マタイ6章1〜18節「天の父との交わりの中でこの世に生きる」

2019年12月15日

私たちの信仰は、親しい人々が見ていないところで、どのように行動するかに現わされます。イエスの時代のパリサイ人は、人々から正しいことを行う信仰者とした高く評価され、模範となっていました。しかし、イエスは彼らがいつも人々の目ばかりを意識して行動していると、その偽善を激しく非難しました。

1970年12月に米国のプリンストン神学校で意地悪な実験が行われました。神学生たちは、少し離れたところにある講堂に急いで行って「善きサマリヤ人のたとえ」(ルカ10:25-37) から短い説教をするように命じられました。そのたとえでは、強盗に襲われ半殺しにされた旅人の前を、祭司やレビ人が見て、見ないふりをして通り過ぎる一方、軽蔑されていたサマリヤ人が彼を助けています。

そして何と実験者たちは、途中の道に、見すぼらしい身なりをした人を横たわらせ、神学生が急ぎ足で通りかかる際に、この人が咳き込み、痛ましい呻き声を上げるようにと依頼していました。ほとんどの神学生は、救いの手を差し伸べないばかりか、立ち止まって「どうしましたか?」と声をかけることさえしなかったとのことです。

彼らは指定された時間に説教演習を全うすることしか考えていませんでした。彼らは緊張し、人々の評価ばかりを意識していました。

1.「隠れたところで見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます」

6章1節は、「あなたがたの正義に関して注意を払いなさい、人に見せるために人前で実行することのないように。そうでないと報いを受けることができません、天におられるあなたがたの父からのものを」と記されています。

このことばが、2-4節では「施し」に、5-15節は「祈り」に、16-18節では「断食」に関して述べられ、それぞれにおいて、「隠れたところで見ておられるあなた(一人)の父が、あなたに報いてくださいます」(4、6、18) という結論につながります。鍵は、父の眼差しだけを意識して正義を実行することです。

第一の「施し」に関しては、「自分の前でラッパを吹いてはいけません」という勧めです。それは人々の評価を意識した行動で、そこには「偽善」の意図が見られます。彼らは周りの人々から褒めてもらえたということにおいて、「すでに報いを受けて」おり、天の父からの報いは期待できません。

なお、神からの「報い」を期待する時点で、利己的とも思われますが、ここで何よりも戒められていることは「自分の前でラッパを吹く」という、自分の行為を誇りたい気持ちです。しばしば、神の眼差しを意識しない人は、自分は良い人間であるという自己満足的な誇りに生きている場合があり、それが人の評価を意識することになります。

人を助ける時に大切なのは、「あなたの右の手がしていることを、あなたの左の手に知られないようにする」という、人を助けていることを自分自身ですら意識していない行動になることで、その目的が、「あなたの施しが、隠れたところにあるようにする」ということです。

そして、人々から隠れている行為こそが、「隠れたところで見ておられるあなた(一人)の父」に認められ、「あなたに報い」が御父から与えられます。

5、6節での「祈り」に関してですが、当時のユダヤ人たちは、信仰熱心な人が、社会的にも高く評価されました。そのため、「祈るとき偽善者たちのようである」ということがしばしば起こりました。彼らは「会堂や大通りの角」などの目立つところで、人々に見えるように」祈るのが大好きでした。

しかし、彼らは人々の評価を得ることができたことにおいて、すでに「自分の報い」を受けています。人は人との協力で初めて働きを全うできますが、そのため、人からどのように評価されているかで、その人の働きの成果も決まり、収入もそれに左右されるからです。

祈り」は本来、その人の心の内側が現わされるものであるはずなのに、それが善良な市民であるかどうかの評価の基準とされるとき、それはまさに「偽善」を促す力になります。

それで、「祈るときは、家の奥の自分の部屋に入りなさい」と命じられます。自分の部屋がない人も多いでしょうが、「家の奥の部屋」とは「倉庫」とも訳され、人の目を気にしなくて済むということが何よりの核心です。そこで「戸を閉めて、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい」と命じられます。

ここでは、隠れた空間で祈ることが、「隠れたところにおられるあなたの父」に結びつき、神との一対一の親密な関係がイメージされる表現になっています。それは「密室の祈り」とも呼ばれます。そのような祈りは、周りの目を意識する必要のない電車の中でさえ可能になります。

そして、そこに「隠れたところで見ておられるあなたの父」からの「報い」が再び約束されます。神は私たちの目には見えませんが、人の評価は目に見えます。しかし、あなた個人のが、あなたの葛藤や行動を隠れたところで「見ておられ」、人々から評価されることのない働きに、豊かな報いを与えてくださいます。

たとえば、周りの人々のシャローム(平和、平安、繁栄)のために祈るあなた自身の祈りは、隣人愛の原点になります。他者のための密室の祈りが、世界を変えます

16-18節には「断食」のことが記されますが、9章14、15節によるとイエスはご自分の弟子たちに断食を勧めてはいませんでした。当時の宗教指導者は、イスラエルが自分たちの罪のゆえに神の懲らしめを受け、ローマ帝国の支配下に置かれていると理解していました。ですから断食は、イスラエル全体の罪を自分の問題と捉え、神の悲しみを自分の悲しみとして表現することでした。

それに対しイエスは、断食していることが人に知られないように「頭に香油を塗り、顔を洗い」、断食を隠すように勧めました。これは私たちにとって、人々の前で社会や教会の罪を嘆くよりも、それを心の内側で悲しみ、人々には笑顔を見せるようにとの勧めとも理解できます。

批判や悲しみばかりを表現することで、世界を暗くすることがあります。もし断食で悲しみを表現するなら、「隠れたところで見ておられるあなたの父」に向かってなすべきなのです。

2.「ですから、あなたがたはこう祈りなさい」 アダムの祈りと主の祈り

イエスは「祈り」に関して、続けて、異邦人のような祈り方を戒めました。「同じことばをただ繰り返してはいけません」とは、決して、定型化された祈りを否定することではありません。私が以前、「イエス・キリスト神の御子、この私をあわれんでください」という歴史的に大切にされた祈りをご紹介したときに、それをこのみことばで否定する人がいましたが、それは文脈を誤解しています。

これは、祈りの熱心さによって神を動かそうとするような姿勢を戒めたもので、バアルの預言者たちが、自分の身体に鞭を打ち、感情的な言葉を繰り返し、必死に踊りながら嘆願したような姿です。祈りを、神を動かす方法としてはなりません

これに対しイエスは、「あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたの必要を知っておられる」(6:8) と言われました。これは、「だから、自分の必要を祈ることを止めてもよい」という意味ではなく、「天の父は、あなたのすべてのことを知っておられるのだから、祈りの言葉とか、方法などを気にせずに、信頼できる父と話すように、自由に何でも祈ることができる」とも理解できます。

ただ同時に、私たちの個人的な必要は知られているのだから、自分の肉から生まれる願望を超えた祈りを大切にするようにという勧めでもあります。

そしてイエスは私たちに祈りの模範を示してくださいました。これが「主の祈り」と呼ばれるのは、ルカ11章1節によると、イエスご自身が祈っておられた祈りであると理解できるからです。

主の祈りは、私たちの心の底から生まれる願いではありません。肉の祖先であるアダムは、たとえば、次のような祈りを望んではいないでしょうか。それは私たちの心のある自己中心の願望です。

この世の幸せをくださる神様!
(永遠の世界の話より目の前のことが……)

私の名前が大切にされますように
(私は誤解され、傷ついています……)

私の権威が認められますように。
(私の立場がないのです……)

私の意志が行なわれますように。
(思い通りにならないことばかりだから……)

私の一生涯の経済的必要が保障されますように。
(一切の経済的不安から自由になれたら……)

私は悪くないと認められますように。彼らは仕返しされて当然ですが……。
(私は特別です……)

私が誘惑などを恐れず、悪魔など気にしないでいられますように。
(恐怖心を克服できれば……)

私の影響力、私の能力、私の誉れこそが、人々の幸せの鍵ですから。
(私が王なら……)

しかし、救い主イエスの祈りはそれと正反対で、以下のように訳すことができます。ただし、これは肉の思いに反しますから、この祈りを心から祈るためには、御霊によって導かれる必要があります。ですから、古代教会においてはこの祈りは、信者にしか祈ることが許されていなかったと言われます。

(複数形)におられる私たちのお父様!

あなたのお名前が聖くされますように。
(私の心の中で、人々の間で)

あなたのご支配が現われますように。
(私の内に、人々の間に)

あなたのご意志が行なわれますように。
(私の心の中に、人々の間に)

天のように地の上にも。
(上の三つすべてを修飾する)

パンを、私たちに必要なものを今日もください。
(一日一日の糧のため)

赦してください!私たちの負い目を。
(人の罪のこと以前に自分の赦しを願う)

私たちが自分に負い目ある人を赦すように。
(人を赦すことで、神の赦しを確信できる)

陥らせないでください!私たちを誘惑に。
(「試み」も「誘惑」も同じ原文、負けないようにとの祈り)

救ってください!私たちを悪い者から。
(「父よ」で始まる祈りが「サタン」の存在認識で終わる)

永遠までも、ご支配と御力と御栄えは、あなたのものだからです。アーメン
(父なる神こそが真の王)

3.父なる神のための祈り

人は神に向けて造られました。ですから私たちの「幸い」は「心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くして、あなたの神、主 (ヤハウェ) を愛しなさい」(申命記6:5) の実践にあります。それこそ祈りの前半の焦点です。

❇︎「天にいます私たちの父よ。

イエスがゲッセマネの園で「深く悩み、もだえ」ながら「アバ。父よ」と祈られたように (マルコ14:33、36)、この混乱に満ちた世界の中から、創造主の「」とされた特権を味わいつつ祈ります。原文では、お父様!という呼びかけから始まり、その方が「私たちのお父様」であり、また「(複数)におられる」と続きます。

そこで私たちは、自分がこの目に見える世界を超えた天の不思議な静寂と平安に包まれているという感動、またその支配者である方が自分を愛する子どもとして引き受け、その愛で包んでくださるという感動を味わうことができます。私たちは、「諸々の天の支配者」であられる神の王国のご支配によって守られ、支えられています。

樹木は天から引っ張られるようにして地中から水を吸い、そのために大地に根ざします。神の創造のみわざを喜ぶことと、この地に置かれた自分の存在を喜ぶことは切り離せない関係にあるのです。

❇︎「(あなたの)名が 聖なるものとされますように

エデンの園で、人は善悪の知識の木のもとで神を礼拝する代わりにみことばを分析し、命令を軽蔑し、この地にのろいを招きました。ですから、世界の救いはその反対に、神の御名が、私の心の中で、私たちの間で、聖く、栄光に満ちたものと認められるようになることの中で初めて、実現されるのです。そのとき私たち自身も、いのちの喜びに満たされます。

この心が、主の創造のみわざをたたえるとき、真の自由が生まれます。「主の御名を聖なるものとする」ことは、たとえば詩篇8篇、19篇、96篇、136篇などの創造賛歌を、心から味わい、それを口に出して、主を賛美することでもあります。しかも、それを一人でするとともに、信仰者の交わりの中で、詩篇本来の並行法の形式を生かしながら賛美できます。

❇︎「御(あなたの)(ご支配)が来ます(実現します)ように」

神は、「見よ。それは非常によかった」(創世記1:31) という世界を創造されました。ところが今、この地はアダムの子孫の罪によって混乱しています。ですから、神のご支配の現実が、教会にとどまらず世界に、目に見える形で実現されるよう祈ります。

それには、まず私たち自身が神のご支配に服する必要があります。試練に会い、深い孤独を感じるときは、祈りの学校に置かれているのです。孤独から逃げ出す代わりに、孤独を深めることが必要とも言えます。

たとえば詩篇69篇や詩篇22篇には、イエスの悲しみや孤独感が表現されています。イエスはそのただ中で、父なる神のご支配の真実を体験して行かれました。私たちは自分の無力さを痛感することによって初めて、神のご支配に身を委ねることができるようになります。

神は欠けだらけの私たち一人ひとりを、ご自身のご支配をこの地に広げるために用いてくださいます。

❇︎「み(あなたの)こころ(意思)が行なわれますように、

アダムは、「土の器」(Ⅱコリント4:7) に「いのちの息」を吹き込んでくださった方に背を向けました。私たちは、自分の弱さを恥じることなく、マリヤのように、「ご覧ください。私は主のはしため(しもべ)です。どうぞ、あなたのおことばどおり、この身になりますように」(ルカ1:38) とこの身を差し出し、小さなイエスとして、この神の御旨を現せるように祈ります。それは、神のご意志に対し、Let it be と心を開くことの幸いです。

❇︎「天でのように地の上にも」

これは、「御名、御国、みこころ」の三つを修飾すると考えるべきでしょう。ルカでは、「みこころが行なわれますように」という祈りは省かれ、「御国が来ますように」という祈りに含まれています。ですからこれは、「御国が、天(単数)におけるように、この地にきますように」とまとめることができましょう。

黙示録では、世の完成の状態が、「新しいエルサレムが……神のみもとを出て、天から下って来る」(21:2) と記されています。つまり、私たちが天に上るのではなく、神の「のご支配がこの地に下って平和が完成するのです。

4.私たちの地上の生活の必要のための祈り

主の祈りの後半は、私たちの日々の必要を祈るものです。私たちは毎日、神のあわれみに より頼むこと、また自分ばかりではなく兄弟姉妹のために祈ることが求められています。

❇︎「私たちの日ごとの糧を、今日もお与えください。

突然、「パンをください!」という現実的な祈りが登場します。エデンの園の外では、「あなたは一生の間、苦しんでそこから食を得ることになる」(創世記3:17) という現実が支配します。ですから私たちは、地上の生活に必要な衣食住のすべてを、「日毎に必要な分だけ、今日もお与えください」と祈ります。

箴言では、「貧しさも富も私に与えず、ただ、私に定められた分の食物で私を養ってください。私が満腹してあなたを否み、『主 (ヤハウェ) とはだれだ』と言わないように。また、私が貧しくなって盗みをし、私の神の御名を汚すことのないように」(30:8、9) と祈られます。

しかも、これは世界にある飢えと渇きの現実を覚えながら、イエスの御前に五つのパンと二匹の魚を差し出した少年のように (ヨハネ6:9) されるように願うことでもあります。

❇︎「私たちの負い目をお赦しください。私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します。」

善悪の知識の木の実を食べたアダムは、「あなたは……食べたのか?」と聞かれた時、神になったかのように、神と女を責めるばかりで、神の御前で、「赦してください!」とは言えませんでした。しかし、今、私たちはキリストの十字架のゆえに、大胆に神の御前に赦しを願うことができます

その祈りの真実は、私と私に負い目ある人との関係ではかられます。神が私たちの負債を赦されたのは、この私が「キリストの使節」とされ (Ⅱコリント5:20)、この私を通して、神の赦しが、私に負い目ある人に伝えられるためでもあります。

なお14、15節では、「人の罪を赦す」ことと「天の父の赦し」を受けることがセットとされ、「赦さないなら、赦されません」と警告されます。多くの人はそれに怯え、「どうか、人の罪を赦すことができますように……」と祈り出しますが、それは自分を神とする傲慢な祈りにもなり得ます。罪を裁いたり赦したりするのは神の権威です。あなたが赦そうと赦すまいと、神はその人を赦し、また裁いたりしておられるのですから。

また「赦させてください……」などと祈ることで、人の罪を赦せない「自分のこと」が見え、自意識過剰に陥ります。イエスは、「私たちの負い目をお赦しください」と祈るように教えてくださったのですから、まず自分の罪深さに思いを馳せながら、心からそのように祈る必要があります

その上で、「私たちも私たちに負い目にある人を赦します」とただ告白するのです。すると不思議に心がその方向に向かいます。人を恨むと顔が暗くなり、喜びが消え、すべてが悪循環になります。赦しを告白することは、精神の健康のためになることです。

昔から、罪の赦しを与えるための様々な儀式がありますが、主は、私たちが他の人と関わり、人を赦すという行為を通して、神からの罪の赦しを確信するようにと導いてくださいました。

私たちは赦せない人を赦すという体験の中で、「天の父もあなたがたを赦してくださいます」(14節) という赦しの宣言を受けられます。

❇︎「私たちを試み(誘惑)あわせない(陥らせない)で、悪(悪い者)からお救いください。」

エバは、蛇の語りかけの背後にサタンがいることが見えず、欲望に身を任せました。また、ペテロは、自分の力を過信して、三度も主を否みました。ですから、私たちは、悪の源であるサタンの手から守られるように、日々祈る必要があります。

ただ、神の救いの計画は、キリストの十字架と復活によってその最終段階にあります。私たちの痛みには、母親の産みの苦しみ (ローマ8:22) のような希望があります。確かに、多くの「誘惑(試み)」が取り囲みますが、キリストの勝利が私たちの勝利とされるように大胆に祈ることができます。

最後に、「国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン」と賛美します。これは、もともと原文にはなかった頌栄で、この祈りを要約したようなものです。私たちは、やがて目に目える形で実現する「神の国」の完成を先取りして、「地の塩、世の光」として、イエスの父なる神こそが全世界の真の支配者であることを、身をもって証しするのです。

主の祈り」を心から祈る者は、三位一体の神の愛に包まれた喜びを味わっています。それは、私たちが他の聖徒と共に、人となられたイエスと、イエスの父なる神との愛の交わりの中に、御霊によって招き入れられ、神の子」とされた喜びです。そのとき私たちは、神の創造の目的に添った形で、自分らしく生きているのです。同時に、そこには世界の完成の希望があります。

キリスト者の使命は、「世界を神の愛と平和で満たすために、それを妨げるサタンの勢力と戦う」こととも言えます。主の祈りの最初の「」は複数形ですが、そこには空中の権威を持つ支配者としてのサタンの領域もあります。

そこで、「御名が天(単数)におけるように、地でもあがめられ、御国が、天(単数)におけるように、この地にも実現する」とは、その天と地の間のサタンの領域がなくなることです。

そして、本来の祈りの最後が「悪い者からお救いください」で終わるのは、私たちがこの地でサタンとの戦いに召され、キリストにあって勝利する必要があるからです。

主の祈りは、この不条理と争いに満ちた世界に、神の平和(シャローム)が実現するようにという、壮大な祈りです。これは神の救いみわざの完成を求める祈りでもあります。