アモス5章18節〜6章14節「幻想の中で主の日を待ち望む者へのさばき」

2013年7月7日

将来に対する私たちの見方は、そのときの気分によって大きく変わります。しばしば、鬱状態にある人は、「これから先、生きていても、何の良いこともないに違いない」と思い込んでしまいます。

反対に、勝利の気分に酔っている人は、「今まで辛いこともあったけど、これからは自分の世界が開けてくる。生きたいように生きればよいのだ!」という気持ちになります。

どちらの生き方も破滅を招き寄せてしまいます。

聖書には、「主(ヤハウェ)の日」に関しての多くの記述があります。これは最後の審判ということ以前に、神のさばきが明らかになる日を意味します。それは、神がこの世の不敬虔に罰を下す一方で、虐げられている人に救いをもたらす日です。

ですから、これは、ある人にとっては苦難の日になり、ある人にとっては喜びの日になります。あなたにとっての「主の日」はどのような日になることでしょう。

ただ、イエスは、「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから」と言われました。自分の心の貧しさを自覚する者にとって、それは喜びの日です。

1.「公義を水のように、正義をいつも水の流れる川のように、流れさせよ」

5章18節、6章1節はそれぞれ、「ああ」という神の嘆きのことばから始まります。新共同訳やフランシスコ会訳では「災いだ」と訳されています。そしてそのように思われている対象が、「主(ヤハウェ)の日を待ち望む者」と記されています。

これは預言書に繰り返し登場する「主の日」の記事の中で最も古いものではないかと思われます。当時は、「主(ヤハウェ)の日」を、主(ヤハウェ)がイスラルの敵を滅ぼしてくださる勝利の日だと思われていました。それは、申命記32章35節で、「復讐と報いとは、わたしのもの、それは、彼らの足がよろめくときのため。彼らのわざわいの日は近く、来るべきことが、すみやかに来るからだ」と記されていることに基づいていました。

それに対し、ここでは、「ああ(災いだ)。主(ヤハウェ)の日を待ち望む者。主(ヤハウェ)の日はあなたがたにとっていったい何になる。それはやみであって、光ではない」と宣言されます。それは、イスラエルの神ご自身が、イスラエルの敵をさばく前に、ご自身の民の不信仰の罪をさばかれるからです。

このときの北王国イスラエルは、バブル経済の真っただ中のような状態でした。たまたまアッシリヤ帝国が一時的に弱体化している中で、彼らは自分たちの繁栄を誇っていました。

そして、さらに、「主の日」に対する幻想を基に、周辺諸国に対する勝利に次ぐ勝利を待ち望んでいました。それに対し、主はアモスを通して、彼らの国の滅亡を告げているのです。

そして、その主のさばきが避け難いことを、「人が獅子の前を逃げても、熊が彼に会い、家に入って手を壁につけると、蛇が彼にかみつくようなものである」(5:19)と記されています。彼らに逃げ場はありません。

20節では18節のことばの言い換えが記されていますが、これは厳密には、「主(ヤハウェ)の日はやみではないのか、それは光ではない。それは暗やみであって、そこに輝きはない」と訳すことができます。

そして、主はイスラエルの礼拝自体を退けるということを、「わたしはあなたがたの祭りを憎み、退ける。あなたがたのきよめの集会のときのかおりも、わたしは、かぎたくない。たとい、あなたがたが全焼のいけにえや、穀物のささげ物をわたしにささげても、わたしはこれらを喜ばない。あなたがたの肥えた家畜の和解のいけにえにも、目もくれない」(5:21、22)と言われます。

イスラエルの民は神を喜ばすためにこれらの祭りを盛大に祝い、多くの犠牲を払ってささげものを携えて来ているのに、神はそれらを受け入れないというのです。これは驚くべきことです。

これはたとえば、多額の献金をささげる人に向かって、「お前の献金など、受け取りたくない!」と言うようなものだからです。それは、その献金が、社会的弱者を虐げ、搾り取るようにして集めたものであったり、また、神の特別な好意を勝ち取ろうとする魂胆が見えるような場合に今も起きることではないでしょうか。

そればかりか主は、「あなたがたの歌の騒ぎを、わたしから遠ざけよ。わたしはあなたがたの琴の音を聞きたくない」と言われます(5:23)。

彼らは神に喜んでいただけると思って必死に歌い、琴を奏でているのですが、それは神をご不快にさせる騒音に過ぎないというのです。

そして主はイスラエルの民に向かって「公義を水のように、正義をいつも水の流れる川のように、流れさせよ」(5:24)と言います。

「公義」とは「公正なさばき」のこと、「正義」とは「道徳的な正しさ」「まっすぐさ」を意味します。

「水のように・・・いつも水の流れる川のように、流れさせよ」というのは、公義や正義が、まったくめずらしいことではなく、いつでもどこにでも見られるようにすることこそ神の願いであるというのです。

つまり、神が求めるのは、私たちが神のためにどれだけの時間や財をささげたかということよりも、隣人に対して、どれだけ公平な態度で接し、誠実を尽くしてきたかということなのです。

2.「わたしはあなたがたを、ダマスコのかなたへ捕らえ移す」

5章25-27節は初代教会の最初の殉教者であるステパノが、イスラエルの罪を思い起こさせるために引用した箇所です(使徒7章42,43節参照)。

まず、「イスラエルの家よ。あなたがたは、荒野にいた四十年の間に、ほふられた獣とささげ物とをわたしにささげたことがあったか」と記されていますが、イスラエルは荒野の四十年の間、天からのマナで養われる必要がありましたから、様々ないけにえの規定が語られたにも関わらず、現実には、彼らはほとんどいけにえをささげることができませんでした。神はその時代に、何よりも彼らの心を求めていたのです。

ですから、ここでは、神はいけにえよりも、彼らの心を求めていたから、いけにえがささげられなくても彼らに怒りを発せられなかったという意味に受け止めることができます。

しかし、同時に、彼らはそこで心から神を礼拝する代わりに、「あなたがたの王サクテと、あなたがたのために造った星の神、キウンの像をかついでいた」というのです。

神々の名前は、使徒の働き7章では「モロクの幕屋とロンパの神の星」となっていますが、それはギリシャ語七十人訳によったものです。

「あなたがたの王」ということばはミルコムと記され、幼児の犠牲にいけにえを求めるアモリ人の神モレクと理解され、サクテは「幕屋」と読み変えることもできます。「星の神」とは土星を指すとも言われます。

この箇所の翻訳は困難を極めますが、アモスもステパノも、イスラエルの民は大昔から霊的な浮気ばかりを続けていたと非難したという点ではまったく同じです。

なお、アモスはその霊的浮気に対するさばきを、「わたしはあなたがたを、ダマスコのかなたへ捕らえ移す」と「その名を万軍の神、主(ヤハウェ)という方が仰せられる」と記します。

その一方で、ステパノはギリシャ語七十人訳からも離れて、「それゆえ、わたしは、あなたがたをバビロンのかなたへ移す」と記しています。

まるで北王国イスラエルに対するさばきと南王国ユダに対するさばきを混同したかのようにも見られますが、ステパノはそこで、二つの王国を敢えて区別することなく、神がご自身の民をさばかれたという点に人々の目を向けさせたのです。

3.「あなたがたは、わざわいの日を押しのけている、と思っているが、暴虐の時代を近づけている」

6章の初めで再び「ああ」という神の嘆きのことばが記されています。そして、「シオンで安らかに住んでいる者、サマリヤの山に信頼している者、イスラエルの家が行って仕える国々の最高の首長たち」に対する神のさばきの警告が記されています。

「シオンで安らかに住んでいる者」というのは南王国ユダに対するさばきです。また、「サマリヤの山」とは北王国イスラエルの中心があるところです。ふたつの場所とも、天然の要塞のようになっており、イスラエルの民はそこで自分たちの指導者に安心して仕えていました。

「国々の最高の首長たち」ということばは、彼らが高ぶって自分たちのことをそのように見ていたという皮肉を込めて言ったという意味だと思われます。

そして、主は、イスラエルの周辺の国々に起こる悲劇を予告しながら、彼らの愚かな安心感を打ち砕こうとして、「カルネに渡って行って見よ。そこから大ハマテに行き、またペリシテ人のガテに下って行け。あなたがたはこれらの王国よりすぐれているだろうか。あるいは、彼らの領土はあなたがたの領土より大きいだろうか」(6:2)と言われます。

「カルネ」とはイスラエルの北、ユーフラテス川の上流にある繁栄した町であり、「大ハマテ」はその南にある繁栄を誇った町、また「ぺリシテのガテ」もイスラエルの南にあって非常に栄えた町です。これらの町は、アモスの後の時代にアッシリヤ帝国によって滅ぼされますが、この時代にすでにこれらの国々は危険な状況にあったことが誰の目にも分かったという意味かと思われます。

領土の広さから言ったら、このときの北王国イスラエルはこれらの国々よりも大きかったように思われますから、この言い方にはわからない面もありますが、主はとにかく北王国イスラエルのリーダーたちの安心感がまったく根拠のないものであることを指摘したということは明らかです。

そして、主は彼らに向かって、「あなたがたは、わざわいの日を押しのけている、と思っているが、暴虐の時代を近づけている」(6:3)と言われました。これは愚かな安心にふけっている者に、危険に満ちた現実を直視するようにと命じたものです。

彼らは、イスラエルの神、主(ヤハウェ)にいけにえをささげると同時に、周辺の国々の神々にも気づかって、いけにえをささげていました。彼らはそうすることで、「わざわいの日を押しのけている」と愚かにも思い込んでいたのです。今も、人の顔色ばかりを見て、神の眼差しを忘れている人がいるかもしれません。

そして、主は彼らの贅沢な生き方を、「象牙の寝台に横たわり、長いすに身を伸ばしている者は、群れのうちから子羊を、牛舎の中から子牛を取って食べている」と描いています(6:4)。

彼らは当時の最高級の家具をそろえる贅沢にふけっていましたが、その一方で、「貧しい者を踏みつけ、彼らから小作料を取り立て」(5:11)、貧しい人々に羊や牛の世話をさせながら、それらの中から最上のものをとって自分たちの食糧にしていました。

また、「彼らは十弦の琴の音に合わせて即興の歌を作り、ダビデのように新しい楽器を考え出す」(6:5)とは彼らが祝宴の中で音楽を楽しむ様子を描いたものです。

彼らは生産活動を貧しい人々に任せながら、ダビデの外見的な贅沢さだけを真似ていました。

しかし、ダビデの場合は、主への心からの賛美をささげるために「新しい楽器を考えだす」ことに熱くなっていたのですが、彼らは祝宴の余興のために楽器の開発に忙しくしていました。

「彼らは鉢から酒を飲み」(6:6)とは、日本語流には「茶碗酒を飲む」(おちょこの代わりに茶碗で酒を飲む)という感じです。

また、彼らは祝宴のために最高の贅沢として「最上の香油を身に塗る」のですが、それはまさに今が楽しければよいという刹那的な生き方でした。

そして彼らは「ヨセフの破滅のことで悩まない」とあるように、自分の国の将来に対しての危機感を持とうとはしていませんでした。

「ヨセフの破滅」と記されているのは北王国の中心部族が、マナセとエフライムというエジプトの宰相にまでなったヨセフの息子たちから始まったからで、その名門部族が滅びるということを強調するためでした。

そして、アモスは北王国イスラエルを襲う破滅を、「それゆえ、今、彼らは、最初の捕らわれ人として引いて行かれる。身を伸ばしている者どもの宴会は取り除かれる」(6:7)と描きます。

これはアモスの預言から約30年後に文字通り実現してしまいました。神はご自分が選ばれた民を、異教徒の手に渡してしまわれたのです。

4.「あなたがたは、公義を毒に変え、正義の実を苦よもぎに変えた」

そして、このことを改めて厳しく警告するために、「神である主は、ご自分にかけて誓われる」と、不思議な表現を用いながら、それがまた「万軍の神、主(ヤハウェ)の御告げ」であることを明確にしながら、「わたしはヤコブの誇りを忌みきらい、その宮殿を憎む。わたしはこの町と、その中のすべての者を引き渡す」と言われます。

そして、その悲惨が一時的ではないということを、「一つの家に十人残っても、その者たちも死ぬ」と描かれます。

なお、10節では「親戚の者でこれを焼く者が家から死体を持ち出すために、これを取り上げ、その家の奥にいる者に向かって」、「あなたのところに、まだいるか」と問うことに対して、「だれもいない」と答えながら、同時に、「口をつぐめ。主(ヤハウェ)の名を口にするな」と言う不思議な場面が描かれています。

これは、誰が誰に向かって語っていることばかについてはいろんな解釈がありますが、主(ヤハウェ)の名を口にするだけで、死のさばきを招いてしまうという極度の恐怖の状況に置かれてしまうということを描いていることだけは確かです。

そして、それが単なる杞憂ではないことが11節では、「まことに、見よ、主(ヤハウェ)は命じる。大きな家を打ち砕き、小さな家を粉々にせよ」と描かれます。

主のさばきを押し止めることは誰にもできません。私たちはただひざまずいて主がみこころを変えてくださるようにと泣いてすがることしかできません。

「馬は岩の上を走るだろうか。人は牛で海を耕すだろうか」(6:12)は非常に訳しにくいことばです。NIVでは、「Do horses run on the rocky crags? Does one plow there with oxen?」(馬は切り立った岩の上を走るだろうか。人は牛でそこを耕すだろうか)と訳していますが、その方がこの箇所の意味をうまく描いていると思われます。

それは、自然の秩序をどんな愚かな者でも理解しているという意味です。

その上で、主は彼らに向かって「あなたがたは、公義を毒に変え、正義の実を苦よもぎに変えた」と言われます。それは彼らがどんな愚かな人間もしないような破壊的なことを行なったという意味です。

「公義を毒に変え」とは、社会的弱者を守るはずの「公正なさばき」を彼らを虐げることを正当化する毒に変えたという意味です。今も、権力の横暴を規制するはずの憲法を、国民の自由を規制する法律にしようとする勢力が力を持っています。

また、「正義の実を苦よもぎに」とありますが、聖書では「苦よもぎ」は苦痛をもたらす毒草と理解されています。黙示録8章10、11節では御使いがもたらす災いとして、苦よもぎと呼ばれる星が天から落ちて地の川の三分の一を苦よもぎのようにして、多くの人々が死ぬということが描かれています。

要するにここでは、正義がもたらす麗しい実を、イスラエルの民は人を害する毒草に変えたと非難されているのです。

ところがイスラエルは、自分たちのうちにある問題を見る代わりに、目先のこと、つまり、自分たちの軍隊の勝利のことばかりを喜んでいるというのです。

「ロ・ダバル」とはガリラヤ湖の南東のアラムとの係争地を確保したことを喜んだものです。

また、「私たちは自分たちの力でカルナイムを取ったではないか」と言うとは、彼らが伝統的なアラムの支配地であるカルナイムを占領したことを誇っていることを非難したものです。

そして、主のさばきのことばが最後に、「まことに、イスラエルの家よ、今、わたしは一つの民を起こしてあなたがたを攻める。─万軍の神、主(ヤハウェ)の御告げ─彼らはレボ・ハマテからアラバの川筋まで、あなたがたをしいたげる」と記されます。

レボ・ハマテとはレバノン山脈の南の境でアラムの首都ダマスコよりもはるか北の地、ソロモン王国の北限だった地です。また、アラバの川筋とは死海とアカバ湾の間に位置する渓谷だと思われます。

Ⅱ列王記14章25節では、アモスの時代の王ヤロブアム二世の業績が、「彼は、レボ・ハマテからアラバ(死海)の海までイスラエルの領土を回復した」と描かれています。

しかもそこには、それは主が「アミタイの子ヨナ」を通して約束された通りであり、それは「主(ヤハウェ)がイスラエルの悩みが非常に激しいのを見られたから・・・ヤロブアムによって彼らを救われた」と描かれていました(同26,27節)。しかし、それが完全に逆転するというのです。

皮肉なのは、そこに記された預言者ヨナは北王国の繁栄を預言した後、主に召されてアッシリヤの首都ニネベに行き、主のさばきを宣告しました。その際、ニネベの人々はそろって悔い改めました。そして、アッシリヤはその後、急速に国力を回復し、イスラエルを滅ぼします

人間的に見ると、ヨナがニネベに行って主のことばを宣べ伝えなければ、北王国は滅亡せずに済んだということになります。そこにヨナの葛藤がありました。

どちらにしても、北王国はヨナの預言が実現して繁栄を享受した時に、主に感謝して立ち返りはしなかった一方で、アッシリヤはヨナの預言によって悔い改めて、国力を回復しました。すべては、主のことばへの反応にかかっていたのです。

私たちの目の前の状況によって傲慢になったり、また卑屈になったりする代わりに、いつでもどこでも、ただ主だけを見上げて生きるべきでしょう。世界の歴史は主のみことばどおりに動いて行くのですから・・・。

ペテロの手紙第二3章7,10-13節は次のように訳すことができます。

「今の諸天と地は、同じみことばによって、火のために(火できよめられるために)蓄えられており、不敬虔な者どものさばきと滅びとの日まで、保たれているのです・・・(「諸天」は「天」の複数形、パウロは第三の天に引き上げられたこともある(Ⅱコリント12:2)と言っていますが、何層にもなった天の秩序を神はきよめられます)

しかし、主の日は盗人のようにやってきます。その日には、諸天は大きな響きをたてて過ぎ去り(消えるというより変えられる)、その構成要素は焼かれて(絆を)解かれ、地と地のいろいろなわざは明らかにされます(新改訳脚注「見つけ出される」とありますが、その解釈の方が一般的になっており、ここは隠された罪が暴かれ、良い働きが評価されるという意味です)。

このように、これらのものはみな解かれる(それまでの秩序が無くなる)のだとすれば、あなたがたは神の日の現れを待ち焦がれながら、どれほど聖い生き方と敬虔さの中に留まる必要があることでしょう。そのときには、諸天は燃やされて解かれ、その構成要素は焼かれて溶けるのです。

しかし、新しい諸天と新しい地とを、主の約束に従って、私たちは待ちます。そこには、正義が宿っています」

この世界は火で燃やされて消えてなくなるのではなく、火によってきよめられ、今までの絆が解かれ、まったく新しい秩序の世界へと変えられるのです。

しかも、興味深いのは、地に関しては焼かれるのではなく、その隠された行いもすべて明らかにされると記されていることです。それは、主が何よりも、私たちの地上の歩みに関心を持っておられるからです。

天が焼かれ、地のわざが暴かれるというのは何という不思議な対比でしょう。私たちはこの地上に満ちた不条理の中で天に憧れますが、その天は形を失います。私たちはそれに対して何もすることはできません。

しかし、この地に対しては、私たちは放射能で汚染させることも、美しい環境を整え保護することも含め、あらゆることをなすことができます。

この地でなすわざは、消えるのではなく、良いことも悪いことも明らかにされるのです。主にある労苦は無駄にはなりません。私たちはこの世界に住み、正義が支配している新しい諸天と新しい地を待ち望みながら、この世的な計算や期待から自由な、神の基準に従った生き方をしなければなりません。