マタイ5章17〜32節「律法を成就するキリスト」

2019年11月17日

子どもは大人を振り回す天才とも言えますが、イエスは「向きを変えて子どもたちのようにならなければ、決して天の御国に入ることはできません」(マタイ18:3) と言われました。これは、子どもの心は純粋、無垢だというのではなく、自分の無力さを心の底で自覚している姿勢に倣うようにとの、心の方向転換の勧めと言えます。

多くの人々は、聖書が示す「」に関して誤解をしています。創世記3章によると、「自分を神とし、自分を善悪の基準として、自分の正当性を主張すること」こそ、神との関係を破壊する行為でした。

ときに、「クリスチャンとして、何が正しく、何が誤りかを、恐れずに主張できる」ようになることを理想とし、同時に、批判に真っ向から反論する人がいますが、それこそパリサイ人の生き方と同じになりかねません。「神以外に正しい方はなく、みな神の前での罪人に過ぎない」という謙遜さこそが私たちの信仰であるべきではないでしょうか。

イエスは弟子たちに、「あなたがたの義がパリサイ人にまさっていなければ……決して天の御国に入れません」と言われました。それは私たちの正義の観念を根本から変える教えです。

律法を成就するために来た」と言われたイエスは、私たちが自分の正当性を主張できなくさせるところから、ご自身の働きを始められました。そして、イエスご自身が私たちを完成に導いてくださいます。

1.「あなたがたの義が……パリサイ人の豊かさに、はるかにに勝っていなければ……」

イエスは、「わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思っては(みなしては)なりません。廃棄するために来たのではなく、成就するためなのです」と言われます (5:17)。「律法や預言者」とは旧約聖書全体を指しますが、それはイエスご自身が親しんだ聖書そのものです。

確かに旧約には神殿礼拝に関る様々な儀式や食物規定が記されますが、それをそのまま適用しなくなったのは、イエスが神殿を完成したからです。神殿は神が民の真中に住まわれるための施設でしたが、イエスにおいて、神ご自身が人となり、民の真中に住んでくださいました。

また、神殿は、いけにえを献げて罪の赦しを受けるためにありましたが、イエスの贖いのみわざは、「雄やぎと子牛の血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度だけ聖所に入られたのです。それは、永遠の贖いを成し遂げるためです」(ヘブル9:12) と描かれています。

しかも、目に見える神殿は「本物の模型」(同9:24) に過ぎないと記されています。そして、イエスご自身、「この神殿を壊してみなさい。わたしは、三日でそれをよみがえらせる」(ヨハネ2:19) という途方もないことを言われました。これは、神殿冒涜罪として、イエスの裁判の際に、違ったことばで引用されましたが、復活によって成就したのです。

そして黙示録21章では「新しい天と新しい地」の実現が、「聖なる都、新しいエルサレムが……天から降って来る」こととして描かれます。それは天と地が一つになり、この世界全てが神に神殿となって完成する状態です。それは「狼と子羊はともに草をはみ、獅子は牛のように藁を食べ」るという平和 (シャローム) の完成の状態です (イザヤ65:25)。

イエスの時代の人々は、神の栄光の現れという神殿の完成と、この地に神の支配が全うされるというシャロームの実現を待ち望んでいましたが、イエスはご自身が十字架で殺されることを通して、それらの預言の成就を確かなものにしてくださったのです。

その上でイエスは、「まことに、あなたがたに言います。天と地が過ぎ去るまで、律法の一点一画でも決して過ぎ去ることはありません、全部が実現するまでは」(5:18私訳) と強調されました。

この目に見える「天と地」は過ぎ去り、「新しい天と新しい地」が実現します。それは聖書の預言がすべて成就するときです。その時まで、旧約聖書にある最も小さな文字も無駄にならず、小さな読み替えも必要はありません。みことばが役割を終えるのは、全部が成就したときになってのことです。

歴史とは、神のみことばがひとつひとつ実現して行くプロセスです。聖書には、救いに関るすべてが記され、これこそが最高の知識です。

ですから、これらの戒めのうち最も小さいものの一つでも、これを破ったり(弛めたり)、またそのように人に教える者は、天の御国で最も小さい者と呼ばれます」(5:19) と記されますが、これは当時の律法学者への皮肉です。彼らは神の教えの重さをランク付し、罪の大きさを区別しました。

イエスは、そのような読み方を真っ向から批判しました。律法の第一の趣旨は、罪を指摘すること以前に、私たちがこの地で神を仰ぎつつ、幸せに生きられる道を指し示すことです。聖書は、何よりも神からのラブレターなのです。

それにしても、「天の御国で、最も小さい者と呼ばれる」とは、御国に入っているという前提でのことばですから、自分は地獄に落ちると心配する必要はありません。

ここでの何よりの要点は、「しかし、それを行い、またそのように教える者は天の御国で偉大な者と呼ばれます」と記されているように、みことばを軽く扱う者は神から「最も小さい者と呼ばれ」、重く見る者は、「偉大な者と呼ばれる」という対比にあります。

つぎにイエスが弟子たちに向かって「たしはあなたがたに言います。もしあなたがたの義が、律法学者やパリサイ人のそれより、はるかにまさっているのでないなら、あなたがたは決して天の御国に入れません」(5:20) と言われたことは、弟子たちにとって大変なショックでした。

なぜなら、当時、律法学者やパリサイ人は、模範的な市民であり、約束を守り、賄賂も取らず、嘘もつかず、暴力も決して振るわないような人たちでした。彼らに「はるかにまさる義」というのは、イエスの弟子たちにとっては不可能にしか思えませんでした。

それでは何が問題なのでしょう。私は以前、リージェント・カレッジの創立学長のフーストン先生に、「どうしたらもっと神を身近に感じることができるのでしょう?」と素朴な質問をしました。すると、私の問題を知っている彼は、「あなたは、放蕩息子の兄のように、義務を果たすことばかりに目を向けていませんか?」と問いかけられました。

放蕩息子の兄は、父が身近にいるにも関らず、心理的には、父を非常に遠い存在に感じていました。それは、父の助けなしに責任を果たすことに目が向かい過ぎていたからです。同じように自分の努力で可能な範囲で生きる人は、神を身近に感じることができません。

しかし私の場合は、教会の成長とともに、自分の能力ではとうてい不可能な働きの分野が広がりました。祈ること無しにはできない働きが広がるとき、そこに神のみわざを喜び、互いを喜ぶという交わりが生まれます。

全能の神は、手伝いが必要なのではなく、かえって私たちを助けることを喜びとしておられます。それは主ご自身が、「地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。わたしが神である。ほかにはいない……すべての舌は誓い……『ただ、主 (ヤハウェ) にだけ、正義と力がある。』と言う」(イザヤ45:22-24) と語られた通りです。

自分の義と力を誇る者は、どんなに社会に貢献していているようであっても、神のご計画に反しています。それは人をさばき、争いを加速させるからです。

一方、ほんの少ししか人の役に立っていないような人でも、それを通して、主の正義と力が証しされ、そこに互いを喜び合う平和が生まれるなら、それこそがイエスが求められた「」と言えましょう。

私たちは自分に関しては正義を求めるべきですが、パリサイ人は自分の義で自分を満たそうとして、神の義が自分のうちに入ってくる道を閉ざしたのです。

2.「殺してはならない」から、「あなたの兄弟を軽蔑してはならない」という教えへ

イエスは、21節以降で、「律法学者やパリサイ人の義」について問題にします。主は「あなたがたは聞いています……と言われていたのを……しかし、わたしはあなたがたに言います」という表現で、当時のユダヤ人たちが聞いて来た口伝の教えを一つひとつ取り上げながら、その誤解を修正して行きます。

当時の聖書解釈の専門家たちは、神の様々な教えを日常生活に適用できるように、具体的で実践的な命令に変えてきましたが、それによって神の愛の教えの本質が歪められていたという現実がありました。

21-26節で、当時の律法の専門家が、「殺してはならない」と、「人を殺す者はさばきを受けなければならない」(民数記35:30等) という、文脈の違うみことばをセットにすることで、最も大切な「十のことば」の一つを、殺人罪の処理の問題にすりかえたことが非難されます。結果的に彼らは自分を義人と見なし、罪を犯さざるを得なかった人を心から軽蔑していました。

それに対してイエスは三段階の誇張法で、私たちの行動以前の「口のことばと心の思い」(詩篇19:14) が、神の目からは問われていることを明らかにします。

第一の「自分の兄弟に対して怒る者」(22節) とは、「理由なくして」という句が挿入されている写本もありました。ここでは、怒ること自体ではなく、感情に振り回されて「自分の兄弟」である信仰の友に怒りをぶつけることです。それは兄弟愛を壊すことがあるので、「さばきを受けなければならない」と言われます。

第二の「自分の兄弟に向かって『ばか者(以前の訳は「能なし」)と言う者」とは、原文で「ラカ」というアラム語の発音そのままの罵倒のことばが記されています。これは「お前の頭はカラ」という意味で、そのような人格否定の罵倒をする者はユダヤ人の「最高法院サンヘドリンでさばかれる」というのです。

第三の「愚か者(以前の訳では「ばか者」)と言う者」とは、無能を嘲るより激しい「のろい」のことばで、「お前には生きている価値がない」と宣言するような意味です。そのように人を罵倒する者は「火の燃えるゲヘナに投げ込まれる」と言われます。

逆説的ですが、人を「殺す価値もない者」と見てしまうことは、殺人よりも恐ろしい罪かも知れません。しかし、神が極めて簡潔に、例外なしに殺してはならないとだけ言われたのは、「無能と見られる人でも、悪人でも、生きている価値がある」と見られたからなのです。

ですから、祭壇の上にささげ物を献げようとしているときに、自分の兄弟が自分を恨んでいることを思い出したなら」(23節) とは、前のことを受けての誇張的な議論の展開です。これは、あなたが誰かを恨んでいるということではなく、恨まれていることの問題です。

相手が恨んでいるには理由があるはずで、それを、「恨んでいる奴の勝手!」と思うのは、人を人とも思わない態度です。実際、律法学者やパリサイ人は、祭壇の上にささげ物を献げることには非常に熱心でしたが、人への態度は慇懃無礼、心で人を軽蔑しきっているところがありました。

それに対し、イエスは、「ささげ物は祭壇の前に置き、行って、まず、あなたの兄弟と仲直りをしなさい。それから戻って、ささげ物を献げなさい」(5:24) と、あり得ないことを勧めました。これも誇張法で、自分にとっての兄弟との和解を最優先するようにとの趣旨で言われています。

さらに、「そうでないと、訴える人はあなたを裁判官に引き渡し……あなたは牢に投げ込まれることになります……そこから決して出ることはできません」(5:25、26) と記されるのは、神が弱者の告訴を取り上げられる方であることを強調するためです。

パリサイ人は礼拝で自分たちの敬虔さをアピールし、優越感に浸ることがありましたが、それこそ神の最も嫌われることでした。それは、神へのいけにえは、砕かれた霊。打たれ、砕かれた心。神よ。あなたはそれを蔑まれません(詩篇51:17) と記されている通りです。

3.「姦淫してはならない」が、「男性の情欲の問題に」

5章27-30節では、「姦淫してはならない」という教えに関しての誤解を正す教えです。ここでも「あなたがたは聞いています……と言われていたのを……しかし、わたしはあなたがたに言います」と記されています。本来の律法の趣旨は、当時、一夫多妻が許され、力のある者が弱い者の妻を平気で奪うことさえあったという社会の中で、すべての家庭の尊厳を守ることにありました。

しかも、ヨハネ8章の記事にもあるように、姦淫の罪で断罪されたのは、もっぱら女性の側でした。それは、女性の産む子が、夫のものであることを疑いなくするために必要なことと見られました。

また、とくに既婚の女性は、ベールを被るなどの作法を守ることで、他の男性の欲望を刺激しないようにする責任があったのかもしれません (創24:65)。

それに対してイエスは、「姦淫の罪」を、男性側が「情欲を抱いて女を見る者はだれでも、心の中ですでに姦淫を犯したのです」という、男性の心の問題へと向けます。

伝統的にどの文化でも、女性が性的な被害に会う時、女性の側が非難される傾向がありましたが、イエスはそれを男性の側の「心の中にある情欲」の問題にして、「右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨てなさい……右の手が……つまずかせるなら切って捨てなさい」などと、あり得ない誇張法を使って、男性の側が自分の責任で自分の情欲を制御する必要があると迫りました。

しかもその際、「全身がゲヘナに投げ込まれない方が良い」「全身がゲヘナに落ちない方が良い」などと繰り返し、神が男性の側の性的な暴力を徹底的に厳しく問われるということを明らかにしています。これは、もちろん、私たちの罪の行為が、心の中から始まり、神は私たちの心の中を見ておられるという基本がありますが、ただ、心の中の罪だけで「ゲヘナに落とされる」ということは考えられません。

これはあくまでも誇張法であり、その目的は、私たちの言い訳を排除することにあります。たとえば、最近は、LGBTの問題などが、生まれながらのその人のあり方やその人にとっての自然な生き方の権利を認めるという話になっていますが、だからと言って、男性が不特定多数の男性と関係を持つことや、女性が女性に情欲を抱いて性的な関係に入ること自体を、正当化して良いのでしょうか。

なお、多くの男性は、この「情欲を抱いて女を見る」ということにおいて、身の潔白を主張することはできません。イエスはここで何よりも、当時の律法の専門家が自分の正しさを主張することを非難しているのです。

私たちに何よりも求められることは、「神様、罪人の私をあわれんでください」(ルカ18:13) とへりくだって祈ることです。生まれながらの人間にはできないことを、神はできるようにしてくださいます。

また女性も、そのような弱さがすべての男性に中にあることを認めながら、刺激的な服装は控えるべきでしょう。互いに自分の正当性を主張し合って、相手を一方的に悪者にするという態度が問われているのですから。

4.離婚に関する教え

さらにイエスは5章31、32節で、離婚の問題を取り上げ、「『妻を離縁する者は離縁状を与えよ』と言われていました。しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも淫らな行い以外の理由で自分の妻を離縁する者は、妻に姦淫を犯させることになります」と言われます。

当時の律法の専門家は、申命記24章1-4節の解釈を巡って議論をしていました。そこでは、「人が妻をめとり夫となった後で、もし妻に何か恥ずべきことを見つけたために、気に入らなくなり、離婚状を書いてその女の手に渡し……去らせ……た場合」(24:1、3) という長い文章が記されます。

「離縁状」とは別れた妻に再婚を許可するのが趣旨でしたが、彼らは、「何か恥ずべきことを見つけた……場合」という意味の解釈を巡って様々な議論をしていました。

保守的なシャンマイ派はそれを、「妻が浮気をして具体的に他の男性と性的な関係を持った場合に限ると解釈し、イゼベルに匹敵するほどにひどい妻であっても、姦淫の罪以外の理由で離婚することは許されない」と言っていました。

それに対し、ヒレル派は、たとえば、「妻が、夫の食事を台無しにしたり、道で他の男と話したり、夫の親の悪口を言ったり、隣の家に聞こえる声でわめいた場合」には、夫は妻を合法的に離縁できるなどと具体的に解釈しました。

そして、当時はヒレル派の解釈の方が優勢であったように思われます。なぜなら、その直後の時代に最も影響力を持ったラビ・アキバなどに至っては、「それまでの妻より自分にふさわしい女性と出会った場合には離婚状を渡してもよい」と言ったほどだからです。

イエスはそこでシャンマイ派を支持しているのでしょうか。しかし主はそこで続けて、「また、離縁された女と結婚すれば、姦淫を犯すことになるのです」と言っておられるのですから、イエスは離婚自体を非難していると解釈すべきです。

事実、イエスは19章6節で「彼らはもはやふたりではなく、一体なのです。そういうわけで、神が結び合わせたものを人が引き離してはなりません」と言っておられます。それに対しパリサイ人たちは、離縁状の意味を尋ねますが、イエスは、「モーセは、あなたがたの心が頑ななので……妻を離縁することを許したのです。しかし、はじめのときからそうだったのではなりません。あなたがたに言います。だれでも、淫らな行い以外の理由で自分の妻を離縁し、別の女を妻とする者は、姦淫を犯すのです」と言われました (19:7-9)。

なお、当時、女性の「淫らな行い」は、石打ちによる死刑の対象でしたから、伴侶の浮気が発覚した場合は、離婚が正当化できるとイエスが言おうとしたと解釈すべきではありません。主は先の27-30節では「姦淫の罪」を、ゲヘナに投げ込まれるに値することと語っているのです。

申命記をよく読めばわかるように、この規程の目的は、夫が妻を去らせ、彼女が「ほかの人の妻となり……」、その後、さらに離縁されるか、死別によって再び一人になった場合、「初めの夫は……再び彼女を自分の妻とすることはできない」(24:4) と、再婚した元妻との再再婚に歯止めをかけることにありました。

つまり、些細な理由で離縁しておきながら、「恋しくなった……」などと気まぐれを起こす男に、女性が振り回されることがないようにとの神の配慮だったと解釈できます。

ところが、女性を守るためだったはずの規定が、女性を虐げる根拠にされてしまいました。イエスはそれを正そうとされたのです。

「どのようなときに離婚が正当化できるのでしょうか?」という視点で聖書を読む時点で、そのような読み方が神のみこころに反しています。パリサイ人が、律法を用いて自分を正当化し、人を断罪したことこそが、何よりも問題なのです。

イエスは、神の御子として、書かれた律法の背後にある神の思いを語りました。それはしばしば、神殿を軽蔑し、安息日規定を無にしているように誤解されましたが、イエスこそは律法の真の著者、解釈者なのです。そして、イエスが三年かけて弟子たちになさったことは、彼らを暖かく包みながら、同時に挫折体験を見守ることでした。

ペテロは三度にわたって「イエスの仲間ではないか?」と聞かれただけなのに、「嘘ならのろわれてもよいと誓い始め、『そんな人は知らない』と言った」と記されます (26:64)。

聖書には神の民の愚かさ弱さ、罪深さが赤裸々に描かれます。なぜなら、御霊に満たされるために必要なことは、自分の無力さを認め、自分を明け渡すことだからです。

人にとっての最大の誘惑は、自分を神の立場に置ことする自己義認です。神の義(真実)が自分の心を満たし、生かしてくださることを求めるべきでしょう。