エペソ5章3〜20節「新しい創造の喜びを生きる」

2018年5月20日 ペンテコステ

先日、イスラエル建国七十周年記念ツアーの一環で、ユダヤ人クリスチャンとともにアウシュビッツ強制収容所を訪れた方が、戦争末期にユダヤ人たちをドイツ中心部の収容所へと強制移住させた悪名高い「死の行進」の道をたどった体験を語ってくださいました。日本人の感覚からしたら、死者の犠牲を思いながら沈痛な雰囲気で行進すると思いますが、ユダヤ人は高らかに歌い踊っていたとのことです。

そこで歌われた中心には、ヘヴェヌ・シャローム・アレッヒェム(私たちはあなたがたに平安《平和》を携えて来ました)という有名な御使いの歌がありました。そこには、神のご支配の中で起きた「のろい」に代えて、神がご自身の「祝福」をもたらしてくださるという聖書の中心テーマ、「新しい創造」の意味があります。

第二次大戦の時代のユダヤ人の貴い犠牲のゆえに、二千年ぶりにイスラエルの国が誕生したことは確かだからです。

 

私たちはパレスチナ難民の痛みに共感を覚えるべきではありますが、だからと言って、歴史に現わされた神のみわざを見失ってはなりません。私たちはどんな暗黒の中にも、十字架のキリストのうちにある希望を語ることができます。

米国で囚人への福音を伝えている方が、刑務所における闇の力の強大さを実感したとのことです。その時、彼が示されたのは、神の救いのみわざを歌うことでした。キリストにある「新しい創造の歌を囚人の方々に分かち合うことでした。

私たちの教会にもゴスペルクワイヤーがありますが、未信者の方々も歌詞の意味を十分に理解しながら歌えるように導かせていただいています。残念ながらときに、日本の教会では内省的に罪の自覚を深めるということに力点が置かれすぎる傾向があるのかもしれません。

私たちはこの世の様々な闇の影響を受け、また様々な誘惑にさらされています。それに真剣に向き合うことは大切でしょうが、「いのちの喜び」を抑圧するような謹厳さは、かえってサタンの思うつぼになるのかもしれません。

キリストにある「新しい創造」を歌うことこそが、暗闇の力への最高の対抗手段となります。そこにいのちの喜びがなければ、人は、心の奥底で、この世的な快楽への憧れを抱くことになるのです。

1.「だれにも空しいことばでだまされてはいけません」

   パウロは5章1節で、「神に倣う者となりなさい」と、不可能と思えることを命じます。ただ、それは人がすべて「神のかたち」に創造されていることを前提としています。それはキリストに倣う生き方でもあります。

それと対極にある生き方が、「淫らな行い、あらゆる汚れ貪り」で、原文の語順ではそれが最初に来て、「あなたがたの間では、口にすることさえしてはいけません。聖徒にふさわしく」と記されています(5:3)。

続けて、「また、わいせつなことや、愚かなおしゃべり、下品な冗談もそうです。これらは、ふさわしくありません。むしろ、口にすべきは感謝のことばです。これらのことを良く知っていなさい。淫らな者、汚れた者、貪る者は偶像礼拝者であって、こういう者はだれも、キリストと神との御国を受け継ぐことができません」(5:4,5)と記されています。

ここで繰り返される「淫ら(ポルノ)」も「汚れ(不浄)」も、基本的に性的に無軌道な生き方を指します。「貪り(貪欲)」とは、人の持っているものを持ちたいと切望することです。私たちはときに、キリストに倣う生き方を目指すことよりも、自分の身体の欲望を優先する生き方をしてはいないでしょうか。

私たちはキリストのうちにある圧倒的な「赦し」を強調したいところですが、ガラテヤ5章19-21節では様々な罪の行いが列挙されながら「このようなことをしている者たちは、神の国を相続できません」と厳しく記されています。

またⅠコリント6章9,10節では「正しくない者は神の国を相続できません」と記されながら、具体的な罪が列挙されます。しかも、その直前の5章11節では、「兄弟と呼ばれる者で」そのような悪い生き方に居直っている者とは「付き合ってはいけない、一緒に食事をしてもいけない」とさえ記されています。

私もそのような箇所を読みながら、「僕も神の国を相続できないのか・・・」と落ち込むことがよくありました。しかし、そんなときイエスは私に、「心(霊)の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです」(マタイ5:3)と語りかけてくださいました。

また、ルカ18章9節以降のパリサイ人と取税人のたとえが慰めになりました。そこでイエスは、「自分は正しいと確信」しているパリサイを非難した上で、「目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて、『罪人の私をあわれんでください』と言った」取税人が、神の前に義と認められたと言われました。

そこでは、みことばを読みながら、自分は御国を相続できないかもしれないと不安に思う人は大丈夫で、「私は絶対大丈夫!」と自負している人は危ないという逆説が描かれているのです。

それにしても、この手紙の前半では、「あなたがたが救われたのは恵みによるのです・・・キリストは・・ご自分の肉において、敵意を生み出す隔ての壁を打ち壊し、様々な規定のうちにある戒めの律法を廃棄されました」と十字架による「新しい創造」のことが強調されていました(2:5,14,15)。

ただそれが、キリストの尊い犠牲の上に起きたことを忘れる人には、霊的な怠惰の理由になり得ます。それはちょうど、国の社会保障制度が充実してくると、生活保護制度を食い物にする輩が必ず生まれることに似ています。

そのことをパウロは、「だれにも空しいことばでだまされてはいけません。こういう行いのゆえに、神の怒りは不従順な子らに下るのです」(5:6)と記しています。それは、たとえば、「もう自分は天国人となっている。どんな罪もすでに許されている。この肉体においてどんなことをしても、それが自分の霊を汚すことはできない」というグノーシス主義的な解釈だと思われます。

しかし、救い」とは、何よりもキリストとともに生きる者とされたという意味ですから、それまでの汚れた生き方から離れるべきなのは当然のことなのです。

私たちはここでもう一度、救いの原点、「既に」と「まだ」に立ち返る必要があります。私たちは既に、「見よ、すべてが新しくなりました」(Ⅱコリント5:17)という祝福の中に招き入れられています。

しかし、キリストに似た者となるという意味での「救い」は完成していません。今も繰り返し、肉的な生き方をしてしまいます。その意味で私たちは「まだ」救われてはいません。

しかし、既に決定的な変化は起こっています。私たちは「御国を受け継ぐことの保障」としての「聖霊」を受けています(1:14)。そして、聖霊は私たちのうちに罪を指摘しながら、私たちを内側から作り変えていてくださいます。みことばを読んで、自分の足りなさを自覚し、聖霊の働きに頼ろうとする者は、既に救いの完成への確実な道を歩んでいるという意味で、「既に救われている」のです。

なぜなら、聖霊は全能の神であられるからです。しかし、自堕落さに安住し、成長をあきらめている者は、聖霊の働きを自分で拒否しています。神の怒りがそのような人間に下るのは当然です。

私たちは、神の救いを、平面的ではなく立体的に、また三次元的ではなく四次元的に考える必要があるのかもしれません。私たちは今、「不信仰な者に信仰を与え、完成に導くことができる神」を信じています。

イエスご自身も、「あなたがたの天の父が完全であるように、完全でありなさい」(マタイ5:48)と言われました。それは、「父はご自分の太陽を悪人にも善人にも昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」(同5:45)という神の包容力にならうことの勧めでした。

私たちは、常に、そのような「完全」を目指すように教えられています。人は、成長をあきらめたとたん、神のかたちとしての人の美しさを失ってしまいます。いつも最高を目指して生きているスポーツ選手や芸術家が輝いているのと同じように、私たちは「完全」を目指して生きるのです。

そのことをパウロは、「私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕らえようとして追及しているのです。そしてそれを得るようにと、キリスト・イエスが私を捕らえてくださったのです。兄弟たち。私はすでに捕らえたなどと考えてはいけません。ただ一つのこと、すなわちうしろのものを忘れ、前のものに向かって身を伸ばし(エペクタシス)」(ピリピ3:12,13)という目標に生きる状態を自分で述べています。完全を目指すこと自体の中に真の「聖め」があるというのです。

2.「眠っている人よ。起きよ・・・キリストがあなたを照らされる」

  そして、パウロは罪に居直る人を指して、「ですから、彼らの仲間になってはいけません」(5:7)と言いながら、それをもっと積極的に、「あなたがたは、以前は闇でしたが、今は、主にあって、光となりました。光の子どもとして歩みなさい」(5:8)と勧めます。

ここでは、先に、「愛されている子供らしく・・・愛のうちに歩みなさい」と言われたことが、「光の子どもとして歩みなさい」と命じられています。そしてその前提として、キリスト者は、「キリストにあって」、すでに「闇」から「光」になっていると言っています。イエスは、「わたしは、世の光です」(ヨハネ8:12)と言われましたが、私たちはキリストのうちにあるとき、同時に、すでに、「光となりました」と言うことができるのです。

「光になりなさい」ではなく、すでに「光となっている」のだから、「光の子ども」としての誇りを持って「歩みなさい」と言われているのです。その上で、「あらゆる善意と正義と真実のうちに、光は実を結ぶのです」(5:9)と言いながら、光としての実を結ぶ生き方をするように命じられています。

その上で、「何が主に喜ばれるかを吟味しなさい」(5:10)とは、一人ひとりが誰かに命じられのではなく、主体的に、何が主に喜ばれることかを、主のみことばに照らして見分けるようにという勧めです。

その上で、「実を結ばない暗闇のわざに加わらず、むしろ、それを明るみに出しなさい」(5:11)とは、「この世と調子を合わせてはいけません」(ローマ12:2)という勧めと同じ趣旨だと思われます。

なお、「明るみに出す」とは、隠されている悪を明らかにする、また、悪に同意していないことを明らかにするという意味があります。それは、積極的に、自分の属する組織の悪を密告するとか、次から次と人の過ちを指摘してあげるというようなことではなく、自分が同意できないということを、自分の身が危険にさらされることを厭うことなく明確にすることです。

子供の世界では、「ある子がいじめにあっているとき、いじめる側に仲間入りをしなければ、自分がいじめの対象にされてしまう」という恐れの中でいじめが加速されることがあります。同じようなことが大人の世界にもあります。悪いと分かっていながら、それに同調しないと村八分にされるという恐怖があります。

「彼らがひそかに行っていることは、口にするのも恥ずかしいことなのです。しかし、すべて明るみに出すべきものは、光によって見られるようになります。見られるものはみな、光だからです」(5:12-14下線部私訳)とは、私たちが「世の光」として生きることが世界の変革につながるという希望です。

私たちがまわりの人々の悪に同意せずに、その問題に直面し、見られるようにすることは、そのような恥ずべきことを行っている人々を軽蔑し、さばくためではなく、私たちがともに、世界に救いをもたらして下さる方を必要とするということを明らかにするということです。

それはたとえば、恥ずべき行為を行っている人に向かって、「私の中にも、あなたと同じ弱さや葛藤があります。でも、それをそのままにしておくと、滅びに至るということがわかりました。でも、自分で自分の問題を解決する力は私にはありません。それで、イエス様にすがっているのです・・・」と、同じ目線に立って、救い主を指し示すことです。

福音の初めとは、何よりも、私たちすべてが何らかの意味で病んでおり、救い主を必要とすると認めることにあります。世の人々は、「弱みを見せたら付け込まれる・・・」という恐れの中に生きていますから、キリストのうちにある者こそが自分の弱さや愚かさを、「明るみに出し、光によって見られるようにする」ということを始めなければなりません。

私たちが互いに、神の一方的な救いを必要としているということを明らかにすることこそ、「世の光」としての生き方です。

その上でパウロが、「それで、こう言われています」(5:14)と引用したことばは、初代教会で洗礼を授けるときに使われていた讃美歌ではないかと思われます。そこで、「眠っている人よ。起きよ。死者の中から起き上がれ。そうすれば、キリストがあなたを照らされる」と歌われています。

この背後にはイザヤ26章19節の「あなたの死人は生き返り、あなたの屍は、よみがえります。覚めよ、喜び歌え。土のちりの中にとどまる者よ」という復活預言、また、60章1節の「起きよ。輝け。まことに、あなたの光が来る。主(ヤハウェ)の栄光があなたの上に輝く」という救い主預言があると思われます。

これは、自分が死に向かっているアダムの子孫であることに認め、目を覚まして、救いを求め始めるとき、神の救いの光が自分を照らすという意味です。キリストがあなたを照らすとき、あなたはキリストにあって「光」となっています。それは、傷ついた癒し人として、自分の傷を明らかにしながら、同じ傷を持つ人に救い主がもたらす癒しの希望を分かち合うことです。

3.「ぶどう酒に酔いしれてはいけません・・・御霊に満たされなさい」

  15節は、原文では、「そういうわけですから、よくよく注意しなさい、どのように歩んでいるかを。賢くない人にようにではなく、賢い人のようにしているかを」と記されています。つまり、「キリストにあって光となっている」という自覚のもとに、「賢い人として歩みなさい」と励ましているのです。

そして、そのように生きることの具体的な意味は、「時」をどのように見るかにあります。「機会を十分に生かして用いなさい。悪い時代だからです」(5:16)とは、「時を贖いなさい。この日々は悪いから」と訳すこともできます。

「時を贖う」とは、時間を無駄にしないというような意味ではなく、一日一日の時間を神の贈り物として受け止めるということです。私たちはどのように時間を使うかの責任を、時間の創造主である神から問われています。

そのことが、「ですから、愚かにならないで、主のみこころが何であるかを悟りなさい」(5:17)と記されています。伝道者の書には、「時と機会はすべての人に巡ってくる」(9:11)と記されていますが、ビクトール・フランクルは、「私の生きる使命が分かりさえしたら・・」と疑問を感じる人に、「使命があなたを探している」と言いました。

私たちは、「今ここで」、自分に問われていることを誠実に成し遂げることの連続から、生かされている目的を知ることができるようになります。それは、一瞬一瞬、一日一日の積み重ねの中で問われ続けていることです。

「また、ぶどう酒に酔いしれてはいけません。そこには放蕩があるからです。むしろ、御霊に満たされなさい」(5:18)とは、飲酒の禁止であるよりは、酩酊してはならないという警告です。

伝道者の書9章7節には、「さあ、喜んであなたのパンを食べ、しあわせな心でぶどう酒を飲め。神はすでにあなたがそうするのを喜んでおられるのだから」と記されています。しかも、不思議にも、酩酊することと御霊に満たされることに共通点が示唆されています。

初代教会のペンテコステの日、御霊に満たされた弟子たちの様子を見た人々は、「彼らは新しいぶどう酒に酔っている」と嘲ったと記されています(使徒2:13)。酩酊は、しばしばこの世の秩序を越えさせますが、聖霊に満たされる時にも、私たちはこの世の人の評価や、様々な無意味なしきたりから自由に生きることができます。

両方とも人の心を自由にしますが、酩酊は放蕩を生み、聖霊は聖い生き方を生み出します。ところで、「御霊に満たされる」ことの意味には様々な側面があり、ある人にとっては恍惚状態を味わうことかもしれませんが、ここでは御霊に満たされることの四つの側面が記されています。

その第一は、「詩と賛美と霊の歌とをもって互いに語り合う」(5:19)ことです。賛美の基本は、歌うこと以前に、「互いに語り、教え合う」ことです。「詩・・をもって」とは詩篇の交読でしょう。「賛美」とは信仰告白としての賛美歌のようなもの、「霊の歌」とは、パーソナルな証しの歌を指すのかもしれません。これは、公の礼拝のすべての部分に関わってくることでしょう。個人の証とは、まさに、賛美であり霊の歌でもあります。

第二に、「主に向かって、心から歌い、楽器を奏でなさい」とは「歌う」ことや楽器で主を賛美することを含めます。これは礼拝音楽すべてにかかわることだと思われます。

第三は、「いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名によって、父である神に感謝しなさい」(5:20)です。御霊に満たされるとは、自己満足に浸ることではなく、神がキリストにおいてなしてくださったすべてのことに対しての「感謝」が生まれることなのです。

そして最後の第四は、「キリストを恐れて、互いに従い合いなさい」(5:21)という勧めです。御霊に満たされることは、互いを尊敬する、互いに従うという人間関係の中に現されるというのです。それが具体的には、続けて、夫婦関係として表されます。そこにこそ、御霊の働きが現わされます。

 

エペソ書に描かれた「救い」とは、「神は・・背きの中に死んでいた私たちをキリストとともに生かし・・・キリスト・イエスにあって、私たちをともによみがえらせともに天上に座らせてくださいました」(2:5,6)と描かれます。

私たちはキリストとともに復活のいのちを生き、「王である祭司」(Ⅰペテロ2:9)としての名誉ある歩みを始めました。ですから罪の奴隷としての生き方を卒業する必要があります。ただし、それは禁欲主義ではなく、キリストのうちにある新しい創造」を喜び祝う生き方です。

そのためにあらゆる種類の教会音楽が用いられます。ドイツで生まれた心に沁みる音楽も、米国の黒人中心の教会で発展してきたリズミカルなゴスペルも、「新しい創造」を喜ぶという点では同じです。

その時々の私たち気持ちによってふさわしい音楽も変わることでしょう。しかし、何よりも大切なことは私たちが歌う内容であり、それらが聖霊に満たされる」という目的のために用いられることです。主にある喜びこそが、暗闇の力に打ち勝つ力となるのですから。