士師記17章〜21章「めいめいが自分の目に正しいことを行なう中での悲劇」

2017年7月2日

キリスト教会の歴史を見ると、「主(ヤハウェ)の御名」を持ち出した「戦争」や「ご利益主義」が福音を歪めてきた現実が見られます。その原点が今日の士師記に見られます。

神の救いの目的が、この世界を神の平和(シャローム)で満たすことにあるという中心点を忘れるところから、その逸脱が始まります。 “士師記17章〜21章「めいめいが自分の目に正しいことを行なう中での悲劇」” の続きを読む

詩篇139篇「神の最高傑作として生かされる」

2017年6月18日

人は今、小川のせせらぎや森の木々、青空ばかりか太陽の光さえなくても過ごせるような人工的な世界に住んでいます。「世界って、何て美しいんだろう!」という感動を最近味わったことがあるでしょうか? “詩篇139篇「神の最高傑作として生かされる」” の続きを読む

士師記13章〜16章「孤独なナジル人サムソン」

2017年6月4日

サムソンの身体は驚くほど強いのに、心はどうしてこうも弱いのかと思われます。しかし、それにまさって不思議なのは、彼がイスラエルの民から完全に浮いていたことです。神の御霊に動かされながら、これほど孤独だった人がいるでしょうか。彼がこれほど女性の誘惑に弱い原因は、孤独かもしれません。 “士師記13章〜16章「孤独なナジル人サムソン」” の続きを読む

士師記10章〜12章「主に用いられながら、主を知らなかった人」

2017年5月28日

「勝った負けたと♪騒ぐじゃないぜ♪あと態度が大事だよ♪」という演歌が流行ったことがあります。人生には勝ち負けよりもはるかに大切なことがあるというのですが、アモン人のとの戦いに勝ちながら、自分の一人娘を失ってしまったエフタの記事には、心が痛みます。 “士師記10章〜12章「主に用いられながら、主を知らなかった人」” の続きを読む

ヨハネ19章16〜30節 「イスラエルの使命を完了した王なる小羊」

2017年5月21日

「主のみこころは?」と多くの信仰者が問いかけますが、多くの場合は、就職、結婚、自宅の建設、教会の選択などということに絡んで用いられます。

私も就職の際に、多くの内定をいただきながら、「みこころの就職先は?」と真剣に祈りました。しかし、入社三日目に、「みこころを読み間違えた……」と深く後悔しました。しかし、それは、新規開拓の飛び込み訪問外交が苦しかったからかもしれません。 “ヨハネ19章16〜30節 「イスラエルの使命を完了した王なる小羊」” の続きを読む

ヨハネ18章38節〜19章16節「真の王として苦しみを忍ぶ方」

2017年5月14日

「真の王」とは、どのような存在でしょうか。自分の王権を主張して、人を従わせる人でしょうか。かつてモーセはイスラエルの民が金の子牛を作って拝んだ時、自分の名をいのちの書から消し去っても良いから、その代わりに彼らの罪を赦してほしいと願いました(出エジ32:32)。 “ヨハネ18章38節〜19章16節「真の王として苦しみを忍ぶ方」” の続きを読む

士師記6章〜9章「神の救いを人間の働きとする悲劇」

2017年5月7日

歴史上の英雄には、必ず負の遺産が伴います。たとえば、豊臣秀吉は日本では尊敬を集めますが、朝鮮半島では悪魔の代名詞のような存在です。マルティン・ルターもユダヤ人迫害への道を開いたことで批判を浴びています。 “士師記6章〜9章「神の救いを人間の働きとする悲劇」” の続きを読む

士師記1章〜5章 「主を怒らせる民に対する救い」

2017年4月30日

クリスチャンとは、敬虔な生き方で尊敬される人でしょうか?また、聖書知識があってハバクク書などをすぐに開くことができる人でしょうか?しかし、パウロによると、「神の子としてくださる御霊を受け」て、イエスの父なる神を、「アバ、父」と呼ぶことができる人を指します (ローマ8:14、15)。 “士師記1章〜5章 「主を怒らせる民に対する救い」” の続きを読む

Ⅱコリント5章11〜21節「キリストのうちにある、新しい創造」

2017年4月23日

教会暦では、イエスの十字架への歩みを覚える四十日間の受難節に、自分の欲望を制するための様々な節制の実践が勧められました。しかし、実は、イースターの季節も四十日間あります。「使徒の働き」では、「イエスは苦しみを受けた後、四十日の間、彼らに現れて、神の国のことを語り…ご自分が生きていることを使徒たちに示された」(1:3)とあるからです。 “Ⅱコリント5章11〜21節「キリストのうちにある、新しい創造」” の続きを読む

ヨハネ18章28〜40節「私たちの不真実を変えるイエスの真実」

2017年4月16日

「イエスはどうして、十字架に架けられたのですか?」と聞かれたら、どのように答えるでしょう。ある人は、歴史的な観点から、「イエスの人気があまりにも高くなって、当時のイスラエルに混乱を起こすと見られたから」と答えます。またある人は、「神はイエスを、私たちの罪の身代わりとして十字架にかけられた」と神学的な視点から答えます。 “ヨハネ18章28〜40節「私たちの不真実を変えるイエスの真実」” の続きを読む