マルコ10章32〜45節「みなのしもべになりなさい?」

2012年5月27日

キリスト教は奴隷制を擁護する宗教として批判を受けてきたことがあります。アメイジング・グレイスの作者ジョン・ニュートンは難破しそうな船の中で、自分は死後地獄にゆくしかないという恐怖に襲われて劇的な回心を果たしますが、その後も奴隷船の船長としてしばらくは働き続けました。しばらくして奴隷貿易がいかに神の御心に反するかを悟って、牧師になり、奴隷制廃止のために献身します。 “マルコ10章32〜45節「みなのしもべになりなさい?」” の続きを読む

エステル5章〜6章「驕るハマンは久しからず」

2012年5月20日

NHK大河ドラマでの平清盛は日本の新しい時代を切り開いた純粋でナイーブな人間として描かれています。確かに人間的な魅力を備えていたからこそ、日本の仕組みを変える指導力を発揮できたのでしょうが、人の心は弱いものです。謙遜と思われる人もすぐに傲慢になってしまいます。 “エステル5章〜6章「驕るハマンは久しからず」” の続きを読む

マルコ10章13〜31節「誰が神の国に入れていただけるのか」

2012年5月13日

イエスは山上の説教で、「だれもふたりの主人に仕えることはできません・・・あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません」と言われました(マタイ6:24)。しかし、このイエスのみことばほど理解し難い、腹に落ちにくいことばはありません。旧約聖書で意味する「祝福」とは、豊かさや力を持つこと、子どもが増えることを意味しましたし、イエスの教えはそれと矛盾するものではないはずだからです。 “マルコ10章13〜31節「誰が神の国に入れていただけるのか」” の続きを読む

エステル2章19節〜4章17節「もしかすると、この時のためであるかも知れない」

2012年5月6日

エステル記はシンデレラ・ストーリーのような成功物語ではありません。また、女性の心の中には、しばしば、「いつか白馬に乗った王子様が現れて自分を救い出してくれる」というシンデレラ症候群のようなものがあるとも言われますが、そのような願望を満たす物語でもありません。 “エステル2章19節〜4章17節「もしかすると、この時のためであるかも知れない」” の続きを読む

マルコ10章1〜12節「戒律ではなく、対話の中に生きる」

2012年4月29日

シェークスピアの名作「ロミオとジュリエット」の最初の場面で、ジュリエットはロミオに聞かれているとも知らずに、「おお、ロミオ、ロミオ、どうしてあなたはロミオなの・・」と問いかけながら、ロミオがモンタギュー家を捨てるなら、私もキャピュレット家を捨てるという趣旨のことを言ってしまいます。両家は激しい敵対関係にあったからです。しかし、ふたりが死によってひとつとなった時に、両家の和解が導かれました。 “マルコ10章1〜12節「戒律ではなく、対話の中に生きる」” の続きを読む

エステル1章1節〜2章18節「神の摂理の御手の中で」

2012年4月22日

私たちの人生に中には、「何でこんなことになるのか……」と、泣きたくなるようなことが起きます。しかし、それはしばしば、振り返って見ると、神が示してくださった方向転換のときとなってはいないでしょうか。 “エステル1章1節〜2章18節「神の摂理の御手の中で」” の続きを読む

マルコ15章40節〜16章8節「空の墓から生まれる希望」

2012年4月8日

イエスの復活の記事は四つの福音書すべてにおいて、極めて生き生きと描かれています。私は最初その記述の違いに驚き、とまどいました。歴史的事実の記録なら、もっと記述に共通性があっても良いと思われたからです。しかし、記録の細かな違いに整合性をつけようとした形跡が見られないということ自体が、これら四つの福音書が、目撃者の記録をそのまま残しているということの証拠とも言えるということがわかって心が落ち着きました。 “マルコ15章40節〜16章8節「空の墓から生まれる希望」” の続きを読む

「ユダヤ人の王としての十字架」

2012年4月6日

私たちは誰しも、平穏な毎日を過ごしたいと願います。それが人情でしょう。しかし、一年前の東日本大震災のように、良い人にも悪い人にも突如、襲ってくる災難があります。そのような中で、苦しみを自分のせいでも、また人のせいでもなく、神の御手の中にあるものと受け止められる人は幸いです。 “「ユダヤ人の王としての十字架」” の続きを読む

マルコ15章1〜39節「世界の王としての十字架」

2012年4月1日

当教会での礼拝が始まったころ、世はバブルの全盛期でした。私は時代に逆らうように、この受難節の時期、来る日も来る日も、イエスの十字架の御苦しみに思いを馳せるというメッセージをし続けました。そこに私たちの癒しがあると信じていたからです(ただ、時代に逆らいすぎると、話は通じない、という現実も悟りましたが・・・)。そこではとにかく、「イエスの十字架を、罪の消しゴムのように軽く見てはならない・・」と、「重・・・く」語り続けました。それは当然、大切な真理です。 “マルコ15章1〜39節「世界の王としての十字架」” の続きを読む