Ⅱコリント4章5節「自分ではなくイエスを宣べ伝えるとは?」

2017年10月22日

私たちは関係の中に生かされています。ですから、いつも誰かのために生きることによってこそ、私たちが真に人間らしく生きられるとも言えます。

しかし、依存関係にならないため、人と人との距離感は大切です。あくまでも、「イエスのために」、人間の奴隷となることなく、人々に「仕える」生き方をするのです。

同じ一神教でも、私たちの信仰はイスラム教と決定的に異なります。それは三位一体の神を信じていることです。それは分析の対象ではなく、祈りの中で体験される真理です。

私たちは、聖霊にとらえられ、「イエスを私の主」と告白することによって、イエスの父の子供としていただくことができます。私の前にイエスの父がおられ、私の傍らに兄としてのイエスがおられ、私の背後で聖霊が押し出してくれています。私が祈るとき、父、御子、御霊の神に取り囲まれているのです。

決して、イスラム教のように神に向かって自分の信仰をアピールする必要はありません。神は私がいのちがけで従順を貫くかを見ている「さばき主」ではなく、私の心を照らし、使命を与えて世に遣わし、私をご自身の愛で包んでおられる方なのです。

1.「私たちは自分自身を宣べ伝えているのではありません。救い主であるイエスを主であると」

パウロは主の十字架前には、弟子ではなかったので、「使徒」の資格がないと言われました。そこで自分をイエスの使徒であると、弁明する必要に迫られていました。

しかし、パウロは自分が伝えた福音の圧倒的な素晴らしさは、コリントの人々が十字架に架けられた「イエスを主である」と告白できたこと自体に現わされていると説明し、彼らこそがパウロの資格を証明する「キリストの手紙」であると記しました(3:3)。

キリストとは日本語にすると「救い主」ですが、ヘブル語ではメシア(油注がれた者)と呼ばれ、この地上に「神の国」を実現する方のことを指しました。ユダヤ人たちは長らく異邦人の帝国の支配の下で苦しみ、救い主の到来を待ち望んでいました。そして3章では、キリストはシナイ山で与えられた「古い契約」に対し、「新しい契約」の時代をもたらしてくださる方であると紹介されていました。

「新しい契約」とは、契約の内容が変わることではなく、神がご自身のことばを聖霊によって直接に私たちの「心に書き記す」(エレミヤ31:33)ということでした。だからこそ、私たちはこのままで「キリストの手紙」とされているのです。旧約の時代には神のことばが上からの命令として、それを守らない者へのさばきの警告と共に記されていましたが、新約の時代には私たちの心の内側に優しく語られ、それを実行したくなるように語られるというのです。

私は学生時代にアメリカに短期留学していた時にキャンパス・クルセードの「四つの法則」によって信仰に導かれました。その団体の信念は、福音は単純に伝達することができるというものでした。確かに、信じるきっかけとして福音が単純化されるのは良いことです。しかし、そこに留まり、世の人々の疑問にいかに効果的に答えられるかの訓練に終始するのも考え物です。

この書の3章3節の「キリストの手紙」という表現は、エレミヤ31章31-33節を前提としていることは明らかです。また3章13-15節の「顔の覆い」「「心の覆い」という表現は出エジプト記34章29-35節の記事を知っていなければわかりません。

パウロは、コリントの人々がそれらの旧約の記事を十分理解していることを前提としてこれを書いているのです。

今回、改めて、ロドニー・スタークが二十年余り前に記した「キリスト教とローマ帝国」(小さなメシア運動が帝国に広がった理由)という本をの内容をまとめてみました。そこでは、最初の福音はギリシャ語を話すヘレニズム化されたユダヤ人と、ギリシャ語の旧約聖書に親しんでいる異邦人を伝道の対象にしたと記されています。

確かに使徒の働き18章に描かれたパウロの伝道の様子は、まず「安息日ごとに」、ユダヤ人の「会堂」で論じたとあります。そして確かにユダヤ人の激しい反対を受けて、パウロは「私は異邦人のところに行く」と言うのですが、それは旧約聖書を読んでいる異邦人であると考えられます。なぜなら、当時のローマ帝国では地域ごとに異なった神々が崇められているという宗教的な混乱の中で、唯一の創造主がおられるという教えは、ギリシャ人にとっても魅力的だったからです。

ただ、問題は、ユダヤ人の厳しい食物の戒律に困惑せざるを得なく、それが大きな障害となっていました。しかし、パウロが、異邦人は豚肉やエビや血の残った牛肉を食べる習慣を保ったまま、その肉が偶像礼拝の場で売られたかなども敢えて深く詮索することを省いて食べても良いと、神の民となるための障害を除いたことは驚きだったのです。

つまり、パウロの福音が通じた相手は、旧約聖書の物語に心を惹かれながらも、様々な律法の規定が障害になって、信じたくても信じられないという人々であったのです。

私たちの回りにも、「この世界が唯一の神によって創造された」とか「イエスは弱い人々に寄り添ってくださった」という教えに興味を持っている人やミッションスクールの出身者が少なからずいます。そのような方々に、旧約聖書の物語の中から、イエスがどのような意味で「救い主」と認められたかを、分かり易く伝えられることに大きな意味があります。

「イエスこそが主である」という教えは、当時のローマ帝国において、皇帝こそが「神の子」であると唱えられていた中で広がりました。そうしない者は社会のはみ出し者と見られました。しかし、心の底ではそれに納得できていませんでした。なぜなら、繰り返し人々を襲う原因不明の恐ろしい伝染病や、戦争、大地震、火災などに対して、皇帝は何の解決も与えられなかったからです。

しかし、イエスこそはすべての災いをその身に引き受け、それに苦しみながらもそれに勝利し、それを世界全体の益に変えることができる方です。イエスはどのような暗やみの中にも、真の「希望」をもたらすことができる方なのです。

また私たちは、イエスこそが肉体のいのちを越えた「永遠のいのち」を私たちに与え、この世界を平和に満ちた世界に変えることができる「王の王、主の主」であることを、確信を持って語ることができるからです。

なお4章4節では、キリストこそが「神のかたちであると記されていますが、創造の原点においては、「神のかたち」とはすべての人間を指した表現でした。実は、私たちもイエスと同じ「神のかたちであり、イエスこそが真の意味での「神のかたち」としての生き方を現わしてくださった方なのです。

ですから、イエスに従って生きることは、本当の意味で、人間らしく、また自分らしく生きることに他なりません。そしてそのように私たちが生きることができるようにと、ご自身の十字架で私たちの罪を赦し、その復活によって死の力に対する勝利を宣言してくださったのです。

イエスはご自身の十字架と復活によって、「新しい契約」(3:6)の時代をもたらしてくださいました。ただし、イエスが現してくださった「神のかたち」とは、この世の不正や不条理をただちに無くする権力としてではなく、この世の暗闇のただ中で、真実な生き方を貫くという生き方でした。それは、何よりも死に至るまで、神と人とに仕え続けるという生き方を現わしています。

自分のうちに起きた変化を証しするのではなく、イエスを紹介することこそが宣教の核心です。そして、それはパウロが旧約聖書に関心のある人々の葛藤に寄り添って救い主の現れを提示したように、聖書の物語に何らかの関心を示している人々に、新しい時代の到来を知らせることです。

そして、その出発点とは、自分の話をする前に、人々の心の中にある真の渇きに耳を傾けることではないでしょうか。

2.「私たち自身は、イエスのために(ゆえに)あなたがたに仕えるしもべなのです。」

パウロは自分の使徒としての権威を弁明する代わりに、自分たちをあくまでも、コリントの人々に「仕えるしもべ」として紹介します。それは、彼らのために「四方八方から苦しめられ」「途方に暮れ、「迫害され」「倒され」ながら、「イエスの死を身に帯びている」ことを通して現されています(4:7-10)。

人々のために苦しみを忍ぶ「しもべ」のような生き方こそが、「イエスのために」生きることであると描かれているのです。

この世の人々は、自分がより豊かに、より幸せに、より影響力のある人間に成長できるために神を信じると考えがちです。もちろん、与えられた仕事を成功に導く責任がありますし、子育てにしても、教育にしても、良い結果が出るように最善を尽くすのは当然のことです。また、神から預けられたお金を正しく管理することも大切です。そして、私たちが神から与えられた恵み」を、神のみこころに添って管理し、その結果として、人々から信頼され、感謝され、豊かになれることは本当に喜ぶべきことです。

しかし、あなたが豊かになり、権力を持った時に、あなたとの親密な交わりを求めて来る人は、あなた自身よりも、あなたのお金や権力が目当てだったりすることもあります。彼らは富と力を偶像としているだけかもしれません。

忘れてはならないのは、すべての人を、何らかの病が、また災いが襲うということです。そして、最終的には、すべての人が、肉体的な死を迎えます。実は、病や災いの中でこそ、真の意味での「神のかたち」に創造された人間の素晴らしさが現されるのです。それは人の優しさ、誠実さとも言えましょう。

そして、どの人も心の底で、損得勘定を越えた真実な生き方や真の優しさに憧れています。ですから、キリストのうちにある生き方のすばらしさは、何よりも、「四方八方から苦しめられ」「途方に暮れ、「迫害され」「倒され」るような中でこそ、人々に証しされるのです。

ローマ帝国の中では、キリストの福音は、ローマ皇帝の権威に十分な感謝を現わさない異端的な教えと見られていました。ときには皇帝の気まぐれによって、人々の見世物として、ライオンと戦わされることすらありました。しかし、人々はそこで、キリストのうちに生かされる者のいのちの崇高さを見たのです。

当時のどんな哲学者も、苦痛や死に耐えながら人間の崇高さを失わないための知恵を教えていました。しかし、クリスチャンたちは、哲学者の本などを読むことなしに、当時の哲学者が説くような崇高な生き方を全うすることができました。それは、十字架の苦しみを忍ばれたキリストご自身が一人一人のクリスチャンの中に生きて、「神のかたち」としての生き方を全うさせてくださったからです。

西暦二百年にテルトゥリアヌスというクリスチャンのリーダーは、「キリスト教徒の血は、種子なのである」、殉教の血が流されるたびに、信者の数は倍増するからという現実を記しています。

しかも、「イエスのために」と訳されていることばは、「イエスこそが私たちの主です」という意味からだと思われますが、原文は「because of Jesus」(イエスのゆえに)と訳す方が自然のように思えます。つまり、イエスは目標であるよりは、私たちの宣教や働きの「原因」として描かれているのです。

そして、目標はあくまでも「神の栄光を知る」(4:6)こと、または「神の栄光を知ることができるように」宣べ伝えることにあります。それは「この世の栄光」の逆説とも言えるものです。なぜなら、イエスはご自分が十字架にかけられることを、「人の子が栄光を受けるとき」(ヨハネ12:23)と言っておられたからです。

しかもイエスは、十字架にかけられることを指して、「わたしが地上から上げられるとき」(同12:32)と表現し、そこで左右に広がれた手を通して、「わたしはすべての人を自分のもとに引き寄せます」と言われたのです。

十字架は当時、最も恐ろしく、忌わしく、恥ずべき刑罰の代名詞でした。ところがそれは、「罪と死に対する勝利の記念碑」とされたのです。だからこそ、現代の多くの女性がこの忌まわしい死刑の道具を、愛のシンボルのアクセサリーとして身につけています。イエスはこの世の恐怖と嫌悪と恥のしるしを勝利の記念碑に変えてくださいました。

私たちは、「イエスのゆえに」、この世の様々な困難な課題に立ち向かって行くことができます。ローマ帝国の支配下で、少なくとも紀元165年と251年の二回にわたって、帝国の人口の三分の一から四分の一もの人々を死に至らしめる疫病が流行りました。人々はその原因も対処法も分からず、感染したら、家族すら道端に放り出しました。自分への感染を恐れたからです。

しかし、クリスチャンたちは「イエスのゆえに」そのような病人に寄り添い、親身に解放しました。栄養と休養はすべての病に対する最大の特効薬ですが、不治の病が丁寧な看護で癒される時、それは同時に、感染症に対する免疫をつけています。

病を潜り抜けた人は、まさに、奇跡の人として、次から次と病人を助けて行きました。それは、たとい病気をうつされて、死ぬことになっても「永遠のいのち」が保証されているとの余裕から生まれた行為でした。

私たちは、「イエスのために」というより、「イエスのゆえに」、様々な痛みや病を、また困難を抱えた人の中に入って行くことができるのです。

その際、私たちは上から目線で人々に真理を語るのではなく、隣人にもまた子供にも、その悩みや葛藤を味わっていると同じ水準にまで降りて寄り添い、「泣いている者たちとともに泣きなさい」(ローマ12:15)という共感的な愛を実践するのです。

私たちは、「イエスのゆえに」、「イエスの力を受けている者」として、イエスが向かいたいと思われるところに遣わされて行くのです。

3.「私たちは、この宝を土の器の中に入れています」(4:7)

6節では、「神の栄光」は「イエス・キリストの御顔にある」と描かれています。つまり、私たちはイエスを通して、人々が求める「この世の栄光」ではなく、「神の栄光を知る」のです。そして、それは、「闇の中から光が輝き出よ」と言われた神が、「私たちの心を照らしてくださった」結果だというのです。

パウロは深い葛藤を覚えた結果として、また真理の探究の結果として救い主のことが分かったというのではありません。しばしば、使徒の働き9章に「パウロの回心」という標題が付けられますが、この記録は、パウロが自分で方向転換したというより、「天からの光が彼の周りを照らし」、天のイエスがパウロに直接に語りかけて、ご自分の使徒として召されたという記録です。回心というより、イエスがパウロをとらえた記録です。

私たちの信仰も、光の創造主ご自身が一方的に私たちを選んで、「心を照らしてくださった」結果です。つまり、信仰とは、私たちのうちから生まれ出たものではなく、光を創造された神の一方的なみわざなのです。

なお、ここで、「輝き出よ」とか「照らし」と訳されていることばは、ランプの語源となるギリシャ語の動詞、ランポウです。つまり、聖霊を受けているすべての者には、心の中にランプの灯が灯されているのです。

そして、そのことが、「私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです」(4:7)とさらに説明されます。なお、この「宝」とは、「キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かす」ということ自体を指しますが、それは名詞形ではなく、動詞形の「知識を輝かす」というダイナミックな働きを意味しています。

それこそ神の奇跡なのです。それは「聖霊の働き」に他なりません。3章、4章のテーマはそれを説明することにあるからです。そして聖霊の働きは、「苦しめられても窮しない」「途方に暮れても行き詰まらない」「迫害されても見捨てられない」「倒されても滅びない」という(4:8,9)、十字架の苦しみを忍ぶ力として現されています。そして、それらの苦難を通して「イエスのいのちが私たちの身に現れる」(4:19)と記されています。

「イエスは主です」(Ⅰコリント12:3)と告白する者の「土の器」の中には、「宝」の源である創造主なる聖霊が住んでおられます。コリントの人々は目に見える超自然的なことばかりを求めましたが、聖霊の働きは何よりも、私たちの「心を照らす」ことにあります。そしてそれはダイナミックな行動の原点になります。

ポール・トゥルニエは、戦後間もなくのスイスの教会を見ながら、「教会が、過半数は生気がなく、物悲しげで疲れた心の持ち主によって占められている」という現実に心を痛めました。

その原因は、教会が聖書の教えを道徳主義に歪めて、恩恵によるひろやかな解放を与える代わりに、過ちを犯し、神の罰を受けるのではないかという「抑圧的な不安」の重荷を与え続けてきた結果でないかと語っています。

ある女性は、古い伝統に縛られた田舎の町で育ちながら、この「抑圧的な不安」を味わっていました。彼女の中には、広い世界で活躍したいと思うのは傲慢であるという声が聞こえていました。そう思っていないと、思うようなことが果たせなかった場合、平静を保って晩年を迎えられないという不安がありました。彼女はその思いを私に相談してきました。

それに対して私は、「広い世界に出て行かずして、どうして謙遜を学べますか」と逆説的に励ましました。彼女はその時、心からの「解放」を味わったと言ってくれました。

人間の心の中で、願望は必ず不安と結びついています。ですから、不安を刺激すれば自動的に願望が抑圧されます。実際、多くの宗教は、不安を駆りたてて人の願望と行動を制御します。でも、それは、同時に、いのちの力をも抑圧させ、生気をも失わせます。

4世紀に正統的な三位一体論を守るために戦ったアタナシウスは、イエスが創造主であり、「いのち」そのものであるからこそ、十字架に架けられることによって、死の力を完全に根絶することができたと主張しました。さらに、「十字架は死に対する勝利であったこと、もはや死が力を発揮していないことは、キリストのすべての弟子たちの間で、死が意に介されず、皆が死を踏み越えていることによって明らかにされていた」と記しています。

そこに描かれたイエスの姿、またキリスト者の姿は、いのちの力に満ち溢れ、「いのちが死をのみ込む」というダイナミックなものでした。

聖霊を受けているとは、いのちの力が、私たちのうちに爆発的な力を生むことができることを示します。ただ、それは、この世的な勝利から勝利へというよりも、イエスの十字架の御跡に従う力として現されます。

復活のイエスは、恐れ閉じこもっていた弟子たちに向かって、「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わされたように、わたしもあなたがたを遣わします」(ヨハネ20:21)と言われました。私たちの肉体も心も「土の器」のようにもろく、弱いものですが、私たちのうちには創造主なる聖霊が与えられています。

ですから、私たちはイエスの代理大使としてイエスが生きられたように、生きることができるのです。私たちは、「イエスのゆえに」、不条理に満ちた世界に遣わされ、十字架に架けられたイエスの御顔に現わされた「神の栄光」を証しすることができるのです。それは、この世の「栄光」の観念を変える神の逆説です。

私たちに授けられた「宝」の豊かさは、死を乗り越えるいのちとして現されます。不安によって自分を抑圧せずに、大胆に困難に立ち向かう者こそが、キリストにあるいのちの輝きを体験することなのです。