マタイ5章1〜16節「主にすがり、地の塩、世の光として生きる」

2011年7月17日

「杖にすがるとも、人にすがるな」ということわざがあります。そして、「すがる」ということばをネットで調べたら、「誰かにすがるしかできない……」とタイトルで、「ひとりでいることが辛くて睡眠薬を大量に飲んでリストカットして気を失った……」などという女性の痛々しい記事がすぐに出てきました。「すがる」というのは依存症的な生き方の象徴なのかも知れません。しかし、聖書では、「あなたがたの神、主(ヤハウェ)にすがらなければならない」、そのとき、「あなたがたのひとりだけで千人を追うことができる」と記されています(ヨシュア23:8,10)。人が人にすがることは、ときに破滅への道となります。しかし、人が主(ヤハウェ)にすがるとき、千人をも圧倒する力を持つことができます。

「すがる」という心理には、基本的に、自分が「変わりたい」と願いなどはないように思います。実際、人にすがる者は、人を振り回すだけで終わる場合が多くあります。しかし、人が主(ヤハウェ)にすがるとき、不思議にも、変わり始めることができるのです。それは、ちょうど、愛する人から、「そのままのあなたが好き!」と言われるときに、かえってその人を喜ばせるような行動をとりたくなるのと同じです。私たちは、「変わりたいと思わなければ……」などと自問しているとき、心の目は自分に向かっています。そこには、空回りしか起きません。私たちが主(ヤハウェ)にすがり、心の目が主(ヤハウェ)に焦点を合わせられるとき、私たちは初めて変わり始めることができるのです。

1.「心の貧しい者、悲しむ者、柔和な者」が「幸い」であるとは?

イエスは、大ぜいの群集がつき従ったのを「見た」上で……「山に上り、おすわりになると、弟子たちがみもとに来た。そこで」(4:25,5:1)、全く新しい教えとして、ご自身に従う者の「幸い」を九つに分けて語ってくださいました。それは、あくまでもイエスに従うことを既に決意している弟子たちに向けてのことばです。つまり、これは、「幸せに生きるための教科書」のような教えではありません。反対に、多くの人々が憧れるような、自立した人間としての立派な生き方なら、イエスからではなく、パリサイ人や律法学者から聞くことができたのです。

彼らは、自分の努力で幸せをつかむ方法を教えましたが、イエスは、「心の貧しい者」「悲しむ者」「柔和な者」「義に飢え渇いている者」、そして、ご自身のために「迫害されている者」という、この世で苦しみ損をしている人への「幸い」を保証されました。これらはすべてイエスなしには決して実現できないものです。ところが彼らは、自分たちが「教師」、「父」、「指導者」になり、人々がイエスに直接につながるのを邪魔しました。イエスが彼らに対して驚くほど攻撃的なのは、彼らが人々に、イエスと父なる神に「すがる」ことを邪魔したからです(8-10節)。それは、海で溺れている人に差し出された救命ボートを取り去って、泳ぎ方を大声で教えるようなものです。

イエスは、「私は天の御国からはほど遠い……」と思っているような人たちに向かって、「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだから」と言われました。イエスは宣教の初めに、「天の御国は近づいた」と言われましたが、ここでは、「天の御国は(既に)その人のものだから」と断言しておられます。つまり、「自分は大丈夫だ」と思っている人は「天の御国」に入っていないのですが、「自分は何と惨めな人間なのだろう……」嘆きながら、「自分はイエスにすがることしかできない」と思っている人は、すでに「天の御国」に入っているというのです。

米国大統領就任式の祈祷を導いたリック・ウォレン師は、アルコールや薬物その他の様々な依存症の方々の自助グループを教会の中で導き、Celebrate Recoveryというプログラムを開発しています。その第一は、「心の貧しい者は幸い……」の意味を心から理解することから始まります。そのテキストⅠのタイトルは、Stepping out of Denial into God’s Grace「否認から抜け出て神の恵みの中に足を踏み入れる」です。依存症は「否認の病」と言われ、たとえば、自分にアルコールや薬物をコントロールする力がないということを認められなくて、どんどん深みにはまり、問題の原因を自分の周りのせいにするからです。彼らは人を振り回すようなすがり方はしますが、本当の意味で自分の無力さを認めてはいません。私たちもみな、心の奥底で同じような問題を抱えています。しかし、自分の弱さや汚れを正直に認めることこそが、神のみわざが心のうちに始められる第一歩なのです。そして、その人は、その問題を抱えたままの状態で、今、既に、「天の御国」(神の国)に入れられているのです。

「悲しむ者は幸いです」の「悲しむ」とは、他の人には慰めようもないほどに深く嘆いている状態の人を指します。その人が「幸い」であるはずはないのですが、「慈愛の父、すべての慰めの神」(Ⅱコリント1:3)と呼ばれる方が、やがて慰めてくださるという保障があるからこそ「幸い」なのです。たとえば、ギャンブル依存症の人は、「今に必ず大儲けできる!」と信じて同じ過ちを繰り返し、自分の周りの人々を不幸に引きずって行きますが、このような人は、周りの世界を恨み、怒ってはいても、本当の意味で自分の惨めさを嘆いてはいません。深い悲しみを押し殺しているだけなのかもしれませんが……。しかし、本当に自分に絶望しながら、神に向かって嘆くとき、「人のすべての考えにまさる神の平安」(ピリピ4:7)を体験できるのです。これこそ信仰の神秘の世界です。

「柔和な者は幸いです」の「柔和」とは、自分の正当性を訴えて争う生き方と対照的です。パリサイ人たちは議論の天才でした。確かに短期的に見ると、効果的に争うことができる人こそが、得をしているようにも見えます。ただし、伝道者の書に、「あなたは正しすぎてはならない。知恵がありすぎてはならない」(7:16)とあるように、一見「強い人」は、人の反感を買い、争いを広げることによって自滅してしまうということがあります。それどころか、イエスは、「あなたの右の頬を打つような者には、左の頬をも向けなさい」(マタイ5:39)と言われました。それは報復の連鎖を断ち切る教えであるとともに、神がこの地を支配しておられるとの前提で語られたことです。それをもとに、イエスは、「柔和な者」こそが「地を受け継ぐ」と言われたのです。そこで問われているのは、自分の力に頼って争うか、神の力にすがって「柔和」に生きるかの選択です。

2.「義に飢え渇く者、あわれみ深い者、心のきよい者」の幸いとは?

「義に飢え渇く」とは、この世の不条理に心を痛めながら、「神の正義」がこの地の実現することを強く憧れながら生きることです。イエスは、パリサイ人たちが本当に小さなことの一つ一つにこだわりながら、律法の核心である「正義もあわれみも誠実もおろそかにする」者であると非難しました。彼らは、真の意味で、「義に飢え渇いて」はいません。それゆえ、神によって「満ち足りる」ことを味わうこともないというのです。

「あわれみ深い」とは、隣人の痛みや悲しみに、心の奥底が共鳴して震えるような状態です。私たちは人の痛みにいちいち自分の心が反応しないほうがこの世では楽に生きられます。パリサイ人たちは、貧しい人を心の底では軽蔑しながら、頻繁に「施し」を実践しましたが、心の底では人の尊敬を得ることばかりを願っていました。あなたも人の悲しみを聞きながら、「優しい人に見られたい」という気持ちに動かされている場合がないでしょうか。それは、「あわれみ深い」のではなく、人の賞賛ばかりを求めるパリサイ人の心です。

ここでは、「義に飢え渇く者は……満ち足りる」「あわれみ深い者は……あわれみを受ける」と、神の報いがまっすぐに約束されています。ただしそれは、自分でコントロールできる世界ではありません。自分の心は単に、この世の不条理に痛み、また人の苦しみに合わせて心がふるえているだけなのです。その際、電車のつり革につかまると自由に揺れることができるように、神にすがる者は、自分の心を、一時的に渇いたままに、また、震えるままに開いておくことができます。そして、そのとき、神ご自身がその心を満たし、あわれみを注いでくださいます。

「心のきよい」とは、心の中が神の聖さで満たされているという意味ではなく、自分の醜さを認める正直さです。英語ではしばしば、「pure in heart」(心の中が純粋)と訳されます。先のセレブレイトリカバリーでも、この部分に最も多くのページが割かれ、自分の過ちを正直に神に告白することと同時に、信頼できる人に告白するようにと勧められています。「心のきよい」とは何よりも、「透明さ」を指すことばです。自分の心を透明に見ることができることと「神を見る」ことは切り離せない関係にあるのです。なお、「神を見る」とは、何かの恍惚体験であるよりは、「心の目がはっきり見えるようになって」(エペソ1:18)と、神が私たちに約束しておられる恵みの大きさに感動できるようになることです。それは、不思議にも、自分の心の闇が明らかにされることに比例して起こることです。

3.「平和をつくる者、義のために迫害されている、ありもしないことで悪口を浴びる者は幸い」

しばしば、真理のために命を賭ける人は、争いを作ります。パウロもパリサイ人だった時、「主の弟子たちに対する脅かしと殺害の意に燃えて」(使徒9:1)いました。それに対してイエスは、「平和をつくる者」こそが「幸い」であり、その人こそが「神の子どもと呼ばれる」と語りました。ここにある九つの「幸い」の中で唯一の積極的な行動が、「平和を作る」という教えです。私たちは自分を被害者に仕立てる天才ですが、「平和の祈り」にあるように、「憎しみのあるところに愛を、争いのあるところに和解を、分裂のあるところに一致を、疑いのあるところに信頼を、誤りのあるところに真理を、絶望のあるところに希望を、闇に光を、悲しみのあるところに喜びをもたらす」ような積極的な生き方を求めるべきなのです。そしてそのように生きる者は、「神の子」と呼ばれるのですが、このことばはイエスを、「神の子」と呼ぶときと同じことばです。私たちは、「平和を作る者」として生きるとき、名実ともに、小さなイエス、イエスの弟、妹とされ、イエスに結び合って(すがって)いる者とされています。

「義のために迫害されている者は幸いです」(5:10)と、イエスはご自分の弟子たちに不思議なことを言われました。当時の律法学者やパリサイ人は、質素に暮らしていましたが、パンに困ることもなく、社会的な尊敬を受けていました。そして、その既得権益を守る思いから、イエスの「天の御国」の教えを迫害する側になっていました。それに対して、イエスは、「天の御国は」迫害されている者たちの側にあると断言してくださったのです。

そればかりか、イエスは、「わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、またありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いです。喜びなさい。喜びおどりなさい。天ではあなたがたの報いは大きいから」(5:11,12)と約束してくださいました。なぜなら、それは人々があなたをイエスに結び合わされた者と見たことの最大の証だからです。私たちが心から目指すべき目標とは、イエスと一体とされることではないでしょうか。迫害者はそれを手助けしてくれているのです。なおこれは、厳密には、「死んだ後、天国で慰めを受ける」という意味ばかりではありません。マタイは、「天」を、「目に見えない神のご支配の現実」という意味で用いています。イエスに従う者は、今、ここで、命を落すような迫害のただなかでも「喜びおどる」ことができるのです。

私たちに求められていることは、誰からも非難されることがないような立派な人間になることではなく、イエスに従い続けることなのです。その中で、あなたは結果的に造り変えられて行きます。そして、それは神がなしてくださることです。「そのままの姿で、留まる」ことと、「そのままの姿で、従う」ことには天と地の差があるのです。

4.「あなたがたは、地の塩です。世界の光です」

イエスは弟子たちに向かって、「あなたがたは、地の塩です」と断定してくださいました。塩が当時は防腐剤として用いられていたように、すべてのクリスチャンは地上の腐敗を防ぐ役割を持っています。しかも、ここでは、地の塩に「なる」ことの命令ではなく、塩けをなくすことへの警告が述べられています。誰にとっても、キリストに従うことは、人生でもっとも重大な決断を意味しますから、どんなクリスチャンであっても、「地の塩」としての役割を果たす十分な資格を持っているのです。ところが、私たちは、せっかくイエスに従うと決断したのに、しばしば、「この世と調子を合わせる」(ローマ12:2)という誘惑に負けてしまいます。しかも、そこには、伝道のためには人の好意を得ておいたほうが良いという言い訳が生まれます。しかし、それは自分から塩けをなくしてゆく行動に他なりません。あなたは、すでに、「地の塩」にされています。その意味は、キリストに従おうとした原点に立ち返るとわかります。そのとき、あなたは世の人々ではなく、キリストにすがろうとしたのです。それこそ塩けの原点です。

あなたが塩けを出すのではなく、あなたのうちにおられるキリストが塩けを出しておられるのです。それなのに、私たちは、しばしば、人の期待に沿うことばかりを優先してしまいます。しかし、それこそ、塩けを失う道、つまり、「外に捨てられ、人々に踏みつけられる」(5:13)という自滅への道なのです。

さらにイエスは、「あなたがたは、世界の光です」と言われました(5:14)。ここでもイエスの命令は、光に「なる」ことではなく、光を「隠してはならない」ということです。ここで、「山の上にある町は隠れることができません」と記されますが、当時の町は、ほとんど山の上に建てられていました。同じように、クリスチャンは、何もしていないようで、おのずと目立った存在にされているのです。自分が望まなくても、おのずと証をする機会は与えられるものです。そこでは自分を卑下するような謙遜や、虚勢を張ったような証などはまったく必要ありません。

「あかりをつけて、それを枡の下に置く」(5:15)というのはアイロニーです。当時のあかりは、皿のような器に油を入れて、その先に芯をつけて燃やすような簡単なものでした。そのため、安全のためには、直ぐに火を消すことができるように「枡」のような覆いが不可欠でした。つまり、ここでは、苦労して火を灯したあげく、誰がそれを火を消す道具の下に置くだろうかという、当然の反語が記されているのです。

これは私たちにとっては、ようやくクリスチャンとされたのに、その喜びをわざわざ消すような愚かなことをしてはならないという警告です。神があなたを救い出してくださったのは、あなたを通してご自身の栄光を現すためです。あなたがクリスチャンであれば、あなたが隠そうとしない限り、おのずと、光はあなたの中から発せられているのです。それは、「栄光の望み」であるキリストご自身が、あなたの心の中におられるからです(コロサイ1:27)。多くの人々は、自分の能力が発揮でいているとき、輝いていると思いますが、それは必ずしも「いのち」が輝いていることを意味はしません。得意において褪せる「いのち」もあれば、失意の中で輝く「いのち」もあるからです。

「このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい」(5:16)ということばは、しばしば誤解されます。これは前節までの流れと不可分であり、「光を隠してはならない……」ということが全体的な趣旨です。確かに、「輝かせなさい」という命令が強調されていますが、それは、良い行いを人に見せることでも、人々に天の父をあがめるように説得することでもありません。しかも、キリストに従う者は、おのずと輝きだすのですから、「輝かせなさい」とは、人々の前で自分のクリスチャンとしてのアイデンティティーをあらわにしておくことに他なりません。

しかも、「あなたがたの良い行いを見て」とは、すでに起こっている「良い行い」で、これから、人々が感心するような良い行いをするようにという勧めではありません。良い行いの基準は、神が決めるものです。それによれば、私たちがこのように日曜日、ともに集まって、天地万物の創造主を礼拝していること自体が、神に喜ばれる最も良い行いです。その他の行いは、礼拝する姿勢から自ずと生まれてくるものです。

私たちはしばしば、この世の基準による「良い行い」、すばらしい働きや成果を追い求めますが、実は、そのとき、心の奥底では、神ではなく自分の名声を求めているということがあります。もし、私たちが、あくまでも、礼拝や日々のディボーションを大切にするなら、人々は、はじめは理解できなくても、やがて、神を礼拝することの大切さを知り、「人々が……天におられるあなたがたの父をあがめるように」変えられるのです。

私たちは、他のクリスチャンと比べて、「こんな自分はイエス様から愛されない!」と勝手に思い込んで落ち込むことがあります。しかし、イエスは、このままの私たちを愛して、私たちの罪のために十字架にかかり、私たちを聖徒としてくださいました。「もっと用いられたい」「もっと輝きたい」という願いを持つ前に、キリストがこのままの私たちを、このままの姿で、「地の塩」「世の光」としてくださったことを覚えましょう。

私たちはクリスチャンとしての歩みの中で、自分の心の奥底にある醜い思いに唖然とさせられ、「イエス様は、こんな私をお用いになることはできない」と自分を卑下することがあります。しかし、イエスが語れる「良い行い」とは、人々に気に入られるようになることではなく、自分の罪深さに涙を流しながら、イエスに従うことです。あなたを輝かせてくださるのは、あなた自身ではなく、イエスがなさってくださるみわざだからです。

塩と光には共通する点があります。当時のイスラエルの塩は、一般的に、死海から取られたものですが、それは不純物が混ざった塊として採取されます。塩として役立つためには、砕かれ、不純物が取り去れなければなりません。また光は、燃焼によって生まれますが、それは油が自分を失ってゆく過程に他なりません。そのようにイエスが私たちの内で働くことができるためには、まず、私たちのアダムのままの自分が砕かれる必要があります。

私たちは、何のために生かされているのでしょう。それは、「神に栄光を帰し、永遠に神を喜び楽しむため」に他なりません(ウエストミンスター小教理問答)。それがイエスに従う歩みです。そのとき私たちは自分ではまったく輝いていないと思いながら、現実には「世界の光」としてますます輝きを増して行くことができます。