もしある人が、「信仰をもって、傘を持たずに出かけよう!」と言って、雨でずぶぬれになったとしたら、そんな風に「信仰」ということばを使うのは愚かだと誰もがわかります。ところが意外にも、「信仰」という名のもとに根拠のない楽観主義が正当化されることがあります。 “ヘブル10章32〜11章6節「恐れ退かずに、信じていのちを保つ」” の続きを読む
詩篇143篇「主 (ヤハウェ) よ 私を生かしてください!」
この詩篇は伝統的に七つの悔い改めの詩篇 (6,32,38,51,102,130,143篇) の最後と呼ばれ、作者もダビデであると見られています。しかし、この詩のどこにもダビデの罪の悔い改めの姿が描かれていません。ひょっとすると、多くの信仰者は詩篇を読むときに、すでに一つの枠を持ってしまっているからこそ、これを悔い改めの詩篇と分類したのかもしれません。 “詩篇143篇「主 (ヤハウェ) よ 私を生かしてください!」” の続きを読む
ヘブル10章19〜31節「恐れから生まれる希望」
イエスはご自身の弟子たちに「永遠のいのちを与えます。彼らは永遠に決して滅びることがなく、また、だれも彼らをわたしの手から奪い去りはしません」(ヨハネ10:28) と約束してくださいました。ですから、私たちに与えられた「永遠のいのち」は、決して失われることがないはずです。しかも、「失われる可能性のあるいのち」を「永遠のいのち」と呼ぶことはできません。
詩篇55篇「あなたの重荷を主 (ヤハウェ) にゆだねよ」
花粉症に苦しむ方が、「昨夜、私は鼻が詰まって眠られなかった……」と言ったことに、ある尊敬されるカトリックのシスターは、「あら、お薬をちゃんとお飲みになったの?」と応答してしまい、後で自分の配慮のなさを深く反省したとのことです。
私はそれを伺い、その気づき方に感心しました。人は、誰でも、自分の気持ち、自分の辛さをわかって欲しいと願います。そのときに、苦しみの原因を分析されたのではかえって気が滅入るかもしれません。私たちも、しばしば、そのような反応をすることを反省すべきでしょう。 “詩篇55篇「あなたの重荷を主 (ヤハウェ) にゆだねよ」” の続きを読む
ヘブル10章1〜18節「キリストの復活が、私たちを聖なるものとする」
「罪の赦し」は「何のため?」と聞かれたら、あなたはどのように答えるでしょう。キリストの福音は、天国行きを保証するという以前に、日々の仕事や家庭生活、教会や他の人間関係を変革(transform)する力があります。 “ヘブル10章1〜18節「キリストの復活が、私たちを聖なるものとする」” の続きを読む
詩篇146篇「望みをアダムの子ではなく、主 (ヤハウェ) に置く生き方」
聖書にある神のみわざの最も画期的なことは、人が「神のかたち」として、「神の似姿」に創造されたということではないでしょうか (創世記1:26-28)。ところが人は、「自分を神」としてしまい、そこから「力ある者」が弱者を支配するという構造が生まれました。
ときには、弱者を援助するという慈善事業を通してさえ「力ある者」が「神のかたち」に創造された人を支配するという構図が生まれます。それは人を「捕らわれ人」とすることです。 “詩篇146篇「望みをアダムの子ではなく、主 (ヤハウェ) に置く生き方」” の続きを読む
ヘブル9章15〜28節「新しい契約を実現したキリストの血」
昔の人々は、自分の聖書をじっくり読むなどということはできませんでした。私の父も聖書をほとんど読むこともなく信仰告白に導かれました。それは旭川の教会の牧師が何度も父を訪ね、簡潔に福音を語ってくださったおかげです。
そのようなときに用いられるのが、「血を流すことがなければ、罪の赦しはありません」(9:22) とか、「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」(9:27) というみことばです。 “ヘブル9章15〜28節「新しい契約を実現したキリストの血」” の続きを読む
ヘブル9章1〜14節「キリストの血が、良心をきよめる」
人生の中で、何度か自分で自分を赦すことができないと思うほどの大きな罪を犯すことがあるかもしれません。その中で、神と教会に対して、「会わせる顔がない……」という思いになったり、激しい痛みを味わいながら「これは自業自得だから……」と、真正面から神に訴えられない気持ちになることもあるでしょう。
それはあなたの心の奥底の「良心」が機能しているしるしとも言えますが、同時にそれは、「自分を神」として、神の救いを退けようとする「良心の誤作動」の現れとも言えましょう。 “ヘブル9章1〜14節「キリストの血が、良心をきよめる」” の続きを読む
詩篇133篇、134篇「主にある交わりへの祝福」
日本語の「教会」とはギリシャ語のエクレシアの訳で、それは「召し出された者たちの集まり」と訳すこともできることばです。その本質は「教えを受ける会」ではなく、「互いに愛し合う共同体」です。
そのように言われる割には、「この教会には愛がない」と言われる現実がどの教会にもあります。新興宗教の交わりの方がずっと愛があるように思えることがあっても不思議ではありません。しかしそれは私たちの信仰が、一人ひとりが、たったひとりで創造主と向き合うということが信仰の基礎にあることの逆の面でもあります。 “詩篇133篇、134篇「主にある交わりへの祝福」” の続きを読む
ヘブル7章26節〜8章13節「よりすぐれた契約の仲介者」
旧約、新約聖書という区分けは、福音がローマ帝国に広がり、同時に様々な誤った教えが生まれ始めた紀元180年頃に言われ始めたとのことです(イエスの十字架から約150年後)。
ヘブル8章13節などを見ると「旧約聖書は古びている」とも誤解されかねません。しかし、パウロが伝道したギリシャ北部のベレアの信徒に関しては、「この町のユダヤ人は、テサロニケにいる者たちよりも素直で、非常に熱心にみことばを受け入れ、はたしてそのとおりかどうか、毎日聖書を調べた」(使徒17:11)と描かれていましたが、彼らが調べたのは旧約聖書です。 “ヘブル7章26節〜8章13節「よりすぐれた契約の仲介者」” の続きを読む