうして、自分の心の土地の改良を自分で行うことができるでしょう。岩地は岩地でしかあり得ないのです。それを責めるなら、かえって、人を自己嫌悪に追い込むだけではないでしょうか。

これは何よりも、イスラエルの歴史を振り返えるためのたとえではないでしょうか。そのようにみことばを受けながらも堕落をして行く民を見られた神は、預言者イザヤを通して、「雨や雪が天から降ってもとに戻らず、必ず地を潤し、それに物を生えさせ、芽を出させ、種蒔く者に種を与え、食べる者にはパンを与える。そのように、わたしの口から出ることばも、むなしく、わたしのところに帰っては来ない。必ず、わたしの望む事を成し遂げ、言い送った事を成功させる」(イザヤ55:10、11)と、みことば自身が歴史を動かしているという驚くべきことを言いました。

そして、そのようにして神は、「まことに・・・山と丘は、あなたがたの前で喜びの歌声をあげ、野の木々もみな、手を打ち鳴らす。いばらの代わりにもみの木が生え、おどろの代わりにミルトスが生える・・」(イザヤ55,12,13)という新しい世界をご自身のみことばが造り出すと約束されました。

そのことを思い浮かべながら、ここで、イエスは、今、ご自身の弟子たちによって、新しい時代、みことばが豊かな実を結ぶことができる時代が到来しつつあることを、「良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いて受け入れ、三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶ人たちです」(4:20)と言ったのではないでしょうか。そしてイエスは、ご自身こそ、それをもたらすことができる救い主だと宣言されたのです。

ですから、「良い地」(8:15)とは、キリストに結びついている弟子たちのことを指しているのです。肉のイスラエルができなかったことを、彼らはできるようになり、神の民が全世界に増え広がりました。イエスが遣わされた聖霊は、彼らのうちに「正しい、良い心」を創造し、みことばを「守る(たくわえる)」ことを可能にします。それは、イエスの母マリヤのように、みことばを「心に納めて、思い巡らす」(2:19)ことです。

そして、初代教会の人々は迫害に「よく耐えて」、その結果、福音が爆発的に広がりました。つまり、イエスは、弟子たちに対して、「良い地になれ!」と命じたというより、神のみことばが百倍の実を結ぶ時代が到来したことを告げているのです。私たちは、ペンテコステの日に与えられた聖霊の働きと、みことばにある神秘的な「力」を、余りにも軽く扱ってはいないでしょうか?

3.「持っている人はさらに与えられる」

イエスは「神の国の奥義」を隠して伝えるために「たとえ」を用いられました。それは、禅宗における公案に似ているのかもしれません。たとえば、「片手で拍手するときの音を聞いて教えよ」などという問いがあったとき、不思議に心が動かされ、日常的な常識感覚を超えた発想を求めようとする契機になるかもしれません。

ただし、禅宗では基本的に公案を大量に印刷して配布するなどということはあり得ませんが、イエスの教えはたとい理解されなくても、より多くの人々に知られることが求められます。

そのことをイエスは、「あかりを持って来るのは、枡の下や寝台の下に置くためでしょうか。燭台の上に置くためではありませんか」(4:21)と言いました。これは、自分が示されたみことばの真理を、自分だけの心にしまいこみ、隠してしまうことにならないようにという警告です。私たちは何よりも、みことばの「光」を分かち合うことが求められています。

なお、「隠れているのは、必ず現れるためであり、おおい隠されているのは、明らかにされるためです」(4:22)というのは不思議な表現です。これは、厳密には、「現されるということ以外のために、隠されているものは何もなく、また、明らかにされること以外のために、秘密にされることはない」と訳すことができます。

これは、「かくれんぼ」の遊びに似ています。人は、見つけてもらうために隠れます。同じように、神は、真理を心から理解してもらいたいと願っているからこそ、簡単には理解できないように、敢えて「隠し」、また「秘密にしておられるのです。

たとえば、イエスは、何の罪もないのに、無力な犯罪人の姿で十字架にかけられました。この逆説はまさに、人のあらゆる想像を超えた神の愛と痛みを現すためでした。十字架の神秘は簡単にはわからないからこそ、罪の自覚を持った人に驚くべき感動を与えるのです。

同じように、世界の悲惨の背後に神はご自身を隠しておられますが、それは、私たちが自分を越えた神の視点から神のみことばこそが歴史を動かし、支配していることを知るためなのです。

そして、イエスは再び、「聞く耳のある者は聞きなさい」と言われました(4:23)。これは9節と基本的に同じ表現ですが、この両者とも、厳密には、「聞く耳のある者には、聞かせなさい」と訳すことができます。単に、「聞け!」と迫るのではなく、「心の耳を存分に働かせてあげなさい」とチャレンジしているのです。

イエスのたとえは、何よりも、「神の国の奥義」を知りたいという渇きを起こさせ、心から知りたいと願う人にだけ「奥義」を知らせるものです。

またイエスは、「聞いていることによく注意しなさい」と念を押しながら、「あなたがたは、人に量ってあげるその量りで、自分にも量り与えられ、さらにその上に増し加えられます」(4:24)と言われました。これは翻訳上の問題があります。「人に」ということばは原文にはありません。新共同訳では、「あなたがたは自分の量る秤で量り与えられ、さらにたくさん与えられる」と訳されています。これは、みことばを軽く受け止めるような秤を持っている人は、その同じ基準で神から軽いものしか量り与えてもらえないということを意味します。

つまり、みことばの重さを理解できる人は神から豊かな恵みを受け取ることができるばかりか、その恵みはどんどん増えて行くという意味です。その反対に、みことばを軽く受け止める人は、本当に損な生き方を自分で選んでしまっているというのです。

そのことがさらに、「持っている人は、さらに与えられ、持たない人は、持っているものまでも取り上げられてしまいます」(4:17)と言われます。つまり、みことばを自分のものとして「持っている人」はますます豊かにされる一方、神の恵みによって豊かにされながら、それを忘れる人は、持っているものまで取り上げられてしまうということを指しています。

イスラエルの民が、約束に地で豊かになったあとで、神の恵みを忘れ自分の力を誇ってしまったことに対し、神のさばきが下され、彼らはすべてを失ってしまいました。それは、私たちにとっての大きな警告です。

これは、また、聖霊を受けている」人が、一見貧しいようでも、ますます豊かにされるという約束と理解できます。一方、どんなに豊かな知性を持っていても、聖霊を持たない人は、神のみことばの奥義を知ることはできません。なお、聖書によると、「イエスは主です」と告白させてくださるのは、聖霊ご自身ですから(Ⅰコリント12:3)、全てのクリスチャンは聖霊を受けています。

私たちはもはや、実を結ばない旧約の時代の民ではなく、今は、豊かな実を結ぶことが可能にされました。私たちは聖霊によって、「あなたの敵を愛しなさい。あなたを憎む者に善を行いなさい・・・」(6:27)というみことばを実践できます。

しかも、それは不思議に、「私には無理です!」と、神に向かって叫んでいる時に可能になるという逆説もあります。そうして、私たちのまわりに「神の平和」、「神の国」が広がります。

またイエスは、「神の国」の成長の不思議さをふたつのたとえで話します。第一は、「神の国は、人が地に種を蒔くようなもので、夜は寝て、朝は起き、そうこうしているうちに、種は芽を出して育ちます。どのようにしてか、人は知りません。地は人手によらず実をならせるもので、初めに苗、次に穂、次に穂の中に実が入ります。実が熟すると、人はすぐにかまを入れます。収穫の時が来たからです」(4:26-29)と言われました。私たちはみことばの種を蒔きますが、しばしばその成長のプロセスは「人は知りません」とあるように隠されています。

しかし、「良い地」に落ちた種は、時か来たら必ず実をならせることができます。それは小さな種自体の中に成長の力が込められているからです。ですから、私たちは、失望することなく、種を蒔くべきなのです。大人になってからイエスを主と告白するようになる人の多くは、昔、日曜学校に通っていたとかミッションスクールに行ってことがあると言っています。

またイエスは、「神の国は、どのようなものと言えばよいでしょう。何にたとえたらよいでしょう。それはからし種のようなものです。地に蒔かれるときには、地に蒔かれる種の中で、一番小さいのですが、それが蒔かれると、生長してどんな野菜よりも大きくなり、大きな枝を張り、その陰に空の鳥が巣を作れるほどになります」(4:30-32)と言われました。

小さな種の中に、驚くほど大きな力が秘められています。それと同じように、人の心の中に根付いたみことばは、人の行動を変え、その集まりである神の国を驚くほどダイナミックに成長させることができるのです。

そして最後に、「イエスは、このように多くのたとえで、彼らの聞く力に応じて、みことばを話された。たとえによらないで話されることはなかった。ただ、ご自分の弟子たちにだけは、すべてのことを解き明かされた」(4:33、34)と記されます。これは、イエスが弟子たちの理解力に応じながら、彼らに寄り添うようにして彼らの成長を導かれたことを指しています。

イエスの弟子たちとは、イエスのみことばを聞くことを喜びとしている人たちです。教会では、しばしば、聖書のみことばを、聞きたいとも思っていない人に必死に解説をし、みことばの意味を知りたいと願っている人に十分に時間を割くことができていないという現実が見られますが、それは本末転倒です。

アジア最大の福音自由教会がシンガポールにあり、その主任牧師はエドモンド・チャンという私より若い牧師です。彼は多くの人に一対一で個人的に関わることを大切にし、彼によって導かれた人が次から次と、別の人々を個人的に導くというすばらしい連鎖が起きています。それで、私はチャン先生に、その秘訣を尋ねました。彼の答えは、それは、自分の力ではなく、学びたいという人の側の霊的な渇きにあるというものでした。

イエスは、「聞く耳のある者(に)は聞きなさい(聞かせなさい)」と繰り返しています。イエスご自身も、あくまでも、「聞く耳のある人」にこそ、真に聞いてもらいたいと思われて、敢えて「たとえ」を用いて語っておられるのです。私はどんなに忙しくしていても、みことばへの渇きを持つ人には、最優先して対応させていただきたいと心から願っています。

そして、みことばに感動した人は、どうかそれを繰り返し味わってみてください。「それがどの箇所だったか忘れた・・」などとは決して言わないようにしながら、前後関係をしっかりととらえ、別の翻訳なども参照にしつつ、心に刻み込んでください。「神の国」はそのみことばによって成長し、全世界が神の愛で満ちる完成のときがきます。

そのつぼみが、既にあなたの心に宿っています。マリヤのように、「あなたのおことばどおりこの身になりますように」と自分を差し出すとき、そこに神の奇跡が行われます。それは、あなたの力ではありません。みことばの種が、あなたを土として、成熟し、実を結ぶのです。神は、力によってではなく、みことばによって、世界を動かされます。それは、右から左に抜けることが多いように見えますが、神のみことばは確かに、人々の心をとらえ、造り変えてきました。どうか、失望することなく、みことばを心に蓄え、また、聞く耳のある人に、みことばを宣べ伝えましょう。