エペソ4章17節〜5章2節「聖霊を悲しませてはいけません」

2017年4月29日

アルコールやギャンブルなど、様々な依存症を患っている方に、ありとあらゆる警告や脅しをかけることによって、その人の行動を改めさせようとすることがありますが、それが効果を発揮することは、まずあり得ません。かえって、その人の自己嫌悪感を増幅させ、酩酊状態やギャンブルの勝利で得られる全能感を求めさせるようになることでしょう。

エペソ書417節以降は、その意味で読み方を、気をつけなければなりません。文脈を飛び越えてある特定の聖句だけを教えて差し上げようとすると、その人は、「自分のような信仰の弱い人間は結局、変わりようがないのか・・・」という落ちこぼれ意識を増幅させることになりかねません。

 

しかし、パウロはこの書で繰り返し、「私たち信じる者に働く神のすぐれた力」に関して語ります(1:1920)。それは「キリストを死者の中からよみがえらせた」「神の大能の働き(エネルゲイヤ)」です。

今、私たちの想像を超えた偉大なことが私たちのうちに始まっています。それを知るのが「心の目」が開かれることです。

 

1.「古い人を脱ぎ捨て・・・新しい人を着た」

   パウロは「キリストのうちにある者」としての生き方に関して、「ですから私は言います。主にあって厳かに勧めます。あなたがたはもはや、異邦人がむなしい心で歩んでいるように歩んではなりません」(4:17)と、敢えて特別に記しています。

この書では、キリストがユダヤ人と異邦人の間の「敵意を生み出す隔ての壁を打ち壊し」てくださったと強調していましたが、同時に、両者ともキリストを知る前は、「この世の時代に合わせ、空中の権威を持つ支配者に従って・・・歩んでいました」(2:2)という失われた状態であったと描かれています。

これはたとえば、「あなたは日本人のままで救われているけれども、日本人の常識に従って生きてはなりません」というような意味になります。問題とされているのは「むなしい心で歩んでいる」ということですが、これは生きる方向を見失っている状態です。それは生かされている使命を忘れた歩みとも言えましょう。

そのことがさらに、「彼らは知性において暗くなり、神のいのちから遠く離れています。それは、彼らのうちにある無知と、頑なな心のゆえにです」(4:18)と描かれます。つまり、「神のかたち」として既に与えられている「知性において暗く」なっているために、「神のいのち」から「引き離されている」状態だというのです。

それは人間存在の核心にある「心」が「頑な」になって神の語りかけに反応しなくなっている状態とも言えましょう。そしてそれは特に性的な堕落に現わされることが、「無感覚となった彼らは、好色に身を任せて、あらゆる不潔な行いを貪るようになっています」(4:19)と記されます。

これは感覚が麻痺し、倫理的な歯止めがなくなり、汚れた行いを「恋い慕う」ような状態を指します。ローマ人への手紙では「恥ずべき情欲」ということで同性愛のことが描かれますが(1:26-27)、それは神から与えられた秘儀からあらゆる聖さが失われた状態です。

  そして、パウロは彼らを信仰の原点に立ち返らせるように、「しかしあなたがたは、キリストをそのようには学びはしませんでした。もし、この方に聞き、この方にあって教えられているならば、です。真理はイエスのうちにあるからです」と訳すことができます。

これはエペソの信徒が確かにパウロから正確にキリストを学んできたはずなのに、どうしてこの世の異邦人の生き方に平気で戻ることができるのか、という問いかけです。

  その上でパウロは、「イエスのうちにある真理」に関して、「昔の生き方に従う古い人を脱ぎ捨てることです。それは人を欺く情欲によって腐敗して行くからです。またあなたがたが心の霊において新しくされ続け、真理に基づく義と聖をもって、神にかたどり造られた新しい人を着ることでした」(4:22-24)と描いています。

ここでの中心は、「古い人を脱ぎ捨て・・・新しい人を着た」という、既に起こった立場の変化です。それは古いアダムの生き方を捨て、キリストをその身に着たということで、バプテスマはそれを象徴する儀式でした。その際、水から上がった直後に、新しい衣服を着させてもらうという習慣もあったようです。

またこれは、たとえば、奴隷の衣服を脱ぎ捨て、王家の衣服を身に着けるようなことです。外面的には、罪の奴隷から解放されて、神の子の名誉ある立場が与えられたとしても、心の底では奴隷根性から自由になることができません

そこで必要なのは、「おまえは自分の言動に責任を取る覚悟ができていない!」と非難することではなく、「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」(Ⅱコリント5:17)とあるような決定的な立場の変化が既に起きたと励ますこすことです。

その変化のきっかけは、「心(思い)の霊において新しくされ続ける」ということです。これは、先に、「むなしい心(思い)」と言われた状態から変えられたことによります。

もともと人は、自分の肉の意思で、「新しい人」であるキリストを「着る」のではありません。創造主である御霊が、その変化を起こしてくださいました。

ところが私たちは、神が起こしてくださった変化を忘れ、古い生き方に逆戻りしそうになります。心がその変化について行かないからです。そこで必要なのは、私たちが既にバプテスマを受け、キリストをその身に着け、死の中からよみがえって、新しい歩みに入っているという霊的な変化の事実を繰り返し思い起こすことです。

   たとえば、私は野村證券札幌支店で働いていた三年間、激しい葛藤と重圧に耐えていました。神の憐みで、それなりの結果を出してドイツ留学への道が開かれ、仕事の内容が劇的に変えられはしましたが、それでも昔のストレスは簡単に消えることなく、十年余りも夢に現れ続けました。

しかも、その営業的発想が、牧師になってからも私の心を支配しました。証券営業ではそれなりの結果を出せたのに、牧師になったら、全然、結果が出てくれない・・・という焦りです。もちろん、理性では、教会の成長は数で測ることはできないし、牧師の働きは、目に見える結果などを求めてはならないということは知っているはずなのに、古い時代の発想は心の奥底に染み付いていました

そのとき示されたのは、自分で獲得した成果ではなく、キリストご自身が私のうちに起こしてくださった変化に目を向けるということでした。私は自分で信じたのではなく、キリストによって捕らえられ、信じさせていただけたのです。

古いアダムの生き方は根強く残っていますが、私はすでに奴隷の衣服を脱ぎ捨て、キリストをその身に着ているという立場の変化が起きています。実は既に、「真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造られた新しい人を」着させていただいているのです(4:24)。

   私の心を支配した感情は、アルコール依存やギャンブル依存と同じような自己嫌悪と全能感の繰り返しでした。何かあるたびに、「馬鹿にされてたまるか・・・」という意地が自分を駆り立て、うまく行くと、「そら、見たことか!」と自分を誇ります。私たちは自分の行動を動かす感情の力を謙虚に認める必要がありますが、多くの人々はそれを認めずに、「私の動機は正しい!」と自分を正当化します。

しかし、自分を弁護する必要を感じているということ自体が、その人の心が人の評価に左右されていることの最大のしるしです。そこで、大切なのは、自分のうちに沸きあがってくる昔ながらのアダムの感情を正直に認め、それがあることを神に告白しながら、神が私たちのうちに起こしてくださった変化に、感情がついて来るように待つことです。感情は、時と共に、意思と行動によって変えられてくるものです。

心が神の救いのみわざに向けられ、神と隣人を愛するという具体的な行動に自分の意思を向けて行くときに、必然的に、神の平安がついてきます

2. 「人の成長に役立つことばを語り・・恵みを与えなさい」

   そしてパウロは、「ですから、あなたがたは偽りを捨て、それぞれ隣人に対して真実を語りなさい。私たちは互いに、からだの一部分なのです」(4:25)と勧めます。「真実を語る」とは、「何が真実であるかをことばにする」と記され、15節の「愛をもって真理を語る?」とは異なった表現です。

しかも、これはゼカリヤ8章16節からの引用で、そこでは「あなたがたはそれぞれ隣人に対して真実を語り、真実と平和をもたらす公正さをもって、あなたがたの門の中でさばき(政治)を行え」と記されていました。ただ、パウロはそこでその章全体の文脈を意識していたと思われます。

その3-5節では、「(ヤハウェ)」が「シオンに帰り、エルサレムのただ中に住む。エルサレムは真実の都と呼ばれ・・・エルサレムの広場に、老いた男、老いた女が座り、みな長寿で手に杖を持つ。都の広場は、男の子と女の子でいっぱいになる。子どもたちはその広場で遊ぶ」という新しい祝福の時代の幕開けが告げられていました。

つまり、神が一度は廃墟とされたエルサレムを新しく建て直し、そこに老人から子供までが溢れるようになるという時代の到来を前提として、互いを喜び合うことの勧めなのです。今、私たちの教会にこれが実現しています。なんと素晴らしいことでしょう。

それはエペソ書の文脈では、異邦人とユダヤ人が互いにキリストの「からだの一部分」とされているという意識から生まれます。ですから、この「真実」とは相手の欠点を指摘し、へこませるような真理ではなく、希望を与えるもの、つまり、神がキリストにあってなしてくださった救いのみわざの真実を語ることです。

しかも、「真実を語る」目的は、交わりの中に「平和(シャローム)をもたらす」(ゼカリヤ8:16)ことにあるのです。私たちの交わりの中で、自分を強がって見せることばや行いがなくなり、「キリストのうちにある」ことの喜びを語り合うことが大切なのです。

  4章26節は、「怒りなさい。しかし、罪を犯してはなりません(Be angry and do not sin)」と訳すことができます。怒ること自体は否定されていません。これは詩篇44節のギリシャ語七十人訳と同じで、そこを新改訳は「震えわななけ」と訳しますが、「be angry」という訳も多く見られます(ESV,NKJ)

そこでは「人の子たちよ いつまでも私の栄光を辱め 空しいものを愛し 偽りを慕い求めるのか」というダビデの「怒り」が描かれ、その上で、「知れ。主(ヤハウェ)ご自分の聖徒を特別に扱われるのだ。私が呼ぶとき 主(ヤハウェ)は聞いてくださる」と記されます。

私たちも彼に倣って怒るべき時があります。ただ彼は主の視線で「怒り」ながらも、それが人間関係を破壊する激しい憤りに向かいません。それは主が聞いてくださることを知っているからです。

 

続く文章は、「あなたがたが憤っている状態の上に、日を沈ませてはならない(do not let the sun go down on your anger)」とも訳すことができます。当時は現在のような照明がありませんから、日が沈むと気持ちも暗くなったのかもしれません。これは、パウロのジョークだと思われます。

しかも、その勧めの核心は、「悪魔に機会を与えないようにしなさい」(27節)という部分にあります。人の怒りの感情の中に悪魔は巧妙に入り込み、人を堕落させます。それを劇的に描いたのが、映画スターウォーズでのルーク・スカイウォーカーの父アナキンが、悪の勢力の代表ダース・ベイダーになって行く過程です。

アナキンは母親思いの優しく優秀な子でしたが、母を殺された後から、恨みの感情が増幅され、あることを契機に、暗闇の力(ダークフォース)の誘惑で、自分の怒りの感情を爆発させてそれに身を任せ、すべての問題を暴力で解決するように堕落します。

これは、貧しい人を助けるために始まったはずの共産党政権が、民衆を暴力支配するようになっていった過程に似ています。憎しみや怒りが革命の原動力であることは、暗闇の力のまさに思うつぼです。

 

詩篇の祈りには、怒りの感情を神に向かって表現する知恵が満ちています。霊感されたみことばを用いて、自分の心の底に沈殿しそうな怒りの感情を表出することが許されます。

私たちが自分の怒りの感情を受け止めながら、主との交わりでそれに振り回されなくなったら、愛の交わりは確実に成長できます。

 

「盗みをしている者は、もう盗んではいけません」(28節)とは、初代教会の交わりの中には奴隷が多く、彼らには盗みをそれほど悪と思っていなかったのかもしれません。昔から、日本の石川五右衛門のように、豊かな人から金品を奪って、貧しい人々に分かち合う義賊のような人がいたのでしょうか。

それにしてもここで興味深いのは、「困っている人に施しをするため、自分の手をもって正しい仕事をし、ほねおって働きなさい」という盗みとはまったく逆の方向に生きるために、労働に励むように勧められていることです。

    「悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。むしろ、必要なときに、人の成長に役立つことばを語り、聞く人に恵みを与えなさい」(29節)も同じような行動の逆転を勧めるものです。

日本の昔からの体育会系の社会では、人を発奮させるために敢えて人格を貶めるような発言が許容されることがありました。最近はパワーハラスメントに分類されるようになりました。

しかしここでは、成長」、つまり、人を「建て上げる」ことに役立つことばを語るように命じられます。これは4章16節の、「愛のうちに建てられる」を思い起こさせます。口から出ることばが、交わりを壊すものか、建てあげるものか、それが問われています。

私たちは正義を主張することよりも、自分のことばが交わりを建てあげるものかどうかを、吟味し続ける必要があります。

3.「愛されている子どもらしく」

  パウロは、「神の聖霊を悲しませてはいけません」(30節)という不思議な表現を用います。聖霊は、何かの力である前に、パーソン(人格)であられます。

イザヤ63章10節には、イスラエルの民が主の愛とあわれみを忘れたことに関して、「彼らは逆らって、主の聖なる御霊を悲しませたので、主は彼らの敵となり、自ら彼らと戦われた」と記されていました。彼らは御霊を悲しませた結果、神の国と神殿を失いました。古いアダムのままに居直って、「神の聖霊を悲しませる」ことは恐ろしい結末を招きます。

ただここではその警告と同時に、私たちのうちに既に起こされた聖霊のみわざを思いながら、「あなたがたは、贖いの日のために、聖霊によって証印を押されているのです」と記されます。「贖いの日」とは、私たちの身体が復活し「新しいエルサレム」に入れられる日を指しています。

私たちはその「保証(頭金)」としての聖霊を受けているのです(1:14参照)。私たちはやがて、キリストの栄光の姿にまで変えられるのですが、それはすべて聖霊のみわざです。

   そして、「聖霊を悲しまる」罪のリストが、「無慈悲、憤り、怒り、怒号、ののしりなどを、一切の悪意とともに、すべて捨て去りなさい」(31節)として記されています。これはすべて交わりを破壊する罪です。

「憤り、怒り、怒号」は、「激怒、激高、わめき」とも訳せることばで、感情が制御できていない状態を指しています。

そして、それと反対に、「互いに親切にし、優しい心で赦し合いなさい。神も、キリストにおいてあなたがたを赦してくださったのです」(4:32)という行動は、聖霊に導かれた行動です。私たちの行動の原点は、常に、「神がキリストにおいて・・・赦してくださった」ということから始まる必要があります。

自分で自分の気持ちを変えようとするのではなく、神がキリストにおいてなしてくださったみわざに立ち返ることこそすべての基本です。

   5章1節では「ですから、愛されている子どもらしく神に倣う者になりなさい」という言葉から始まります。しかし、多くの人の心の中には「神に愛される価値のある者になりなさい」という語りかけがないでしょうか?しかし、ここでは「あなたは神に愛されている」のだから、神に倣う者となるように命じられているのです。

その上で、「また、愛のうちに歩みなさい」と命じながら、キリストの模範をしまします。それは、「キリストも私たちを愛して、私たちのために、ご自分を神へのささげもの、またいけにえとして、芳ばしい香りを献げてくださいました」というものです。

これは4章1節の「召されたその召しにふさわしく歩みなさい」という言葉に通じます。私たちはみな、神のかたちに創造されています。しかし問題は、私たちが「神のかたち」としての生き方を忘れていることにあります。それに対して、イエスは「神のかたち」として生きることをご自身の生涯を通して示してくださったのです。

神のかたちとしての生き方は、キリストの生涯です。そして私たちはそれに「倣う」ことによって、真の意味で、自分に与えられた人格や賜物のすべてを生かすことができるのです。

   パウロはこの手紙で最初から最後まで、神の圧倒的な、人知をはるかに超えた救いのみわざに目を留めさせようとしています。それが、「あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって・・・神の大能の力によって私たち信じる者に働く神のすぐれた力が、どれほど偉大なものであるかを、知ることができますように」(1:18,19)という祈りに現されています。

旧約聖書には、「イスラエルの民は、どれほどすばらしい神の教えを受けても、心を入れ替えても、いつも三日坊主だった・・・」という趣旨のことが記されています。それに対し、新約では、キリストと聖霊が私たちを内側から変えてくださるということが記されています。

あなたのうちに既に働いている神の力に目覚めましょう!それはしばしば自分の意志の力に絶望したところで体験されます。

私のメッセージを聞く人が、よく、「このままで良い・・・ということがわかり、安心しました」と言ってくれます。また反対に、「先生は、いつも、人は変わらないというけど、もっと励ましも必要なのでは・・・」とも言ってくれます。どちらにも誤解があるような気がします。

私が強調しているのは、「いつでも、そのままの姿でイエスを礼拝し、イエスについて行きましょう。そのとき、イエスがご自身の御霊によって私たちを造り変えてくださいます。それは、期待通りの変化ではないかもしれないけれど、そこでキリストにある愛の交わりが成長しているなら、神の望む変化が起きているのではないですか」という趣旨のことです。

私たちは、自分の愚かさを自覚し、それを主にあって受け入れる程度によって、人の愚かさを許容できるようになります。しかもそこでの「成長」は私たちの人格的な個人としてよりも、「キリストのからだ」という交わりで考えるべきでしょう。