エペソ4章1〜16節「あらゆる点において……成長する、とは?」

2018年4月15日

信仰に導かれたばかりの頃、人々から尊敬されることが最高の伝道になると思っていました。しかし、より高いレベルの信仰に達したいと願えば願うほど、周りの信仰者や牧師たちを非難したくなってしまいました。

残念ながら、人は自分の成長を測りだしたとたん、争いを作り、人の評価が気になりだします。

星野富弘さんは、「れんぎょう」の花の絵とともに、「わたしは傷を持っている でも その傷のところから あなたのやさしさがしみてくる」という詩を描いています。それはキリストの福音が私たちを生かしてくれた原点を指し示しています。

私たちはときに「愛をもって真理を語る?」と言いながら、人間的な解決法を示してしまいがちです。しかし、それによって問題が解決するぐらいなら、神の御子が十字架にかかる必要はありませんでした。神がキリストにおいてなしてくださったことから真の成長が生まれるのです。

1.「その召しにふさわしく歩みなさい」

パウロはまずエペソの教会の信者に向かって、「さて、主にある囚人の私はあなたがたに勧めます。あなたがたは、召されたその召しにふさわしく歩みなさい。謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに耐え忍び、御霊の一致を保つことに熱心でありなさい。それは平和のきずなにおいてなされることです」(4:1-3) と語ります。

これは多くの人々が期待する人格的成長の勧めではありません。

彼は自分をまず「主にある囚人」として紹介します。そこには、主のために苦しむことを選択する生き方を勧める思いが背後にあります。

その勧めの第一は、「召しにふさわしく歩みなさい」です。パウロが囚人としての苦難を耐えられた秘訣は、キリストによる「召し」がもたらす「望み」を常に目の当たりに見ていたからです。それは彼の祈りにおいて、「あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒たちが受け継ぐものがどれほど栄光に富んだものかを……知ることができますように」(1:18、19) と表現されています。

「心の目」が開かれると、「神の召し」によって始まった信仰生活の先にある「望み」が見えてきます。それは1章10節にあった「一切のものが、キリストにあってひとつに集められること」であり、それは、キリストにあって、私たちに朽ちることのない身体が与えられ、新しい天と新しい地において、農作業や芸術活動を楽しみ、互いを喜ぶことができるような祝福に満ちた世界です。私たちはその祝福を目の当たりに見るからこそ、苦難に耐えられるのです。

しかも私たちはキリストともに王として、世界を治めるために召されています。心の奥底に自己不全感や劣等感を持った人は、他の人に対して自分を強く見せようとしますが、私たちは王者の余裕をもって、「謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに耐え忍び」という、キリストに倣う生き方ができるのです。

しばしば、一神教が不寛容な教えと非難されるのは、この心を忘れるからです。ただこれは、人の積極的、主体的な活力を抑えることの勧めではありません。少なくとも自分を抑えてばかりいる人は、この世界を変える影響力を発揮することはできません。

イエスの生き方は当時の常識をひっくり返す創造的なものでした。主は神の正義を主張する代わりに、「あなたの右の頬を打つ者には左の頬も向けなさい」(マタイ5:39) と言われたばかりか、罪人の代表として十字架にかけられました。それは、神の平和をこの地に実現するためでした。

愛は、私たちの義務ではなく、目的地である」(Love is not our duty、 but our destiny) とも言われるように、神が歴史を支配し、愛の完成へと導いてくださるからこそ、私たちは目の前の人に打ち勝とうとしたり、人の欠点を正そうとする代わりに、互いの欠けを「耐え忍ぶ」ことができるのです。

愛の欠けが見えるのは、理想的な愛のイメージが既に示されているからです。それは神から生まれています。そして、神は、そのような愛をご自身の御霊をとおして完成してくださる方です。

1-3節の中心的な命令は、「御霊の一致を保つことに熱心でありなさい」です。これは、「一致を作りましょう!」という勧めではありません。これが日本ではしばしば、「誰が一致を乱しているのか」という悪者探しを正当化させ、互いを委縮させ、各人の主体性を抑圧する雰囲気の原因となります。

しかし、ここでの勧めの中心は、既に与えられた恵みを「保つことに熱心」であることです。しかも、「御霊の一致」とは、「御霊」のみわざとしての「一致」です。それは先に、「私たちは、このキリストによって、両者ともに一つの御霊において、父のみもとに近づくことができるのです」(2:18) とあったように、異邦人とユダヤ人がキリストにおいてひとつとされたことを指します。

私たちいつも目の前の変化を生み出すことに忙しくなり、「謙遜と柔和の限りを尽くし」という大原則を忘れがちです。これはキリストと聖霊のみわざを忘れることがないように、主の恵みを覚え続けることに「熱心」であるようにという「勧め」と理解すべきでしょう。

しかもここでは、「平和の絆において」ということばが追加されています。原文には「結ばれ」という動詞はありませんから、これは、「平和の絆で結ばれましょう!」という勧めではありません。

「平和の絆」とは、私たちの心がけのことではなく、キリストご自身のことです。多くの日本人は「絆」ということばに相矛盾する感情を抱きます。それは個性や個人の主体性を抑圧する強制力にもなるからです。これは先に、「実に、キリストこそ私たちの平和です。主は二つのものを一つにし、ご自分の肉において、敵意を生み出す隔ての壁を打ち壊し、様々な規定から成る戒めの律法を廃棄されました」(2:14、15) とあったように、求められているのは、「結ばれるように頑張る……」ことではなく、キリストの十字架を仰ぎ見続けることです。

私たちはときに信仰の歩みをあまりにも人間的な尺度ではかりがちですが、キリストに従うように召された始まりはすべて創造主ご自身からの一方的な恵みであったという原点に立ち返る必要があります。神のみわざに目を向けると、それぞれにユニークに働く神のみわざが生み出す「一致」が見えてきます。

2.「キリストのからだを建て上げるため」

パウロは続けて「御霊による一致」を、七回の「ひとつ」という表現で、「からだは一つ、御霊は一つです。それは、あなたがたが召されたとき、召しのもたらした望みが一つであったことと同じです。主はひとり、信仰は一つ、バプテスマは一つです。神はただひとりで、すべてのものの父です。その方はすべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのもののうちにおられます」(4:4-6) と描きます。

まず、「からだは一つ」とは、人間的な組織を超えたキリストのからだなる教会が実際に存在するという告白ですが、それは「一つの御霊」の働きであり、その根拠には、すべてのキリスト者の「望みが一つ」であるという希望の共有があります。

私たちはそれぞれ異なった言語や習慣を持つ者同士が、御霊によって集められ、みな既に「新しいエルサレム」の市民とされていることを覚え、愛の交わりの完成を待ち「望む」ことができています。そこでは異邦人とユダヤ人、韓国人と日本人などという区別はありません。

たとえば、ユダヤ人と異邦人、韓国人と日本人との間には、悲しい過去がありますが、神の民として召されたことによる「望みが一つ」という点では、共通の希望のうちに生かされていると喜び合えます。

続けて、「主はひとり、信仰は一つ、バプテスマは一つ」と告白されます。全世界のキリスト者はそれぞれ様々な教会組織に繋がっていますが、それぞれの主はイエスのみであり、基本的な信仰告白も共有され、生涯一度かぎりしかバプテスマを受けません。もし私たちが入会希望者の他の教会で受けたバプテスマを受け入れないとしたら、その教会を異端と宣告することになりかねません。

そして、教会組織が違っても互いの存在や違いを尊重することができるのは、「神はただひとり」であり、その方は「すべてのものの父」であり、「すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのもののうちにおられ」るという原点があるからです。

私たちが「天のお父様!」とお呼びする方は、まさにこの世のすべてを支配しておられる方なのです。普遍的な教会を信じる原点は、まさに「すべてのものの父」から始まります。

残念ながら、人の集団は、他団体との違いを強調し、共通の敵を持つことによって初めて一致できるという傾向があります。しかし、私たちが告白する使徒信条は、古代カトリックの伝統から生まれていますし、三位一体論は、古代の東方正教会でまとめられたものであり、教会の祈りの中では、カトリックの聖人のフランシスコに基づく平和の祈りを用いています。

私は個人的には異言で祈るカリスマ派の人や、伝統的な英国国教会に属する方々からも多くのことを学ぶことができています。互いの相違を見るよりも、共有されていることの方に私たちは常に目を向けるべきでしょう。私たちの父はひとりなのですから。

7節では、「ひとりひとり」例外なく、「キリストの賜物の量りに従って恵みを与えられました」という事実が述べられます。

また、8節では詩篇6818節が引用されますが、今回の翻訳では、「人々に 頑迷な者どもにさえ 贈り物を与えられた」と訳されていますが、以前の訳では、「人々から、みつぎを受けられました。頑迷な者どもからさえも」と全く逆の意味になっており、実はその方が一般的です。

ただし、その全体の文脈においては、イスラエルの神がこの地の権力者たちを圧倒し、全世界の王としてあがめられる戦勝行列の様子が描かれています。パウロはそれをキリストの戦勝行列に置き換え、「あなたは捕虜を引き連れて いと高き所に上り 人々に贈り物を与えられた」と記しました。

これは戦いに勝った将軍が、捕虜を引き連れて戦勝パレードを行い、配下の兵士に分捕り物を分ち合う様子を描いたものです。同じようにイエスは、勝利の将軍として、ご自身に従う者たちに賜物を与えてくださるというのです。

そして、不思議にも、「上った」いう記述の前提に、「低い所、つまり地上に降られた」という前提があるというのです (4:9)。しかも、「この降られた方ご自身は、もろもろの天よりも高く上げられた方でもあります。それは、すべてのものを満たすためです」(4:10) と描かれます。

ここには主の十字架と復活と昇天、と神の右の座で「一切のもの」を「一つに集める」こと (1:10) が示唆されますが、十字架は私たちの罪の身代わりとしての苦しみというより、この世の権力者たちに対する圧倒的な勝利として描かれています。

その上で11節では教会の専任の働き人のことが描かれますが、それは8節の「彼は……人々に贈り物を与えられた」ということばを前提として、「キリストご自身がお与えくださった」ということばから始まっています。

ここに記された「使徒、預言者、伝道者、牧師または教師」という区分けに関しての解釈は様々な可能性があります。最初の二つの働きに関しては、パウロが220節で、「あなたがたは使徒と預言者という土台の上に建てられており」(2:20)と記しているように、聖書が完結した今は必要なくなっていると考えるのが一般的です。

「伝道者」という働きは、使徒を補佐する者として選ばれた七人のひとりのピリポ (使徒20:28) や、パウロの代理として様々な教会に赴いたテモテ (Ⅱテモテ4:5) がそのように呼ばれています。これはたとえば日本に最初に福音を伝え、教会の基礎を築くような大きな責任を担っていた宣教師に相当するかもしれません。

「牧師また教師」というのは現代の地域教会の「牧師」に相当し、一方的に福音を宣言するよりも、神の「羊の群れ」としての信者の現実に寄り添った牧会的な「教え」が意図されています。それはパウロもエペソの長老たちへの遺言として、「あなたがたは自分自身と群れの全体に気を配りなさい。神がご自身の血をもって買い取られた神の教会を牧させるために、聖霊はあなたがたを群れの監督にお立てになったのです」(使徒20:28) と言っている働きに相当します。

なお、「牧師また教師」とあるように、教師と牧師に間に、働きの明確な区別はなかったのかと思われます。

ただ、それらの区別よりも大切なのは、その働きには共通の目的、「聖徒たちを奉仕の働きのために整える」ことがあることです。日本の教会では、しばしば、牧師に余りにも多くの働きが期待されます。ときには引っ越しのお手伝いや一人住まいのご老人のお世話まで期待されます。

しかし、それらの働きは、信者どうしで助け合ってするべき奉仕です。牧師の責任は、一人ひとりが喜んで「キリストのからだを建て上げる」という目的のために「奉仕」に励むことができるように「整える」ことです。

しかも、新改訳では「働きをさせ」と牧師のリーダーシップが強調されている印象がありますが、原文では、「整える」ことが強調されています。それは、「聖書は……教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。神の人が、すべての良い働きにふさわしく、十分に整えられた者となるためです」とあるように、みことばを教えることを意味します (Ⅱテモテ3:16、17)。

牧師の最大の働きは、みことばの正しい解き明かしです。とにかく現代的には、「牧師」の職務はキリストご自身が教会にお与えくださった最大の贈り物と考えるべきなのです。

3.「キリストによって……愛のうちに建てられる」

そして、ここで「聖徒」を整えることの目的が、「神の御子に対する信仰と知識において一つになることに達することと、一人の成熟した大人となって、キリストの満ち満ちた身丈にまで達することのため」(4:13) と記されています。

興味深いことに、先には、既に与えられている「御霊による一致を保つ」ことが求められていましたが、この前半では、「御子に対する信仰と知識において」の「一致に達する」という目標になっています。

残念ながら、今も昔も、様々な信仰のスタイルや聖書解釈があります。そのような中で、牧師または教師に求められているのは、何かの目新しいことを教えるのではなく、すべてのキリスト者に共通して適用できる教え、また時代を超えて守られてきた信仰と教えに聖徒たちの目を向けることです。

つまり、パウロが先に、「人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができますように」(3:19) と祈ったように、「知る」ことに関して、「一致に達する」ための不断の努力が求められているのです。

それと同時に、「一人の成熟した大人となって、キリストの満ち満ちた身丈にまで達する」という目標に関して解説することばが、「こうして、私たちはもはや子どもではなく」なるためと描かれます。それは「どんな教えの風にも、吹き回されたり、もて遊ばれることがない」状態を指します。

そしてその誤った「教え」は「人の悪巧みや、人を欺く悪賢い策略から」生まれています (4:14)。ヘブル人への手紙5章12-14節では、「神が告げたことばの初歩を、もう一度だれかに教えてもらう必要がある」状態に対し、大人になるとは「善と悪を見分ける感覚を経験によって訓練された」状態と記されます。

つまり、「成熟した大人になる」ということは、誤った教えを見分けられることと、その教えの背景にあるサタンの計略に気づくことなのです。パウロは別のところで、「考え方において子どもになってはいけません。悪事においては幼子でありなさい。けれども考え方においては大人になりなさい」(Ⅰコリント14:20) と記しています。

続けて「キリストの満ち満ちた身丈にまで達する」ということの解説が15節において、「愛において真実となり、あらゆる点において、かしらであるキリストに向かって成長する」と記されます。

多くの訳では「愛をもって真理を語り」と訳されますが、本来の意味は「真実とする」という意味です。それはこの文脈からは真理を語ることによって誤った教えを正すとも理解できますが、偽教師の弁舌はときに非常に巧みですから、ことばによって真理を明らかにするというよりも、「愛において」福音の真実を明らかにし、誤った教えを正すと理解すべきかと思われます。

残念ながら、「あなたのために真実を言ってあげているのよ……」となどと言いながら、人の人格を傷つけ、希望をくじくようなことがあるからです。

たとえば、「まじめに奉仕をしなければ神から裁かれる」とか、「神を第一とした生活をしていないと、のろわれる」などというのは、旧約を誤解した律法主義的な教えです。私たちはキリストにあって、死からいのちへ、のろいから祝福へと移し変えられました。それを保障するために御霊が与えられたのです。

ここで何よりも強調されているのは、「愛」によって、キリストの教えが彼らにとって真実なものとされてゆくというプロセスです。

しかも、15節では、「キリストに向かって成長する」と言われながら、16節ではすぐに、「キリストによって、からだ全体はあらゆる節々を支えとして組み合わされ、つなぎ合わされる」と言い換えられます。「成長」を生み出すのは、キリストご自身であり、しかもひとりひとりが尊敬される人格者になるというより、キリストのからだとして「成長して、愛のうちに建てられる」(16節) ことが目標です。

ある人が、キリストの似姿に向かって成長しているなら、そこには、愛の交わりの成長も伴っているはずです。個人の成長と、教会としての成長は並行して進むからです。

しかもキリストのみわざは、人間的な組織作りや上からの指導によってではなく、「それぞれの部分」である各人が、主体的で自主的な、与えられた賜物にしたがった「その分に応じた働き(エネルゲイヤ)」によって達成されます。それがこの世の組織と異なるところです。

私たちはひとりひとりがユニークな者として作られていますから、人が集まれば自然のうちに「分業」について考えます。それぞれの役割と責任が明らかになっているときにチームワークがうまく機能するからです。

また、「あらゆる節々を支えとして」という表現は、以前、「備えられたあらゆる結び目によって」と訳されていましたが、その方が意味を正しく伝えていると思われます。それは一人ひとりには、すでに「結び目」が備えられており、愛の交わりは、外から指導や強制によってではなく、一人ひとりのユニークさが生かされる形で、それぞれの主体性をもとに喜びのうちに生み出されるからです。

コロサイ人への手紙319節では、「からだ全体は節々と筋によって支えられ、つなぎ合わされ、神に育てられて成長するのです」と記されています。

組織的には極めて未熟に見えながら、不思議に一人ひとりが、その教会の中での欠けたところに目が向かい、満たされるという共同体こそ、キリストのうちにある神秘でしょう。

ある程度の組織化は必要でしょうが、教会が機能しないのはシステムの問題だと考えることは、一人ひとりを主体的に動かしてくださる聖霊のみわざを軽んじることになりかねません。ひとりひとりの人との距離感、働き方、テンポなどが尊重されなければ、教会奉仕は息苦しいものになってしまうことでしょう。

それどころか、自分にとっての決定的な弱点と思える部分が、人との「結び目」としてもっとも良く機能するということがあります。だれでも皆、キリストと出会った時、自分の弱さを自覚しています。そこにおいて私たちは真剣に神との交わりを求め、また人との交わりを求めます。その原点が何よりも大切です。

しばしば、教会が目に見える形で成長していないと思われるとき、キリストご自身が、私たちの愛の交わりを、見えないところで整えていて下さいます。問われているのは、一人ひとりが、キリストと真実に出会い続けているかということです。

しかも、人は、多くの場合、順境の時よりは、逆境を通して、キリストとの交わりを深めているのです。教会は「からだ」として「成長」してゆきます。

その際、幼い子供が不完全な人間とは呼ばれないように、問題を抱えたひ弱な教会もキリストのからだとして、聖霊の宮としての美しさに満ちているということを忘れてはなりません。欠点を見る前に主のみわざを見上げましょう!