アモス9章「偶像礼拝からの救い」

2013年7月21日

多くの人々の心には、「これさえ達成できれば、すべてが変わるはず」と思える理想があります。それは、仕事の目標であったり、結婚であったり、子育ての理想であったり、政治理念であったりします。でも、どんな美しい理想も、それ自体が人生の目標とされると、それは偶像になります。

繁栄の町ニューヨークの牧師であるティモシー・ケラーは、「人の心は偶像工場です」と言いましたが、偶像礼拝とは、神社の神々を拝むことばかりではありません。それは私たちの信仰生活のなかに常に入り込んでくる、避けがたい誘惑であるということを忘れてはなりません。

アモスの預言は、自分たちの一時的な繁栄に酔う北王国イスラエルに対する滅亡の預言でした。神は彼らの偶像礼拝の罪に対して、繰り返しさばきの警告を与え、また繰り返し苦難を与えることによって、ご自身のもとに帰らせようとしました。

そればかりか、アモスの時代には、彼らに一時的な繁栄を与えることによってご自身のもとに立ち返らせようとしたのに、今度は、彼らは神のことばをあざけって、さばきは永遠に自分たちに来ないと思い込むようになってしまいました。それに対して、アモスは、彼らの国の徹底的な滅亡を預言します。

しかし、それで終わりはしませんでした。この最も古い預言書では、さばきの後に来る力強い希望が記されています。イザヤにある「新しい天と新しい地」の預言が、また、ヨハネ福音書にある「永遠のいのち」の保証が最後に記されているのです。しかも、主の兄弟ヤコブは、異邦人の救いの希望を、アモス書を引用してユダヤ人たちを説得しました。

ここにはイスラエルの死と復活が預言されているとも言われます。それは、私たちの人生にも適用できます。私たちは苦しみを通して全能の主に立ち返り、復活のいのちを今から生き始めることができるのです。

1.「彼らのうち、ひとりも逃げる者はなく、のがれる者もない」

7章から8章まで、主(ヤハウェ)はアモスに、北王国イスラエルに対するご自身のさばきの幻を明らかにされました。最初のふたつの幻に関しては、アモスの必死な祈りに応えて、主はご自身の計画を「思い直された」と記されています。それは感動的な記述でした。

それに対し、7章7節からと8章1節からのふたつの幻では、主はアモスにさばきのご計画を示されるにあたって、「わたしはもう二度と彼らを見過ごさない」と宣言されます(7:8、8:2)。

9章でも同じように主のさばきの幻が示されますが、ここでは主とアモスの対話はなく、主からの一方的なさばきのご計画が記さます。

まずアモスは、「私は、祭壇のかたわらに立っておられる主を見た」と記します。これは7章7節の第三の幻、「見よ。主は手に重りなわを持ち・・・城壁の上に立っておられた」という記述に似ています。

なお、「祭壇のかたわらに」と、「城壁の上に」とは原文で同じ前置詞であり、ここは「祭壇の上に立っておられる主」と訳した方が良いかもしれません。ただ、多くの人は、主がこの祭壇を忌み嫌っておられ、崩そうとしておられるという意味で「かたわら」と訳します。

一方、主は、この祭壇における偶像礼拝を天から見下ろして、さばこうとしているという面を強調すると「上に」と訳すべきかもしれません。とにかく、主は祭壇に寄り添ってはおられません

どちらにしても、7章7節の幻の後で、ベテルの祭司アマツヤから、「ベテルでは二度と預言するな。ここは王の聖所、王宮のある所だから」(7:13)と非難され、それに対し、アモスがアマツヤに対する主のさばきを伝えたという文脈からすると、ここでの「祭壇」とは、金の子牛が祭られているベテルの祭壇のことだと思われます。

その上で、主の命令が、「柱頭を打って、敷居が震えるようにせよ」と記されますが、これが誰に向けて語られているかは分かりません。とにかく主のご意志によって、柱の頭が激しく打たれ、それによって敷居の部分が震えるほどにするというのです。普通は、柱は下からの地震で崩れるのですが、この場合は、上からの神の力によって柱が崩されるというのです。

その上で、「そのすべてを頭上で打ち砕け」ということばは、フランシスコ会訳では、解説を加えるように、「柱をすべての者の頭上で打ち砕け」と訳されますが、それが文脈から生まれる意味だと思われます。

士師記16章ではサムソンが、その生涯の最後でダゴンの偶像の宮の柱を倒して、宮の中にいたペリシテ人たちの上に落ちるようにして、彼らとともに死んだことが描かれていますが、それと同じことがここで起こったのだと思われます。

そればかりか、ここでは主が、「わたしは彼らの残った者を、剣で殺す」と、ベテルでの偶像礼拝に加わって宮が崩れ落ちても生き残っているすべての人を剣で殺すと驚くべきことが記されています。そればかりか、ここではそれに加えて、「彼らのうち、ひとりも逃げる者はなく、のがれる者もない」と記されます。

Ⅱ列王記10章には、サマリヤのアハブ家を滅ぼしたエフーが、バアルの信者すべてをバアルの宮に集め、80人の兵士を使って殺させたとき、「私があなたがたの手に渡す者をひとりでものがす者があれば、そのいのちを、のがれた者のいのちに代える・・・入って行って、彼らを打ち取れ。ひとりも外に出すな」(24,25節)と命じた様子が描かれます。

そしてここでは、主ご自身が偶像礼拝者をどこまでも追いかけて行って殺すと記されています。

そして彼らに逃げようがないことが、「彼らが、よみに入り込んでも、わたしの手はそこから彼らを引き出し、彼らが天に上っても、わたしはそこから彼らを引き降ろす。彼らがカルメルの頂に身を隠しても、わたしは捜して、そこから彼らを捕らえ出し、彼らがわたしの目を避けて海の底に身を隠しても、わたしは蛇に命じて、そこで彼らをかませる。もし、彼らが敵のとりことなって行っても、わたしは剣に命じて、その所で彼らを殺させる」(2-4節)と記されます。

「よみ」は死者のたましいの宿る「暗やみのような真っ暗な地」(ヨブ10:22)と見られていましたが、そこに隠れても引き出されるというのです。また。そして「天」とはその反対の場所ですが、そこに上っても、引き下ろされるというのです。これはあくまでも、どこにも逃げ場がないということの誇張表現です。

それに続く「カルメル」とはエリヤとバアルの預言者が戦った場所で、イスラエルの支配地でもっとも標高の高い場所、「海の底」とは地中海のことでイスラエルの周辺で最も低い所です。ここではそこに逃げても「蛇に命じてかませる」というのです。「蛇」は神に逆らう獣の代表と見られていましたが、神は「海の底」でご自身に逆らう獣さえも用いてイスラエルの偶像礼拝者を滅ぼすというのです。

そして、最後に「彼らが敵のとりことなって行っても」というところには、神が神の民イスラエルの敵の国まで支配して、彼らを通してイスラエルの偶像礼拝者を滅ぼすというのです。

そして最後に、「わたしはこの目で彼らを見る。それは、わざわいのためで、幸いのためではない」(4節)と記されます。これは、主ご自身の目が、彼らをとらえて見逃すことはないという意味です。かつてアモスは、「善を求めよ。悪を求めるな。そうすれば、あなたがたは生き、あなたがたが言うように、万軍の神、主(ヤハウエ)があなたがたとともにおられよう」(5:14,15)と言っていましたが、彼らはそれに逆らい、神のあわれみではなく、怒りの眼差しから逃げることができなくなったというのです。

彼らはベテルに安置された金の子牛を拝んでいましたが、それは「権力」や「富」自体を自分たちの偶像とすることでもありました。その結果、正義やあわれみが忘れられました。

2.彼らは『わざわいは私たちに近づかない。私たちまでは及ばない』と言っている

9章5、6節もまとまりとして理解する必要があります。エジプトでは太陽神ラーがあがめられ、また「母なるナイル」などという言葉があるように、定期的に氾濫を繰り返すナイルはエジプトの大地を豊かにする源と見られていました。そのような中で、主はご自身のことを以下のように紹介されました。

「万軍の神、主が、地に触れると、それは溶け、そこに住むすべての者は泣き悲しみ、地のすべてのものはナイル川のようにわき上がり、エジプト川のように沈む。天に高殿を建て、地の上に丸天井を据え、海の水を呼んで、地の面に注がれる方、その名は主(ヤハウェ)」

「地に触れると、それは溶け」とは詩篇46篇5節の「神の発する御声は、その地を溶かす」に通じます。「母なる大地」などと言われることがありますが、創造主を忘れて大地を母とする者は、泣き悲しむことになってしまいます。

また続く、「ナイル川」と訳されていることばは、基本的な意味は「大河」で、それがエジプトにある場合は「ナイル川」と訳されます。また「エジプト川」と訳すとシナイ半島の川と混同される可能性があります。ですからここは、「大河(ナイル川)のように湧き上がり、エジプトの大河(ナイル川)のように沈む」と訳すべきでしょう。

「高殿」とは天の王である方の「宮殿」を意味します。

「丸天井」とは天の星が配置された領域があるという当時の考え方でした。これは現代的には、創造主は全宇宙を治めておられるという意味です。

また「海の水を呼んで、地の面に注がれる」とは、創造主ご自身が地球上の水蒸気、雲、雨、川に見られる水の循環を支配しているという意味です。

当時のイスラエル周辺の国々の人々は、干ばつや洪水を恐れ、その予測にために天文学なども発達させていましたが、そこには同時に、雨を降らせる神や太陽の神などの数々の偶像の神々がありました。

しかし、聖書の神は全宇宙からこの大地のすべての水の流れまでを、天の宮殿から治めておられると強調されているのです。

7節ではイスラエルの民の高慢を砕くようなことが、 「イスラエルの子ら。あなたがたは、わたしにとって、クシュ人のようではないのか」と記されます。

「クシュ人」とはナイル川の最上流のヌビアの地の住民で、イスラエル民からしたら南の果ての辺境の民と見られていましたが、主はイスラエルこそが辺境の民であると言われました。なぜなら、イスラエルの民はエジプトの奴隷であった者たちを主ご自身が一方的なあわれみによって連れ出してくださったからに他ならないからです。

同じように、主は、ペリシテ人を「カフトル」つまり、地中海に浮かぶクレテ島から、また、アラムを「キル」(メソポタミヤの北東部にある辺境の地)から連れ上ったではないかと言われます。1章5節では、主ご自身がアラムの民を、昔の辺境の地に追いやると予告しておられました。

8節では、「見よ。神である主の目が、罪を犯した王国に向けられている」と記されますが、この「王国」とは単数形ですから、北王国イスラエルのことを指しています。

そして主は、「わたしはこれを地の面から根絶やしにする」と言われながら、同時に、そこに希望を与えるように、「しかし、わたしはヤコブの家を、全く根絶やしにはしない。─主(ヤハウェ)の御告げ─見よ。わたしは命じて、ふるいにかけるように、すべての国々の間でイスラエルの家をふるい、一つの石ころも地に落とさない」と言われます(8、9節)。

収穫した穀物をふるいにかけるとき、穀物は下に落とされ、その他のもみや小枝や、石ころは残されます。「一つの石ころも地に落とさない」とは、石ころが穀物に混ざってさばきを免れることはないという意味です。

神は「罪人」と「義人」を最後には公正に区別されます。

そして、そのことを再度確認するように、主は、「わたしの民の中の罪人はみな、剣で死ぬ彼らは『わざわいは私たちに近づかない。私たちまでは及ばない』と言っている」(10節)と宣告されます。

彼らは繰り返しエリヤ、エリシャなどの預言者たちを通して、偶像礼拝に対する神のさばきのメッセージを聞き続けて来ました。神は特にエリシャを通して北王国イスラエルにさばきの警告と同時にあわれみを注いでくださいました。

その時代のことがⅡ列王記13章23節には「主(ヤハウェ)は、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約のために、彼らを恵み、あわれみ、顧みて、彼らを滅ぼし尽くすことを望まず、今日まで彼らから御顔をそむけられなかった」と記されています。

彼らはこの主の忍耐とあわれみを軽んじて、これからも自分たちにはわざわいが及ばないと思い込むようになってしまいました。残念ながら、めぐみは時間と共に当然の既得権益のように受け取られてしまうからです。

しばしば、人は、神の代わりに、「愛」や「恵み」自体を偶像としてしまい、まことの神との対話を忘れます。それこそ滅びへの道です。

神は私たちのどんな罪をも赦してくださいます。ただ、「神が私を赦してくださるのは分かるけど、自分で自分が赦せない」というとき、それはつまり、「その人の偶像が赦してくれないと言っているのです」という解釈もあります。それは神以外の価値観を絶対化しているからです。

つまり、神の赦しを受け入れられないことも、また、神の赦しを当然の神の責任と思い込むことも、同じようにまことの神との対話を避ける偶像礼拝の罪なのです。

3.その日、わたしはダビデの倒れている仮庵を起こし・・・

11節からは、逆に、神がアブラハム、イサク、ヤコブへの契約のゆえに、イスラエルの民に再びあわれみを施してくださるという約束が記されます。「主の日」は確かに、イスラエルにとってはさばきの日であるとともに救いの日だからです。

そのことを主はここで、「その日、わたしはダビデの倒れている仮庵を起こし、その破れを繕い、その廃墟を復興し、昔の日のようにこれを建て直す」と言われます。

聖書では、ダビデ王国の復興に関しては多くの場合「ダビデの家」という表現が用いられます。その原点は、神がダビデに、「あなたの家とあなたの王国とは、わたしの前にとこしえまでも続き、あなたの王座はとこしえまでも堅く立つ」と約束されたことです(Ⅱサムエル7:16)。

それに対し、ここでは「仮庵を起こし」と記されています。それは当時のイスラエルの指導者たちが「象牙の寝台に横たわり・・ダビデのように新しい楽器を考え出す・・・最上の香油を身に塗るが、ヨセフの破滅のことでは悩まない」という、贅沢で能天気な生活をしていたことをアモスが非難していたからだと思われます(6:4-6)。

「仮庵」とは荒野のテント生活を思い出すもので、「その破れを縫い、その廃墟を復興し」というのも、贅沢な都市の繁栄を回復するというより、神にある秩序と平和の回復を意味します。

「昔の日のように」というのも、ダビデが神と共に歩み、神にあって勝利し、神にあってイスラエルの人々に平和と繁栄をもたらしていた時代という意味です。

そして、主がダビデの仮庵を回復してくださるという約束の目的が、「これは彼らが、エドムの残りの者と、わたしの名がつけられたすべての国々を手に入れるためだ」(12節)と説明されます。

「エドムの残りの者」とは、この直後のオバデヤ書に記されているように、神がエドムをさばかれるということを前提に、その滅亡の中で残された者が回復された「ダビデの仮庵」に仕えるようになるという意味です。

そして、「わたしの名がつけられたすべての国々」という表現は、神の所有とされる国々を指します。ここの不思議は、ダビデ王国の回復のときに、今まで神の名がついていないと思われた国々にも神の名がついているということが明らかになり、それらの国々が、新しいダビデの支配に服するようになるという意味です。

つまり、アモスは、ダビデの仮庵の復興という控えめな表現を用いながらも、その回復されたダビデの国が、世界を治めることになると、壮大なことを語っているのです。

初代教会のエルサレム会議において、異邦人が割礼を受けないままで神の民とされるかという議論をしましたが、その際、主の兄弟ヤコブが立ちあがって、この箇所を引用しながら、神の民の枠がそのまま異邦人に広がることが神のみこころであると宣言しました。

なお使徒の働き15章16-18節では以下のように記されています。

「この後、わたしは帰って来て、倒れたダビデの幕屋を建て直す。すなわち、廃墟と化した幕屋を建て直し、それを元どおりにする。

それは残った人々、すなわち、わたしの名で呼ばれる異邦人がみな、主を求めるようになるためである。大昔からこれらのことを知らせておられる主が、こう言われる」

ここでは、ダビデの「仮庵」が「幕屋」という礼拝の場の回復として描かれ、「エドムの残りの者」が「残った人々」と言い換えられています。

また、「すべての国々を手に入れる」という表現が、「異邦人がみな、主を求めるようになる」と記されていますが、それはアモス書を新約的な文脈で再解釈したものと言えましょう。

とにかく、初代教会の人々が、異邦人がどのように神の民となるかについて議論したとき、アモス書が最高の導きになったのです。

13節からは、「見よ。その日が来る」ということばとともにイスラエルの繁栄の約束が美しく描かれます。第一に、「その日には、耕す者が刈る者に近寄り、ぶどうを踏む者が種蒔く者に近寄る」と描かれます。

「近寄る」とは「追いつく」とも訳されることばで、原文では最初に一度だけ記されます。当地では、年に二回の雨季に合わせて耕して種を蒔くのが普通ですが、水分が豊富な土地に変わることで、刈り入れの直後に土地を耕して種を植えることができるというのです。

「ぶどうを踏む者が種蒔く者に追いつく」とは、ぶどうの成長があまりにも早いので、種を蒔くかたわらからぶどうの収穫がなされ、ぶどう酒をつくるための酒ぶねの中でぶどうを踏むという作業がなされるというのです。

そして、山々は甘いぶどう酒をしたたらせ、すべての丘もこれを流す」とあるのは、本来、水が不足して不毛になりがちの高地でも、豊かな日照と共に、ぶどうが驚くほど豊かに育つようになるという意味です。

そして主は、「わたしは、わたしの民イスラエルの繁栄を元どおりにする」(14節)と力強く保障してくださいます。これは厳密には、「わたしはわたしの民イスラエルの囚われ人を帰らせ」(フランスコ会訳)と訳した方が良いかもしれません。

とにかく、「繁栄を元どおりにする」ことの具体的な現れとして、「彼らは荒れた町々を建て直して住み、ぶどう畑を作って、そのぶどう酒を飲み、果樹園を作って、その実を食べる」と描かれます。これは5章11節に描かれた神のさばきの逆転です。

なお、申命記28章30、33節では、神ののろいを受けた悲惨が、「家を建てても、その中に住むことができない。ぶどう畑を作っても、その収穫をすることができない・・地の産物およびあなたの勤労の実はみな、あなたの知らない民が食べるであろう。あなたはいつまでも、しいたげられ、踏みにじられるだけである」と記されていました。

それに対し、イザヤ書ではのろい」が「祝福」に変わる「新しい天と新しい地」の約束では、「彼らは家を建てて住み、ぶどう畑を作って、その実を食べる。彼らが建てて他人が住むことはなく、彼らが植えて他人が食べることはない・・彼らは無駄に労することもなく」と描かれています(イザヤ65:21-23)。

最後に主は、「わたしは彼らを彼らの地に植える。彼らは、わたしが彼らに与えたその土地から、もう、引き抜かれることはない」と約束されます。これは、イスラエル民が神のさばきを受けて約束の地から引き抜かれることを前提に読まれる必要があります。

そして、この書は、「仰せられる、ヤハウェ、あなたの神」で終わっています。そして、これは先に「わたしは、わたしの民イスラエルの・・・」と、主が言われたこととセットで理解すべきです。

このイスラエルの民と約束の地との関係は、私たちがキリストの贖いによってイスラエルに接ぎ木され、「神の民」とされ、「新しい天と新しい地を受け継ぐ」ということで現されます。

「永遠のいのち」とは、「新しい天と新しい地」のいのちが今から始まっているという意味です。

イエスはこれを前提にご自身と弟子たちとの関係を、「わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことがありません」(ヨハネ10:28)と言われました。

私たちも約束の地から「引き抜かれる」ことがないのです。

三人の有名なハリウッドスターの友人だったコラムニストが、「人がセレブになった瞬間は、そいつがモンスターになった瞬間ってこと・・かつてはいっしょにいても本当に楽しいすばらしい人だったのに、今や、彼らが爆発させる怒りときたら、ただもんじゃない・・芸能界で名誉を保つためのプレッシャーが、もともとあった弱さや欠点を倍増させた」と書いています。

人がこの世界である種の成功を収めることは、その人の堕落の始まりということがあります。神は私たちに適度な失敗や困難を与えてくださいます。それはすべて、私たちを謙遜にし、神なしには、真の豊かさも平和も平安も味わうことができないということを知らせるためです。

アモスの預言は、残念ながら北王国イスラエルでは見向きもされませんでした。しかし、それはその後に滅亡したユダ王国を通して私たちに伝えられました。

神は、一時的なバブルのような繁栄を享受していたイスラエルの民に、目に見える成功と繁栄の中で、忘れされられたものに目を向けるようにと語り続けておられました。これこそ、現代の私たちへのメッセージです。