申命記19章〜22章「地に足の着いた愛の交わり」

2016年11月20日

私たちの生きている世界では、「これは絶対にあってはならない」と思える悲劇や不条理が必ず起きます。日本ではそこで、あらゆる問題の可能性を「想定」しながら、未然に備えることが求められがちですが、それでは「息が詰まる」ことになりかねないばかりか、「想定外」という事態への対処ができなくなります。 “申命記19章〜22章「地に足の着いた愛の交わり」” の続きを読む

申命記16章18節〜18章22節「あなたが従うべき権威とは」

2016年11月6日

「幸せは持つものではなく、感じるものだ」と言われます。フーストン師は、「幸福とは、痛みのないことでも享楽にふけることでもなく、鍛練、自己洞察、他者への貢献、個人的な充足感、安心感、心の平安などという特定の生き方から生まれるです」と定義しています。 “申命記16章18節〜18章22節「あなたが従うべき権威とは」” の続きを読む

ヨハネ15章9〜25節「イエスの友とされ、互いに愛し合う」

2016年10月30日

多くの信仰者は、「私はイエス様を信じて、このように変えられました」と、自分が結ぶことができた「実」の現実から、イエスのすばらしさを証ししようとします。しかし、これはイエスご自身よりも自分に目を向けるという信仰の落とし穴にはまる危険があります。 “ヨハネ15章9〜25節「イエスの友とされ、互いに愛し合う」” の続きを読む

申命記12章〜16章「主を礼拝する愛の共同体」

2016年10月16日

私たちはみな基本的に豊かさを求めています。富を得ると、大きな家に住み、一人ひとりの部屋を持つことができます。自分のやりたいことを自由にできる余裕が生まれ、個々人の活動範囲も広がります。しかし、それとともにいっしょに集まろうとしても、互いのスケジュールを調整するのが大変です。その結果、お互いの心と心が離れて行きます。 “申命記12章〜16章「主を礼拝する愛の共同体」” の続きを読む

申命記9章〜11章「全能の主に結び付く幸い」

2016年10月9日

私は昔、ひとつの教えに熱くなると、別の思想に非寛容にならざるを得ないと警戒していました。しかし、それは逆でした。

真理はイエスにだけあると心に決めたとき、かえって心が自由にされ、いろんな考え方、感じ方に柔軟になれた気がします。それは、自分で自分を守る必要がなくなるからでしょう。 “申命記9章〜11章「全能の主に結び付く幸い」” の続きを読む

ガラテヤ3章1〜14節「のろいから祝福へ」

2016年10月2日

今から40年近く前、証券会社の札幌支店での営業プレッシャーの中で文字通り「喘ぎ、うめいて」いました。当時は土曜日も全休ではありません。日曜日は、どうにか礼拝に出席する中での伝統的な祈祷文を用いての、「主よ、あわれんでください!」という祈りは、私の心の底からの叫びとなっていました。 “ガラテヤ3章1〜14節「のろいから祝福へ」” の続きを読む

申命記6章〜8章「自分自身から自由にされるために」

2016年9月18日

この箇所から11年前にメッセージを取り次がせていただいた日のことですが、主の不思議なみわざを見させていただきました。その二日前、重篤の癌患者をお見舞いし、主にどのように祈るかを導かせていただいたところ、彼女はその夜、入院して以来、初めて熟睡できたと感謝され、それまで教会に来られたこともないのに、礼拝にぜひ参加されたいと言われました。 “申命記6章〜8章「自分自身から自由にされるために」” の続きを読む

ヨハネ15章1〜11節「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です」

2016年9月11日

あなたは「私なんか・・・」などと、自分で自分に限界を設けたり、自分の信仰を恥じたりして、ぶどうの枝でありながら、木からの養分を差し止めようとしてはいないでしょうか? “ヨハネ15章1〜11節「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です」” の続きを読む

申命記4章〜5章「そうして、永久にしあわせになる」

2016年9月4日

NHKの大河ドラマや朝ドラに歴史上のクリスチャンが頻繁に登場します。みんなから好かれる人格者がほとんどです。それなのに、クリスチャン人口が増えないのはどうしてかといぶかしく思えるほどです。日本での宗教の役割は、人を謙遜で柔和で忍耐心のある人格者に育てることにあると見られがちですが、そこで問題なのは、人々の目が、神ご自身ではなく、神を信じる個人に向かうことです。 “申命記4章〜5章「そうして、永久にしあわせになる」” の続きを読む