詩篇137篇「エルサレムを至上の喜びとして生きる」

2019年2月24日 

イエスの時代のユダヤ人にとっての神の「救い」とは、ローマ帝国の支配から解放されて、ダビデ王国の栄光が回復されることでした。それは「バビロン捕囚からの帰還」、「新しい出エジプト」と呼ぶことができます。

バビロン帝国によってエルサレム神殿が破壊された70年後に、バビロンはペルシャによって滅ぼされ、ユダヤ人のエルサレム帰還が許され、神殿が再建されましたが、それは捕囚の終わりとは言えません。彼らはなおペルシャ帝国の支配下にあったからです。 “詩篇137篇「エルサレムを至上の喜びとして生きる」” の続きを読む

ヘブル6章9〜20節「神の約束と誓いに生かされる自由」

2019年2月3日 

しばしば、多くの人は聖書に誤った問いかけをして、混乱してしまいます。その一つに、「一度、救いの喜びを体験した人が、サタンの攻撃に屈して、信仰を失うことがあるだろうか?」という問いがあります。ヘブル書6章1-8節は、それに明らかに「そのとおり」と語っているように見えます。そして、諸教会の現実としては、洗礼を受けた人々の半数以上が、信仰から離れるという悲しい現実があるとも聞きます。 “ヘブル6章9〜20節「神の約束と誓いに生かされる自由」” の続きを読む

詩篇42〜43篇「心の渇きへの癒し」

2019年1月27日 

今から50年前、米国はベトナム戦争の泥沼化に苦しんでいる中で、Love & Peaceを掲げた反戦運動が盛になっていました。残念ながら当時の米国においては、キリスト教は戦争を正当化する宗教と見られていました。 “詩篇42〜43篇「心の渇きへの癒し」” の続きを読む

ヘブル5章11節〜6章12節「成熟を目指して進む」

2019年1月20日 

福音派の教会では、イエスを救い主として信じた人のことを、「あなたは救われたのです」と喜び合います。それは誤りではありません。しかし、その後の生き方に成長が見られないばかりか、教会から離れる人さえいるという現実を見ると、「神のかたちとして成熟を目指して生き始めるスタート台に立った」という面の強調も必要かと思わされます。 “ヘブル5章11節〜6章12節「成熟を目指して進む」” の続きを読む

詩篇1〜2篇「主の教えを喜ぶ者の幸い」

2019年1月13日 

サラリーマン時代、「主の教えを喜ぶ人は……何をしても栄える」というみことばが、仕事の成功と結びついて嬉しく思えました。しかし、様々な悩みを抱えた方に接しているうちに、その詩篇1篇があまりにも楽天的に見えてきました。主の教えを喜びながらも次から次と厳しい試練に会う人がいるからです。 “詩篇1〜2篇「主の教えを喜ぶ者の幸い」” の続きを読む

詩篇37篇「平和の人には将来がある」

2019年1月1日 

人に裏切られ続けた人は、人の善意を信頼できず、すべてを損得勘定でしか見られないことがあります。不安に駆りたてられている人は、自分の身を守るために、人の手柄を横取りすることさえ平気でします。しかし、恩を仇で返すような行為とか、目的のためには手段を選ばない生き方が、いつまでもまかり通ることなどあり得ません。神は盲目な方ではないからです。 “詩篇37篇「平和の人には将来がある」” の続きを読む

Ⅱ列王記23章28節〜25章30節「苦難を受け入れる中から生まれる希望」

2018年12月30日 

スポーツの美しさは常に勝利を目指して最善を尽くすことの中に現わされますが、同時に、どれほど優秀な選手も、必ずどこかで負けて引退します。その人の真の美しさはその後の生き方に現わされます。

神の御子が処女マリアを通して人となろうとされたとき、世界はかえって暗くなったように見えました。マリアとヨセフはナザレからベツレヘムへの苦しい旅を強いられます。二人はその旅先で、周りからよそ者として扱われ、彼らを迎える宿もありませんでした。 “Ⅱ列王記23章28節〜25章30節「苦難を受け入れる中から生まれる希望」” の続きを読む