Ⅰサムエル25章〜26章「神の怒りにゆだねなさい」

2017年11月5日

人から不当なことばをかけられ、怒りのあまりひどい言葉を返したことがないでしょうか。人の悪には驚くほどの伝染力があります。ひどい仕打ちを受けた方が、「神様の目は節穴ではないから……」と言って、争いから身を引きました。やがて神はその立場を逆転させてくださいました。

「新改訳2017」では、主の救いのみわざが、「公義をもたらす」のかわりに「さばきを執り行う」、「地に公義を打ち立てる」の代わりに、「地にさばきを確立する」と訳されています(イザヤ42:3,4)。多くの人は「神のさばき」を恐れますが、不当な苦しみを負っている人にとっては「主のさばき」こそが「救い」となるのです。それはこの世の不条理が正されることを意味するからです。

確かに、「主のさばき」が自分に向かうなら、それは恐怖でしかありませんが、主イエスは私たちが受けるさばきを引き受けてくださいました。それこそが十字架の恵みです。そして、私たちはその「驚くべき恵み」(amazing grace)のゆえに、隣人を赦すことができるのです。

1.「あの男は善に代えて悪を返した」

24章では、ダビデの謙遜と勇気によってサウルの心がやわらかくされ、彼はダビデを殺す計画を一時的にせよ止めることにしました。そのような中でサムエルの死と葬儀のことが報じられます(25:1)。

もしサウルの心がダビデを殺すことに夢中になっているときであれば、イスラエル人がそろってサムエルの死を悲しむことはできなかったでしょう。人々はサムエルがダビデの側についているのを知っていたからです(19:18)。

主は、サムエルのたましいをちょうど良いときにご自身のもとに引き上げてくださいました。

その後、ダビデはユダの南部に広がるパランの荒野に下ります。ヘブロンの南10数キロの地のマオンに「非常に裕福」な人がいましたが、その人は「羊三千匹……持っていた」(25:2)とありますが、ヨブの場合は「羊七千匹……を所有していた。この人は東の人々の中で一番の有力者であった」(ヨブ1:3)と描かれていることの対比でみても、その豊かさが特別であったことが分かります。

そして、「彼はカルメルで羊の毛の刈り取りをしていた」と描かれます。カルメルはマオンのすぐ北の地で、これは羊飼いたちにとっての大きな祝いの時でした。

そして「その人の名はナバルといい、妻の名はアビガイルと言った。この女は賢明で姿が美しかったが、夫は頑迷で行状が悪かった」という不思議な対比が描かれます(25:3)。「ナバル」とは「愚か者」という意味(25:25)、「アビガイル」とは「私の父は喜ぶ」という意味で、この夫婦はすべてにおいて対照的でした。

ナバルが裕福であり得たのは「彼はカレブ人であった」と描かれるように、ユダ族の英雄カレブの子孫であったからでしょう。ナバルという名が親から与えられた名だとは思えませんが、人々からそのように呼ばれるということの中に、彼が人々から疎まれていた様子がうかがえます。

ナバルが羊飼いの祝いの最中であることを聞いたダビデは、若者十人をカルメルに遣わし、羊飼いを敵の攻撃から守り続けてきたことへの報酬として、荒野に住む自分たちにも祝いの食べ物を分けて欲しいと頼みました。そこには同じユダ族として同盟関係を確認するという意味もありました。

そこでダビデは、「あなたの若者たちに尋ねて見てください」(25:8)と言いながら、ナバルに自分の羊飼いたちがダビデの部下たちに守られていた様子を確かめさせようとしました。

ところがナバルはそれを知ろうともせずに、「ダビデとは何者だ。エッサイの子とは何者だ。このごろは、主人のところから脱走する家来が多くなっている」(25:10)と言って、ダビデをサウルという主人から脱走した奴隷かのように嘲りました。

そればかりか、「俺のパンと俺の水、俺の……者たちのために俺が屠った俺の肉を、どこの誰とも俺が知らない者どもに俺がやるというのか」(25:11私訳)と乱暴に言い放ちます。そこにあるのは、徹底的な自己中心、自分の見たいようにしか現実を見ようとしない頑迷さです。

それを聞いたダビデは、四百人を引き連れてナバルを襲おうとします。なぜなら、これはナバルがサウルと手を組んで、ダビデの敵となるという意思を明確にしたことと受け止めるのが当然であり、放置すれば同胞の間のどこにも住めなくなるからです。

この一部始終を聞いた「若者の一人」は「ナバルの妻アビガイルに」、「ご主人様は彼らをののしりました。あの人たちは私たちにとても良くしてくれた……羊を飼っている間は、夜も昼も、彼らは……防壁となってくれました……ご主人はよこしまな方ですから、だれも話しかけることができません」(25:14-17))と訴えました。

「よこしまな方」とは、「ベリヤアルの子」と原文で記されています。それは「サタンの子」とも言いかえることができます。箴言16章27節には、「よこしまな者は悪を企む。その唇の上にあるものは焼き尽くす火のようだ」と記されていますが、ナバルがダビデの立場を皮肉ったように、彼らは人を非難する能力が長けています。それで周りの人は怖くて、当然言うべきことが言えなくなります。

ナバルとサウルは似ています。ヨナタンが父サウルに対しダビデを弁護すると、「この邪悪な気まぐれ女の息子め。おまえが……母親の裸の恥をさらしているのを……」(20:30)と罵りました。これでは誰も何も言えなくなります。

詩篇109篇4節でダビデは、「私の愛に代えて 彼らは告発で応じます。私は祈るばかりです。彼らは善に代えて悪を 愛に代えて憎しみを 私に返しました」と記しますが、それこそ彼がナバルに抱いた気持ちです。

「告発する」を名詞形にすると「サタン」です。私たちはサタンというと人の心や体を狂わせる存在と考えますが、サタンに動かされる人は、人間的な正論で相手を追い詰めるとも言えます。

ですからペテロがイエスの十字架預言を聞いて、「主よ……そんなことがあなたに起こるはずがありません」と諌めたとき、主はペテロを、「下がれ、サタン。あなたは、わたしをつまずかせるものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」と厳しく叱責されました(マタイ16:23)。ペテロのことばは人間的に考えると正論で、主の人間としての弱さを刺激して、「つまずかせる」ほどの力を持っていたからです。

ナバルの妻アビガイルは、このままでは一族全員が滅びる危険にあることをすぐに理解し、六百人を養うに足るほどのパンとぶどう酒、料理した羊などを用意してダビデのもとを訪ねます(25:18-20)。彼女が夫に事前にそれを相談しなかったのは、彼に聞く耳がなく、時間的な余裕もなかったからでしょう。

ダビデはこのときナバル一族を絶滅することこそ神のみこころであると確信して攻撃に向かおうとしていましたが(25:22)、実際はただ怒りの感情に身を任せていただけだと思われます。

彼は、「荒野で、あの男のものをすべて守ってやったので、その財産は何一つ失われなかったが、それはまったく無駄だった。あの男は善に代えて悪を返した」と言って、ナバルの一族を子供に至るまで皆殺しにするのが神のみこころであるという趣旨のことを述べています(25:21,22)。

「善に代えて悪を返した」ということばは先の詩篇109篇にもありますが、そこでは、その家族と子孫すべてに対する神のさばきを訴えています。それこそこのときのダビデの気持ちだったと思われます。

ただ、このときのダビデの問題は、それを神に向かって祈る間もなく、それを神のみこころと自分で確信して、復讐を正当化していることにあります。

2.「主(ヤハウェ)はこのしもべが悪を行なうのを引き止めてくださった。」

アビガイルはダビデを見るやいないや、その激しい怒りを察し、ひれ伏して、「この私の上にだけ、わが主よ、とがを置いてください」(25:24私訳)と懇願します。これは、家族や奴隷全員の代表者として自分の命を差し出すという捨て身の姿勢です。ダビデもこの美しい女性の気迫に圧倒されたことでしょう。

しかも、彼女は夫を「愚か者」と蔑んでいるようでありながら、「はしための私は、ご主人様がお遣わしになった若者たちに会ってはおりません」(25:25)と言いながら、自分こそ家の責任者としてさばかれるに価する存在だと訴えているのです。

その上で、「ご主人様。今、主(ヤハウェ)は生きておられます。あなたのたましいも生きておられます。(ヤハウェ)、あなたが血を流しに行かれるのを止め、ご自分の手で復讐なさることを止められました」(25:26)と、主(ヤハウェ)が自分をダビデのもとに遣わしたと大胆に迫っています。

その上で初めて、贈り物を差し出しつつ、自分の「背きをお赦しください」と懇願します(25:28)。そして、彼女は「怒り」に満ちた彼の心をやわらげ、余裕を回復させる宝石のようなことばを述べます。

それが、「ご主人様は主(ヤハウェ)の戦いを戦っておられる……ご主人様のいのちは、あなたの神、主(ヤハウェ)によって、いのちの袋にしまわれています……主(ヤハウェ)が……あなたをイスラエルの君主に任じられたとき……理由もなく血を流したり、ご主人様自身で復讐したりされたことが、つまずきとなり、ご主人様のこころの妨げになりませんように」(25:28-31)という表現です。

これほど、神のご計画と救いの確かさ、また神の前での責任を明らかにしたことばを見たことがあるでしょうか。このことばは、キリストとともに王とされる私たちすべてに適用できるものです。まさに聖霊ご自身がアビガイルを用いられたことの証でしょう。

そしてダビデも、主がアビガイルを自分のために遣わしてくださったと、主を賛美しました(25:32)。そして、彼女に、「あなたは今日、私が人の血を流しに行き、私自身の手で復讐しようとするのをやめさせた。イスラエルの神は生きておられる。主は私を引きとめて……」(25:33、34)と彼女と神に感謝しました。

一方、ナバルは何も知らずに「王のような宴会を開いて」(25:36)いました。アビガイルは翌朝、「ナバルの酔いがさめたとき」になって初めて経緯を知らせます。すると、彼は「気を失って石のようになった……十日ほどたって、主(ヤハウェ)はナバルを打たれ、彼は死んだ」(25:37,38)というのです。

ダビデはそれを聞いて、「主(ヤハウェ)は……このしもべが悪を行なうのを引き止めてくださった。(ヤハウェ)はナバルの悪の報いを、その頭上に返された」(25:39)と賛美します。ダビデが復讐しなくても、彼は自滅したからです。

ダビデは「ナバル」(愚か者)という単語を用いて詩篇14篇ばかりか53篇でも、「愚か者(ナバル)は心の中で『神はいない』と言う。彼らは腐っている、忌まわしい不正を行っている」(53:19)と歌ったのかもしれません。

そこでは続けて、「見よ。彼らは恐れのないところで、大いに恐れた。神が あなたに陣を張る者の骨を散らされたのだ。あなたは彼らを辱めた。神が彼らを捨てられたのだ」(53:5)と歌われています。ナバルは問題が解決した後の、「恐れのないところで、大いに恐れた」からこそ、「気を失って石のようになった」のでした。

それはレビ記26章36節で神のさばきとして、「彼らの心の中に臆病を送り込む、吹き散らされる木の葉の音にさえ彼らは追い立てられ……追いかける者もいないのに倒れる」と記されていることの成就とも言えましょう。

また、その詩で「あなたは彼らを辱めた」とあるのは、ダビデが自分で復讐することをやめたことで、かえってナバルの心を恐怖と恥で圧倒し、自滅させたことを意味します。

パウロはこのことを受けて「自分で復讐してはいけません。神の怒りにゆだねなさい……敵が飢えているなら食べさせ、渇いていたなら飲ませよ。なぜなら、こうしてあなたは彼の頭上に燃える炭火を積むことになるからだ」(ローマ12:19、20)と私たちに勧めています。

復讐の代わりに、善を行なうことが、相手をかえって慌てさせることになるのです。それが、先の詩篇では「彼らを辱めた」ということにつながります。ダビデがアビガイルの助言に耳を傾け、彼女の行動をたたえたことが、ナバルへのさばきとなりました。

ダビデはアビガイルの知恵に感心し、三番目の妻に迎えます。それは当時としてはあわれみと見られました。

またそれによってナバルに属していた膨大な財産がダビデのものとなったと思われます。これらすべてが、主(ヤハウェ)がダビデを名実ともに王とするために格別な恵みを注いでいるしるしでした。

3.「主(ヤハウェ)は、おのおの、その人の正しさと真実に報いてくださいます……」

26章1節では再びユダ族のジフ人がダビデの居場所をサウルに告げたことが記されます。ジフ人は先に23章19節以降の記事においても同じことをしています。そのときダビデは「仕切りの岩山」(23:28)まで追い詰められましたが、ペリシテ人がイスラエル攻撃をしているとの知らせで、サウルはその防衛に向かわざるを得なくなり、彼のいのちは守られました。

「ジフの荒野」(26:2)はナバルの家のすぐ北の地ですから、ダビデがアビガイルを妻に迎えナバルの財産を手にしたことは、ジフ人にとって脅威となりました。彼らは同族のダビデをサウルに売り渡した裏切り者としてダビデ軍の攻撃を受けても当然だったからです。サウルも一度ダビデと和解をしたものの、ダビデの軍事力の成長を看過することはできません。

サウルは三千人の精鋭からなるダビデ討伐軍を率いて来ます。サウルは「ハキラの丘」というところに野営しました(26:3)。そこでダビデはサウルの寝ている場所を見つけます(26:5)。そこでダビデは大胆にも、ヨアブの弟のアビシャイだけをともなって、サウルが寝ている野営地の真ん中に忍び込みます

サウルの枕もとの槍を見たアビシャイは、「神は今日、あなたの敵をあなたの手に渡されました」(26:8)と言いつつ、刺し殺す許可を求めました。しかしダビデは、「殺してはならない。主(ヤハウェ)に油そそがれた方に手を下して、だれが罰を免れるだろうか」(26:9)と言って彼を差し止めます。

このやり取りは24章4-7節のエン・ゲディの洞窟でのこととほとんど同じです。ただそのときダビデは洞穴の奥にひっそりと隠れていたのに、今回は大胆にも、たったひとりのアビシャイだけを伴って敵の野営地の真ん中に立っています。

そこでダビデがアビシャイに言った言葉は前回よりもさらに信仰の要点を現わしています。そこで彼は、「主(ヤハウェ)は生きておられる。(ヤハウェ)は必ず彼を打たれる。彼の時が来て死ぬか、戦いに下ったときに滅びるかだ」(26:10、11)と言います。

「時が来て死ぬ」とは、ナバルのような突然死を指し、「戦い」で死ぬとはペリシテ人などの外国との戦いで落命することですが、ダビデは主のさばきがサウルに下ることを確信しています。

それはサウルがほんの少し前に、ダビデが王になることを前提に、サウルの子孫を守ることをダビデが「主(ヤハウェ)にかけて誓う」ことを求めたばかりだったからです(24:20,21)。彼はあまりにも軽々しく主の御名を持ち出しながら、平気で主に背く行いをしており、弁明の余地もありません。

ダビデが直接サウルに手を下すことは、神の代わりに自分をさばき主とするという越権行為になります。ローマ人への手紙12章19節にある「神の怒りにゆだねなさい」とは、厳密には「御怒りに場所を空けなさい」と記されています。

それは申命記32章35節で、主ご自身が「復讐と報復はわたしのもの」と言っておられるからです。自分で報復することは、その主のご支配を邪魔することになります。

ですから詩篇94篇では、主のさばきが遅いと思われる中で、「復讐の神よ 光を放ってください。地をさばく方よ 立ち上がってください。高ぶる者に報復してください……いつまでですか 悪しき者が 勝ち誇るのは」と祈られています(2,3節)。

このように祈ることと、自分で報復することは天と地の差があることなのです。

しかもダビデは、サウルの枕もとの槍と水差しを取って無事に立ち去りますが、それは、「主(ヤハウェ)が彼らを深い眠りに陥れられた」(26:12)からであると記されます。

そして彼は以前と同じようにサウルを真っ向から責める代わりに、まずアブネルの怠慢を責め、「槍と水差しが、どこにあるかを見てみよ」と迫ります(26:16)。

このときになってサウルは気づき、以前のように(24:16)、「わが子ダビデよ」と呼びかけますが、ダビデは先のように「わが父よ」(24:11)と言う代わりに、「わが君、王様」と距離を置く答え方をします。

そして、「もし私に敵対するようあなたに誘いかけたのが主(ヤハウェ)であれば、主がささげものを受け入れますように」(26:19)とまず言います。これは自分が主へのささげ物として殺されても構わないという意味です。

同時に「しかし、それが人によるのであれば、その人たちが主の前でのろわれますように」と言います(26:19)。それは彼らが自分を主(ヤハウェ)のゆずりの地から締め出し、他の神々に仕えさせようとすることだと説明します。

そして、「どうか今、私の血が主(ヤハウェ)の御顔から離れた地に流されることがありませんように」(26:20)と祈りますが、そこには死んでもこの地に留まりたいという思いが込められています。

そして、このときもサウルは「私が間違っていた。わが子ダビデよ。帰って来なさい」と言いますが(26:21)、そこにはダビデの手によって王国が確立するという以前のようなことば(24:20)はありません。ですからダビデもサウルの誘いには乗らずに、使いをよこさせて王の槍を返します。

そしてダビデは、「主(ヤハウェ)は、一人ひとりに、その人の正しさと真実に応じて報いてくださいます」(26:23)と言います。彼は自分がサウルの手から救われるようにとは願わずに、主のさばきにゆだねています。

そして続けて、「あなたのいのちが私の目に大切であったように、私のいのちは(ヤハウェ)の目に大切にされます」(26:24私訳)と述べます。この意味は、自分の善意にサウルが応じてくれるようにと願う代わりに、主が答えてくださるという確信です。

そこには、暗に、サウルが今後も心変わりをしてダビデを追い詰めることがあっても、主が守ってくださると宣言することでした。ここに人にではなく、主に期待するダビデの姿勢が見られます。

サウルもどこかでこれが最後の別れとなることを予期したのか、「わが子ダビデよ、おまえに祝福があるように。おまえは多くのことをするだろうが、それはきっと成功する」と述べます(26:25)。

そして、最後に「ダビデは自分の道を行き、サウルは自分のところに帰って行った」と方向の違いが記されます。

私たちも善意が悪で報いられるようなときに、怒りの感情を制御できなくなりがちです。それは私たち自身の心と身体を害しますが、人の気まぐれがあなたを傷つけるのを許してはなりません

ただし自分で自分の気持ちを抑えようと頑張る代わりに、神に向かってその気持ちを正直に打ち明けることが大切です。先の詩篇109篇で、ダビデは熱くなって主のさばきを求めていましたがその最後は、「彼らは呪いましょう。しかし、あなたは、祝福してくださいます。

彼らは立ち上がると、恥を見ます。しかしあなたのしもべは喜びます。

私を告発する者たちは侮辱をこうむり、おのれの恥を上着として着ることになります……

主は乏しい者の右に立ち、そのたましいをさばく者たちから、救ってくださるからです」(28-31私訳)との告白で終わります。

そこに描かれるのは主にある心の余裕です。私たちが怒りに駆り立てられるのは、主のさばきが見えなくなって、心の余裕が失われているからです。その原点を主は変えてくださいます。