エペソ6章1〜9節「キリストを恐れ、創造的に仕え合う」

2018年6月17日

創造主に向かって私たちは、「変えられないことを受け入れる平静な心を、変えられることは変えて行く勇気をお与えください」とお祈りします。不条理と映ることも、全能の主の御手の中で起きています。それを忘れると、忍耐心のない刹那的な刺激を求める自己中心的な生き方が正当化されてしまいます。

信仰生活は、平安で喜びに満ちた生き方を得るための「手段」ではありません。無意識のうちに、イエスに祈ることを、アラジンの魔法のランプにすがることや、のび太にとってのドラえもんかのように誤解してはいないでしょうか。

しかし、信仰の核心とは、「神を恐れる」ことです。平安と喜びは、神の権威に従う者に与えられる神からの賜物です。それら自体を目的とする者は皮肉にも、不安と不満に襲われます

この書には人の常識を超えた神の奥義が記されています。その第一は1910節にあるように、「その奥義とは・・一切のものが、キリストにあって、一つに集められることです。天(複数)にあるものも地にあるものも、この方にあってです」ということです。

この書に記された神の創造とキリストにある再創造という大きな視点から、すべての人間関係を見直すことの具体例が家族と職場の関係に現わされます。

 

私たちが受けるストレスの大半は人間関係から生まれるとも言えますが、信仰者は、物分りの悪い伴侶も、親も、上司も、神からの訓練の機会と受け止めることができます。私たちは既に「神の国」の民とされた誇りを持って、「賢い人のように歩んでいるかをよくよく注意しなさい」(5:15)と命じられています。それは主体的で創造的な生き方です。

その上で、「御霊に満たされなさい」と言いつつ、その具体的な方法として四つのことを語りました。その最後が、「キリストを恐れて、互いに従い合いなさい」という勧めです。つまり、人と人との関係の中に、キリストを置くということが人間関係の秘訣なのです。

マザーテレサは、道端で死に行く人の中にキリストを見たことから、あのような偉大な働きができました。その中心は、相手への嫌悪感に振り回されずに、「仕える」ことです。それを身近な人に適用してみましょう。

 

1.「あなたの父と母を敬え・・そうすれば、あなたは幸せになり・・・」

パウロはここで、「子どもたちよ。主にあって両親に従いなさい。これは正しいことなのです。『あなたの父と母を敬え。』これは約束を伴う第一の戒めです。『そうすれば、あなたは幸せになり、その土地であなたの日々は長く続く』という約束です」(エペソ6:1-3)と分かり易く語っています。

なお、ここでの「子どもたち」ということばは、「幼い」という意味ではなく、子としての立場を意味し、大人への命令でもあります。また、「従いなさい」という命令は、厳密には、「謙遜に聴きなさい」とも訳すことができることばです。

先の「互いに従い合いなさい」では、自分を目の前の人の下に置くという立場が強調されていましたが、ここでは、「両親」の心の奥底の声を謙遜に聴くという姿勢が強調されています。親の命令に盲従するのではなく、自分の心で納得できるように謙遜に聴き、その結果、その命令に心から従うという姿勢です。

 

なお、この引用先である申命記516節における、「あなたの父と母を敬え」という命令には、「あなたの神、主(ヤハウェ)が命じられたとおりに」という補足のことばと、それを守る者への約束が、「それは、あなたの日々が長く続くようにするため、また、あなたの神、主(ヤハウェ)があなたに与えようとしているその土地で幸せになるためである」と記されています。

この際の「敬え」ということばは、「栄光」の動詞形で、神に栄光を帰すように、両親を心から尊重し、そのことばを重んじるという意味が込められています。

 

ビクトール・フランクルは私の心の教師のような精神科医です。彼はヒトラーがウィーンに進軍してきた時、既に社会的な尊敬を得ていました。ただ、ユダヤ人であるためナチス・ドイツ政権の支配下では働きを続けることができないことが明らかで、米国行きのビザを申請していました。

数年かかってビザが下りたとき、ユダヤ人に対する迫害が激しくなっており、強制収容所への抑留が間違いない状況になっていました。しかし、彼には年老いた両親がいました。その両親のビザはありません。彼は迷いました。彼がウィーンに残ったところで両親を救うことはできません。しかし、両親を置き去りにして自分だけが渡米することに後ろめたさを感じていました。

迷いながら家に帰ってみると、父親が破壊されたユダヤの会堂の瓦礫から拾ってきた大理石がテーブルの上に置いてありました。そこにはヘブル語のカフというアルファベットが刻まれていました。それは、「あなたの父と母を敬え」の最初のことば、「敬え(カベッド)」の最初の文字でした。

彼は、この文字を見たとき、自分の使命は、両親とともにウィーンに残ることにあると決断しました。しかし、それは彼も強制収容所に抑留されることを意味しました。彼は自分の医療技術を用いて、秘密警察の方の悩みを解決し、両親の抑留を一年間伸ばすことができましたが、まもなく両親とともに強制収容所に抑留されました。

父は、そこで肺水腫を患って死の床につきます。彼は医師として、父に最後の痛み止めの注射を打つことができましたが、そのときのことを、「私は、それ以上考えられないほど満足な気持ちであった」と書き残しています。

母はその後、アウシュビッツのガス室送りになりましたが、移送される直前に、彼は母に祝福の祈りを請い、心の底からの祝福のことばを母から最後に受けることができました。彼はその後の収容所生活の中で、母への感謝の思いで心が満たされていました。

 

フランクルは奇跡的に強制収容所の苦しみに耐えて生き残ることができて、そこでの体験を「夜と霧」という本で証ししました。それは、苦しみの証ではなく、どんな悲惨な状況に置かれても、人間は高貴に、自由に、麗しい心情を持って生きることが可能だという証しでした。

彼は、「何のために生きるのか・・・」という問いに答えを持っている人間は、最後の瞬間まで、真の意味で生きることができると言っています。彼自身、あらゆる損得勘定や現実的な計算を捨てて、両親とともに強制収容所に入るということ決めたことは、一瞬一瞬、人生の問いに答えながら歩むことを、身をもって証することになりました。

その後、彼は、「生きる意味の心理学」によって、多くの人に希望を与えながら、平安のうちに92歳の長寿を全うしました。まさに、父母を敬うなら、あなたはしあわせになり、地上で長生きするという約束のとおりでした。

 

私たちはそれぞれ、まったく異なった環境で育ってきました。ですから、「父母を敬う」ということが具体的に何を意味するかは、その人その人によって異なります。人の模範に習うことも、画一的な答えを求めることも、無意味である場合が多いと思われます。

それにしても、「父母を敬う」とは、神から人間に与えられた教えの根本であることは間違いありません。そこではあらゆる現実的な計算が意味を失います。どれほど、社会に役に立っていると思われる人でも、父や母を重んじることなく、軽く扱っているなら、神の前においても、その人は軽い存在としか見られません

神は、「わたしを重んじる者をわたしは重んじ、わたしを蔑む者は軽んじられる」(Ⅰサムエル2:30)と言われましたが、それは、親との関係においても当てはまります。ここで、「重んじる」ということばは、「父母を敬え」というときと同じことばが用いられています。

 

2.墓守娘の生き方からの解放者イエス

しかし、「父と母を敬え」という命令は、しばしば、「あなたは、自分の人生を歩んではならない」というメッセージに聞こえることがあります。10年前に、「母が重くてたまらないー墓守娘の嘆き」という本がベストセラーになりました。その副題には、「進学、就職、結婚、介護・・・どこまでもついてくる母から、どう逃げおおせるか。Noと言えないあなたに贈る、究極の傾向と対策」と書いてありました。

ある女性が、田舎の母親の呪縛から逃れるように東京の出版社に就職し、それなりの仕事を任され、外国人の恋人もでき、母親の様々な介入もうまくかわせるようになった33歳のとき、祖父の法事で久しぶりに実家に帰りました。穏やかに法要を終えて東京に帰ろうとしたそのとき、母が耳元でささやきます。

もう何も言わないからね、ただ、私たちが死んだら墓守りは頼んだよ」と。多くの日本人は、どんなに親から自由に生きていても、このことばには勝つことができないようです。そこから、「墓守娘の嘆き」というタイトルが生まれています。

 

ある人は、「父と母を敬え」ということばを聞くと、どうしても、「お母さんは私のしあわせだけを望んでいる」と善意に解釈しなければと思い、「辛くなっていた」と言っていました。

子供が親を深く愛しながら、同時に、憎しみを抱くという矛盾を、心理学用語でアンビバレンスと言いますが、親だって子供にアンビバレントな気持ちを持つものです。

子供には自分の人生を生きてもらいたいと思いながら、同時に、自分のもとからは決して離れてほしくないと願っています。親は、無意識に自分の価値観を押し付けて、子供をコントロールします。簡単に言うと、「親はだれも、めちゃくちゃ身勝手」という部分があるものです。

 

しかし、イエスは私たちに、親に「No!」という権利を保障してくださいました。主は、「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだと思ってはなりません・・・わたしは平和ではなく剣をもたらすために来ました。わたしは、人をその父に、娘をその母に、嫁をその姑に逆らわせるために来たのです・・・わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありませんわたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません(マタイ10:34-37)と、耳を疑うようなことを言われました。

 

しかし、私たちは、このことばの背後に、イエスの深い愛情を感じることができます。これは、墓守娘に向かって、「親の期待や、親の価値観から、自由になって、神ご自身があなた自身に期待しておられる人生を大胆に生きて良いのだよ・・・」という励ましのことばになるからです。

また、親に対してアンビバレントな気持ちを抱き、真心から親を尊敬することができない人に向かって、「おまえが最初から、自分の父と母を敬うことができるぐらいなら、わたしが十字架にかかる必要はなかった。まず、わたしを信頼しなさい・・」と語っておられるように思われます。

ただし、イエスはその前に、「わたしが律法や預言者を廃棄するために来た、と思ってはなりません。廃棄するためではなく、成就するために来たのです」(マタイ5:17)と言われました。つまり、イエスが、あなたと親との関係を引き裂くのは、親との関係を永遠に回復させるための、一時的な外科手術だということを決して忘れてはなりません。

親切の押し売りとも思われる親の身勝手なことばを聴き、いやいや親に従うような生き方を離れるためです。親の人生を本当の意味で真心から重く受け止め、親を愛することができるために、イエスはあなたと親の関係に一時的な剣をもたらしてくださったと受け止めるのです。

「父母を敬う」とは、親を美化することではなく、親の中にある矛盾した思いや身勝手さや不安を、優しく見られるようになることとも言えましょう。それは、親の罪深さを認め、なおも親を愛することです。そのために助けになるのは、親の人生の歩みを、熱心に聞くことです。

 

しばしば、親が味わってきた葛藤が理解できるなら、親の様々な問題を優しく見ることができます。親のせいで幼児期に様々な痛みがあったとしても、それとセットに神はそれを乗り越える力を与えていてくださいました。それはあなた固有のいのちの輝き方です。

私たちは自分が思う以上に親に似ています。そのような自分を愛することができるようになるとき、自分自身の身体も性格も気質も、神によってユニークに創造された存在として受け入れることができるようになります。そのとき、あなたはあなたらしい方法で神に喜ばれる生き方ができることでしょう。

あなたの創造主との交わりを喜ぶ生き方、それこそが、「幸せになる」ということに他なりません。誰も自分の親を軽蔑して心の幸せを味わうことはできません。

 

3.「子供たちを怒らせてはなりません」

「父たちよ。自分の子どもたちを怒らせてはなりません。かえって、主の教育と訓戒によって育てなさい」(6:4)とありますが、「怒らせる」とは、426節では「憤る」と訳され、「苛立たせる」とも訳せる言葉です。これは、親が子供の事情や気持ち、葛藤などを無視して、権威を振りかざして従わせようとするときに起きる反応です。

子育ての核心にも、「キリストを恐れて」という心の姿勢がなければなりません。「怒らせる」代わりにすべきことが「主の教育と訓戒」です。これは、「主の訓練(training,懲らしめ)と警告」とも訳すことができます。本来、「訓練」も「警告」も、怒りを引き起こすことが多いものです。つまり、親の責任は、子供の怒りを引き起こしても不思議ではないような「教育と訓戒」をもって、子供を育てることなのです。

 

欧米の親たちが日本の子育てを見て、「子供を王様扱いしている」と驚くことがあります。子供の怒りを宥めることばかりを考え、振り回されている親が何と多いことでしょう。それは、子供の気持ちに寄り添うことと、わがままを聞くこととの混同から生まれているのではないでしょうか。

子供を「苛立たせる」のは、何よりも、親の関心が子供に向けられていないことから生まれます。子供の気持ちを理解しながら、しかも、恐れや悲しみ、無力感のようなマイナスの感情に振り回されることがないように指導するということが「主の教育と訓練」です。子供には、大人を振り回す天才的な罪人の才能が備わっているのですから。

 

子供は主から親に一時的にあずけられている「神のかたち」に創造された「高価で尊い」存在です。子供を親の所有物と見ることも、反対に、子供に振り回されることも回避しなければなりません。

「主の教育と訓戒」というときの、「主の」ということばに注目しましょう。自分と子供との間に、主キリスト・イエスを置くことが何よりも大切なのです。

なお、「箴言」では、「むちを控える者は自分の子を憎む者。子を愛する者はつとめてこれを懲らしめる」(13:24)と記されているように、子供に対する主にある厳しさも大切です。

 

4.「恐れおののいて真心から地上()の主人に従い(謙遜に聴き)なさい」

当時の奴隷と主人の関係は、現代の日本の会社の上司と部下の関係に似ています。人徳のある上司には自然に従えることもあるでしょうが、現実は、何と多くの上司が、自分の身を守ることばかりを考えていることでしょう。それでいて口では、「僕は君の将来のためを思って・・」などと言います。そればかりか、部下の功績を自分の功績として宣伝する上司さえいます。

しかし、御霊に満たされるとは、そのような偽善的な上司に対し、「恐れおののいて真心から地上()の主人に従い(謙遜に聴き)なさい、キリストに対するように」との姿勢で臨むことです。上司は、あなたに仕事や課題を与える権威を持つ存在だからです。

パウロはネロがローマ皇帝であったとき(在位54-68)にローマ人への手紙を書き(57)、「人はみな、上に立つ権威に従う(服従す)べきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられているからです」(13:1)と命じています。

またペテロも、「しもべたちよ、敬意を込めて主人に従い(服従し)なさい。善良で優しい主人だけでなく、意地悪な主人にも(Ⅰペテロ2:18)と記しています。

 

私は野村證券フランクフルト支店で働いてきたとき、主の召しによって退職を決意しましたが、会社から留学をさせてもらっていたときの契約で、その後、三年半は働き続ける必要がありました。しかし、辞める覚悟ができると上司に堂々と意見を言えるようになりました。自分の仕事を、主から与えられたものと受け止めなおしながら、私はこのような仕事をしてみたいと、図々しい提案をしました。

すると支店長は、この私の働きがその支店内において、どのような重要な意味を持ち、何が期待されているかをやさしく説明しながら、私の提案を断固として退けてくれました。そのとき、私は反対に、心からこの支店長の判断に敬服できるようになりました。別に、この支店長の人格を尊敬できるようになったわけではありませんが、この人は自分よりもっと大きな視点から仕事を見ているということが良くわかったからです。

私たちは、自分に課せられた仕事を、より高い視点から見直す必要があります。そのとき、自分がどれほどまじめに仕事をしても、あの嫌な上司の功績になるだけだ、などという考え方から自由になることができるでしょう。

 

最近は、転職が比較的、容易ですが、昔は、職業選択の自由はありませんでした。私たちは、自分が職場を選ぶことができると思うからこそ悩みが深くなるという面もあるのかもしれません。しかし、目の前の仕事を、まず、主から与えられたものとして見るという生き方ができなければ、どのような仕事についても、同じような不満を持ってしまうことでしょう。

パウロは続けて、「地上の主人」に対する姿勢を、「ご機嫌取りのような、うわべだけの仕え方ではなく、キリストのしもべとして心から神のみこころを行い、人にではなく主に対するように、喜んで仕えなさい」(6,7)と命じています。

ここでは、地上の「主人」も、天の「主」も、キュリオスという同じことばが用いられています。私たちは地上の主人の背後に、天の主を見るように召されています。それは、俗物の塊のような上司の背後に、慈愛に満ちた主の訓練を見ることです。

その根拠は、何よりも、8節に記されています。それは、「あなたがたは知っています。良いことを行えば、それぞれ主から報いを受けることを」ということばです。これこそ信仰の核心です。キリスト者とは、主が、私たちの労苦を正当に評価し、それを報いてくださる方であるという確信のうちに生きるからです。

 

5.「主は人を差別することがないことを知っている」

奴隷の主人に対する勧めは、上司が部下をどのように指導するかに関しての勧めとして適用することができます。その際、何よりも、「脅すことはやめなさい」(9)と記されています。これは、自分の権威を振りかざして、恐怖心を起こさせて仕事をさせるというやり方です。

これは最近の某大学のアメフト部のことでも問題になりました。脅しは、短期的には確かに効果がありますが、長期的な目で見ると仕事に対する部下の意欲を殺ぐばかりか、何よりもそれでは部下の能力や創造性を引き出すことはできません。

 

ここでも、「主人たち」ということばも、「彼らの主、またあなたがたの主が天におられ」というときの「主」も、同じキュリオスです。地上の主人たちは、常に、天の「主」のまなざしを意識して部下を指導することが求められているのです。

上司は部下を、「神のかたち」に創造された「高価で尊い」存在として見る必要があります。そして、ここでも、「あなたがたは知っている・・・主は人を差別することがないことを・・・」と記されています。これもキリスト者が持っているはずの確信、または常識です。

主は一人ひとりに目を留めておられます。ですから、目の前の人を自分の奴隷のように扱い、「脅し」によってその人格を否定するような対応は、そのしもべの真の主人であられる主の主権を犯すことになると言えるのです。

 

御霊に満たされる生き方とは、すべての人間関係に、「キリストを恐れて、互いに従いなさい」という心の姿勢を適用することです。

主のまなざしを意識して、自分の家族や職場の人間関係を見直しましょう。すべての人の背後に、主を見るということは、目の前の人を理想化するという意味では決してありません。親も上司も、罪人の頭(かしら)です。それにも関わらず、神から立てられた「権威者」として尊敬することが求められています。

また、子供も部下も、驚くほどに、ずる賢いかもしれません。しかし、あなたも彼らも、神の前には同じような罪人です。そして、私たちの主キリストご自身が罪人に仕える生き方を全うし、ご自身のいのちをささげてくださいました。

私たちのうちには何とそのキリストの御霊が宿っているのです。そこには、すべての人に謙遜になりながらも、主体的で創造的な自由な生き方が開かれるのです。