しばしば、人は、信仰の成長を、「心が動じなくなること」と誤解してはいないでしょうか。今日の箇所では、パロの心が動じないことによって、エジプト人がどれだけ苦しんだかが描かれます。そして、現代の世界では、心が動じないテロリストと政治家との狭間で、どれだけ多くの悲惨な犠牲者が出ていることでしょう。 “出エジプト8章1節〜12章42節「心が強くされることの悲劇」” の続きを読む
出エジプト4章18節〜7章25節「この地の真の支配者」
現代の感覚で聖書を読むと誤解が生まれます。今から三千数百年前、民族ごとに異なった神々が礼拝されていました。聖書の神ヤハウェは、奴隷の民「へブル人の神」(5:3)としか見られていませんでした。 “出エジプト4章18節〜7章25節「この地の真の支配者」” の続きを読む
ヨハネ6章52〜71節「このパンを食べる者は、永遠に生きる」
後藤健二さんの最後の様子が繰り返し映されます。それは悲しみをたたえながらも驚くほど静かな祈りの姿のようにも見えます。その意味を語るような彼の数年前のツイートが感動とともに世界に広がりました。 “ヨハネ6章52〜71節「このパンを食べる者は、永遠に生きる」” の続きを読む
ヨハネ6章24〜51節「神のパンは、天から下ってきて、世にいのちを与える」
後藤健二兄殺害のニュースが世界を巡り、イスラム国と称するテロリスト集団への残虐さが、日本人には理解できないかのように報道されています。しかし、今から四百年前、多くのヨーロッパの宣教師たちがはるばる船で来ましたが、その百数十人がこの日本の地で殺され、また、数万という日本のキリスト者が悲惨な死を遂げました。その残虐性はこの国にも存在しました。しかし、それは幸い、復讐の連鎖は生んでいません。なぜなら、死を遂げた方々は、憎しみではなく愛によって行動していたからです。 “ヨハネ6章24〜51節「神のパンは、天から下ってきて、世にいのちを与える」” の続きを読む
出エジプト1章1節〜4章17節「『わたしはある』という方が、私を遣わされた」
ある方がご主人の介護で、危険な場面があったことを振り返りながら、「あのときは、どうして、あのようなことを私ができたのだろう・・・不思議にごく自然に身体が動いた」と言っておられました。それこそ、「主ヤハウェ」が、「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて信頼すれば、あなたがたは力を得る」(イザヤ30:15)と約束してくださったことの成就です。 “出エジプト1章1節〜4章17節「『わたしはある』という方が、私を遣わされた」” の続きを読む
マタイ18章15〜35節「イエスの御名による交わりの祝福」
しばしば、福音があまりに単純化され、「イエス様を信じたら死んでも天国に行ける…この世界はどうせ火で焼かれるのだから、地上の人間関係に心を煩わせる必要はない」などと誤解されることがあるかもしれません。しかし、イエスは今日の記事で、この地での兄弟に対する対応が、そのまま天に反映されると言われ、「この地で兄弟を赦さないなら、天の父もあなたを赦さない」という趣旨のことまで言っておられます。 “マタイ18章15〜35節「イエスの御名による交わりの祝福」” の続きを読む
ヨハネ6章1〜29節「永遠のいのちに至る食物を与える方」
「今年こそ、念願がかなえられるように・・・」と思って努力することは本当に大切です。目標も持てずに、安易な妥協をすることの言い訳にキリスト信仰を持ち出してはなりません。私たちは神からあずけられた賜物を生かし、この世界を少しでも住みやすくするために、神に祈り、自分を差し出すことが常に求められています。 “ヨハネ6章1〜29節「永遠のいのちに至る食物を与える方」” の続きを読む
Ⅱペテロ3章1〜18節「正義の住む新しい天と新しい地を待ち望んでいます」
ペテロ第二の手紙3章の新共同訳や新改訳を読むと、この目に見える世界が神によって「滅ぼされる日」というイメージに圧倒されます。これを一年の初めの日に読むのは気が滅入ってしまうかもしれませんが、ここには19世紀から20世紀にかけての神学的な偏りが反映されているように思われます。 “Ⅱペテロ3章1〜18節「正義の住む新しい天と新しい地を待ち望んでいます」” の続きを読む
ヨハネ5章19〜47節「すでに始まっている救いの時」
クリスマスのたびごとに、「やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った」(イザヤ9:6)と読まれながら、闇の中で救いを待ち望んでいた人々のために救い主が誕生してくださったことを喜びます。 “ヨハネ5章19〜47節「すでに始まっている救いの時」” の続きを読む
マタイ1章17〜25節「ご自分の民をその罪から救ってくださる方」
「親の因果が子に報い・・」というのは、とっても嫌な表現ですが、私たちの生きにくさの一面を言い当てているのかもしれません。たとえば、親から虐待を受けて育った子供は、親になった時、「私は親のようには絶対にならない・・」と願っているのに、同じ過ちを繰り返してしまう・・・ということがあります。 “マタイ1章17〜25節「ご自分の民をその罪から救ってくださる方」” の続きを読む