ヨハネ21章15〜25節「あなたは、わたしに従いなさい」

2017年10月15日

日本では、「茶道」「華道」「書道」「剣道」「柔道」などのように特定の「道を究める」ことが大切にされます。それと同じように信仰の歩みを、クリスチャンとしての礼儀作法を身につけて「キリスト道」を究めるかのように、無意識に考えてしまっていることはないでしょうか。

しかし、イエスが私たち一人一人に問われるのは、「あなたはわたしを愛していますか」という問いと、「あなたは、わたしに従いなさい」という命令です。

しかもそこでの「愛し方」も「従い方」も千差万別で、一人一人極めてユニークなものです。私たちにとっての「キリストのうちにある生活」というのは、極めて個性的な生き方を意味します。

1. 「あなたはわたしを愛していますか……わたしの羊を飼いなさい」

イエスはペテロに三度、「あなたはわたしを愛していますか」と尋ねましたが、それは彼が三度、主の弟子であることを否認したからに他なりません。しかもペテロはイエスが厳しい尋問を受けている間、大祭司の家の中庭で炭火にあたりながら、「弟子ではない」と言ったのです(18:25)。

ところが復活のイエスは、ガリラヤ湖のほとりでペテロや他の弟子たちのために「炭火」をおこして、魚を焼き、朝食の準備をしておられました(21:9)。ペテロは、そこで炭火にあたりながら、イエスからパンと魚を受け、自分のほんの少し前の失敗を思い起していたことでしょう。何よりも大切なのはこのような文脈の理解です。

かつて主はペテロの失敗を予告し、「わたしが行くところに、あなたはついて来る(従う)ことができません。しかし、後にはついて来ます(従います)」(13:36)と言われました。それに対しペテロは、「主よ、なぜ、ついて行けない(従えない)のですか。あなたのためなら、いのちも捨てます」(13:37)と答えました。彼の問題は、イエスのおことばを真剣に理解しようとする代わりに、自分に限っては大丈夫だと強がったことにあります。

マタイの福音書によれば、そのときペテロは、「たとえ皆があなたにつまずいても、私は決してつまずきません」(26:33)と、他の人との比較で自分の命懸けの覚悟を示しています。

それに対しイエスは、「わたしのためにいのちを捨てるのですか。まことに、まことに、あなたに言います。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言います」(ヨハネ13:38)と言われたのでした。

そして、今、弟子たちが「食事を済ませたとき、イエスはシモン・ペテロに」、個人的に「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たちが愛する以上に、わたしを愛していますか」(21:15)と尋ねます。英語のほとんどの訳が、「do you love me more than these?」と訳されているように、原文は「これら以上に」と言われているだけで意味がよくわかりません。今回の新改訳の改訂版では、他の弟子たちのイエスに対する愛との比較で、ペテロに尋ねたと解釈していますが、たしかにこの方が文脈に合っており誤解が生まれません。

イエスはここで明らかに、かつてペテロが、「私は他の弟子たちとは違う」と自分の勇気を誇っていたことを思い起こさせるように聞いているのです。それに対し、ペテロは、「はい、主よ。私があなたを愛していることは、あなたがご存知です」と控えめに答えます。

イエスが「愛しているか」と聞いたときのことばは、神の愛を表現する「アガパオー」でしたが、ペテロは、当時の一般的な兄弟愛を表現する「フィレオー」で答えます。そこにはかつて、「あなたのためにはいのちも捨てます」と言った強がりはありません。

また他の弟子と比較することもなく、「主よ、あなたはご存知です」ということばから自分の応答を始めています。この応答のことばに、謙遜にされたペテロの信仰が表現されています。

それに対し、イエスはペテロに、罪の赦しの宣言をする代わりに、「わたしの小羊を飼いなさい」という使命を確認します(21:15)。このことばは、二回目は「わたしの羊を牧しなさい」、三回目は「わたしの羊を飼いなさい」となっていますが、基本的に同じ意味です。

カトリック教会は、これを使徒ペテロにキリストの羊の群れを牧する責任が委ねられたと理解し、ローマ教皇はペテロの後継者としてその責任を受け継ぎ、各地の教会の司祭は、教皇の代理として神の羊の世話をすると考えます。

これはマタイ福音書16章18,19節を、ペテロの上に教会が建てられ、彼とその後継者に「天の御国の鍵」が与えられていると解釈するのと同じです。しかし、そこでイエスは、ペテロの信仰告白を教会の基礎とすると言ったに過ぎません。

その「鍵」に関することは、ヨハネ20章23節で復活のイエスが弟子たち全員(私たちを含む)、「あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦されます。赦さずに残すなら、そのまま残ります」と言ったことと同じです。ここでも新しい新改訳がより意味を明らかにしています。

そして、そのような弟子たち全員に対する派遣のことばの前提として、イエスは「父がわたしを遣わされたように、わたしもあなたがたを遣わします」(20:21)と言われ、そのためにイエスは弟子たちに「息を吹きかけて」、「聖霊を受けなさい」(20:22)と言われたのです。

父がイエスをこの地に送られたのはご自身の羊を牧させるためです。それはエゼキエル34章23節で父なる神が、「わたしは、彼らを牧する一人の牧者、わたしのしもべダビデを起こす。彼は彼らを養い、その牧者となる」と言っておられたことの成就です。

その「一人の牧者」であるイエスが、弟子たちを世に派遣しているのです。そして、そのために、すべてのクリスチャンにイエスの代理としての働きのために聖霊が与えられたのです。

このイエスによる派遣は、教会組織の中である人を牧師職に任命するためではなく、キリスト者全員をこの世に遣わすという意味です。ですから、イエスのペテロに対する牧会命令はクリスチャンすべてに適用できるものです。

教会の牧師が、一般信徒を愚かな羊のように見立てて指導するのではありません。教会の牧師は、一人一人のクリスチャンが、自分の周りの人をお世話できるようにみことばを分ち合うのであり、牧会の最前線は、それぞれの職場であり、家庭であり、置かれている共同体なのです。

キリストの代理を特定の聖職者に限定し、彼らに「神の国の鍵」を預けたというカトリック的な教会観に惑わされてはいけません。それは、組織論としては合理的ですが、聖書の文脈に合っているとは到底思われません。

この文脈は、自分がキリストの弟子とされた原点を見失って、とんでもない過ちを犯した使徒ペテロを再び立たせるということにあります。それを教会組織論の話しにしてはなりません。

なお、カトリックでも東方教会系でも、使徒たちの伝承が聖書を生んだと解釈しますから、聖書と教会組織が矛盾するということを気にはしません(「雑誌「舟の右側」2017-10、P18.参照)。

それに対してプロテスタントは、伝承とか伝統、組織に対しての疑問から生まれています。事実、煉獄の教えやその苦しみが免罪符の購入で避けられるなどという、不合理な教えに対する抵抗がプロテスタントの原点です。

2.「あなたはご存知です。私があなたを愛していることは」「わたしに従いなさい」

イエスは今度、より単純に、「ヨハネの子シモン、あなたはわたしを愛していますか(アガパオー)」と尋ねます(16節)。それに対し彼は、まったく先と同じことばで、「はい、主よ、あなたはご存知です。私があなたを愛している(フィレオー)ことは」と答えます(16節原文の語順)。ここでも先と同じことばのセットがあります。そしてイエスは若干ことばを変えて、「わたしの羊を牧しなさい」と言われます。

そしてペテロに「三度目も」、「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛していますか」と尋ねますが、この場合は、先のペテロのことばに寄り添うようにフィレオーという言葉を用います。アガパオーとフィレオーの意味に差をつける必要がないとも言われますが、イエスがペテロのことばに寄り添ったということは注目すべきではないでしょうか。

イエスはペテロの愛し方でご自分を愛しているかを聞いてくださったのです。

ただ、ペテロは同じ質問が三度もなされたことに「心を痛めて」、イエスに「あなたはすべてをご存知です」と同じことばに「すべて」を加え、さらに別のことばで、「あなたは、知っておられます」と、自分の愛の不完全さを、イエスは心から熟知しておられることを示唆しながら、「私はあなたを愛しています(フィレオー)と答えます。

そしてそれに対し、イエスは一度目と二度目のことばを合成するように、「わたしの羊を飼いなさい」と命じられます。ペテロは、なぜ自分が三度も同じ質問をされたかをよく知っていました。それは三度イエスを知らないと言ったことばに対し、ペテロが三度、「私はあなたを愛します」と言うことができる機会を与えて、過去を乗り越えさせることを意味しました。

そればかりか、イエスは、「あなたを赦す」という代わりに、本来ペテロに与えていた使命を繰り返すことで、真の赦しを与えてくださったのです。なぜなら、失敗したにもかかわらず、先と同じ使命を与えることこそ真の赦しだからです。

多くの人が「赦す」ということばを真に受けられないのは、そこに、「失敗したあなたを、なお信頼して働きを任せる」という意味が込められていないときだからです。信頼こそ、赦しの最大の証しです。

イエスはさらにペテロに、「若いときには……自分の望むところを歩きました」ということの比較で、「年をとると……ほかの人が……(あなたの)望まないところに連れて行きます」(18節)と言われます。そして、その意味が、「イエスは、ペテロがどのような死に方で神の栄光を現すかを示すために、こう言われたのである」と記されます(19節)。つまり、神の栄光を現すとは、自分の生きたいように生きられることとは正反対のことだというのです。

ペテロが「あなたのためなら、いのちも捨てます」と言ったのは、嘘ではありませんでした。しかし、それは「私が望む栄光の現わし方であるなら、いのちを捨てる」という意味でした。それに対しイエスは、自分の不本意な生き方に従うことでこそ、ペテロは神の栄光を現すと言われたのです。

創造主のみこころではなく、自分の意志を絶対化することが、罪の根本だからです。

それでイエスは最後に、「わたしに従い(ついてき)なさい」(19節)と命じられました。ペテロは、「私は本当にみじめな人間です」(ローマ7:24)と自覚できた時に初めて、心の底からイエスに従う者とされました。それと同じように、あなたも自分の弱さに気づかないうちは、イエスから、「あなたは今ついて来ることができません」(13:36)と言われます。

そして、今ここで、そのとき続けて言われた、「しかし、後にはついてきます」ということばが成就するのです。なお、ペテロの場合は後に「逆さ十字架」に架けられて殉教したとも言い伝えられていますが、私たちもそれと殉教の死を遂げるというよりは、たといクリスチャンとして平安な生涯を全うできるとしても、自分の意志ではなくイエスに従うという原則は同じです。

事実、神の栄光の現わし方には千差万別がありますが、そこには同じ原則があります。そのことをイエスはかつて、「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります」と言われました(7:37)。それをヨハネは、「イエスは、ご自分を信じる者が後になってから受けることになる御霊について、こう言われたのである」(7:39)と解説を加えています。

人の心のうちには何とも言い難い「空虚感」があります。それは失ったエデンの園への憧れです。人生が順調なうちは気づかなくても、何らかの心の傷を受ける時、その深淵が顔を出します。しかし、パスカルも言っているように、この無限の深淵は、無限で不変な存在、すなわち神自身によってしか満たすことができません

それを、世の目に見えるもので誤魔化そうとする空しい試みからアルコールや薬物依存、ギャンブル依存、仕事依存、恋愛依存、摂食障害、家庭内暴力、引きこもり、自傷行為、もえつき、抑鬱、恨みや不安等の感情への囚われ等の障害が生まれます。

つまり、これらは、機能不全家族から生まれた、特別に傷ついた人の病である以前に、アダムの子孫である人間がすべて抱えている普遍的な問題の一部なのです。

イエスは、私たちの心にある無限の深淵が、「生ける水の川が流れ出る」ための「泉」となると言われました。もう「私の心は空っぽだ!」などと恥じる必要はありません。そこにイエスは御霊として住まわれ、そこからあふれ出る「生ける水」は、あなた自身ばかりか、まわりの世界をも生かすというのです。

依存症は「否認の病」と言われますが、「弱さ」を認められないからこそ泥沼にはまります。ペテロは自分の弱さを認め、それがイエスに知られていることを三度に渡って、「あなたはご存知です。私があなたを愛していることは」と言わせていただいて、真の意味でイエスに従う歩みへと入ることができました。

3.「あなたに何の関わりがありますか。あなたは、わたしに従いなさい」

イエスは「わたしに従い(ついてき)なさい」と言われ、実際に歩き出し、ペテロが従いました。その時、「ペテロは振り向いて、イエスが愛された弟子がついて来る(従う)のを見た」(20節)というのです。それは著者ヨハネのことです。彼はペテロにではなくイエスに従ったのですが、ペテロは急に彼のことが気になったようです。

なお、ここで注目されるのは、彼が「この弟子は、夕食の席でイエスの胸元に寄りかかり、『主よ、あなたを裏切る者はだれですか』と言った者である」(20節)という表現で紹介されたことです。それはヨハネが、他の弟子たちが聞くことができなかったことを大胆に聞けるほど、主の身近にいたことを示します。

ただ同時にここでは、彼自身も他の弟子のことが気になっていたということを現わしているとも言えましょう。弟子たちは互いに、「この人はどうなのですか?」と気にし合っていました。それにしても、このことを通して、イエスを裏切ったユダと他の弟子たちの違いに目が向けられます。

ところでイエスは、「わたしの羊たちはわたしの声を聞き分けます……彼らはわたしについて(従って)来ます」(10:27)と言われました。つまり、「従う」とは、命令である以前に、主の「声を聞き分けた」ことの必然的な結果なのです。私たちも、心から尊敬する教師や最愛の人に出会ったなら、命じられなくても、ついて行きたいと思うのではないでしょうか。

しかし、イスカリオテのユダはイエスの声を、羊が羊飼いの声を聞き分けるようには、聞くことができませんでした。せっかく目をかけてもらいながら、主との交わりへの渇きを感じなかったからです。

私たちは、何が最も神に喜ばれる善い働きかと迷いますが、イエスは、「神が遣わした者をあなたがたが信じること、それが神のわざです」(6:29)と言われました。この書では、「信じる」ということばが数え切れないほど多く出てきますが、大部分は、何かの「教え」を信じるというより、「イエスご自身」を信頼することを意味します。

私たちはイエスのことばを聞いて、幸福になる方法のようなもの学ぶのではなく、イエスご自身という人格に出会い、その魅力にとらえられるのです。従う」という思いは、その結果として、心に必然的に湧き上がってくるものではないでしょうか。

「ペテロは彼を見て、『主よ。この人はどうですか』とイエスに言った」(21節)というのは、ペテロのヨハネに対する競走意識の現れとも理解できますが、そのような解釈は私たちのうちにある競走意識の現れかも知れません。ペテロは、この前のイエスの質問に、「あなたはご存じです……」と繰り返していたのですから、ヨハネと自分を比較する必要は感じなかったのではないでしょうか。

ここで、ペテロは、主に従うことが、自分にとって殉教を意味すると推測できたからこそ、ヨハネの将来を、親友として心配したとも解釈できます。しかし、イエスは、「わたしが来るまで彼が生きるように、わたしが望んだとしても、あなたに何の関わりがありますか」(22節)と言われました。

その後の歴史を見ると、ペテロは働き盛りに殉教の死を遂げ、ヨハネは長生きしてパトモスという島に流され、黙示録を記します。しかし、イエスはここで、「わたしが望んだとしても」という仮定法で話しながら、ご自身がペテロとヨハネに望むことは異なっており、それぞれの使命は、イエスが期待される人生を忠実に生きることであると思い起こさせているのです。

私たちは互いのことを心配し合いながら、結果的にイエスの期待を忘れ、人の期待に縛られてしまうことがあります。最近の母親は子供のことを心配し過ぎて、自立を邪魔する傾向があるとも言われます。それはときに夫との会話が成り立たない反動で、子供に注意が向かうためです。

真に見せる必要があるのは、あなたが主に従う姿勢です。同じように私たちも花婿であるイエスとの会話に心を配ることを忘れて、身近な人や子供の人生に割り込み、その成長の邪魔をしてはいけません。

イエスは、「あなたは、わたしに従いなさい」と命じられます。ここで、「あなたは」が、特に強調されています。誰ひとり、他者の人生を生きることはできません。自分で自分の問題を解決することさえできないのに、主との交わりを後回しにして、人を真の意味で助けることなどできないのです。

これは、私にも特に耳の痛いことばです。「人を愛している」ように見えたとしても、そこに「もっと私に注目し、愛して欲しい」という思いが隠されていることがあるからです。それは、人の愛を自分の愛で勝ち取り、自分のうちにある空虚さを埋めようとする依存症の行動パターンです。

私の心の穴を埋めるのは主ご自身です。そのために私は今、何もせずに、主の御前で沈黙することの大切さを痛感させられています。これは主が私個人に示してくださった方法です。あなたにも、独自の道があるのではないでしょうか?

ある教会でご老人が、教会での様々な問題で心を煩わせ、泣きながら祈っていたところ、イエスが不思議な形で、「どこを見ているのか。おまえは、わたしだけを見ていれば良いのだよ」と心に語りかけてくださったとのことです。それ以来、人のことばに振り回されて自分を見失うことなく、イエスだけを見上げて奉仕できるように変えられたと証ししておられました。

イエスは今も、様々な方法で、「あなたは、わたしに従いなさい」と語っておられます。そこには、あなた固有の従い方があります。私たちの内には創造主なる聖霊が宿っています。創造主ご自身があなたを通して神の栄光を現してくださいます。