マタイ5章33〜48節「天の父の完全を目指して」

2019年12月1日

イエスの時代のイスラエルではローマ帝国からの独立運動が盛んで、現在のアラブのテロリストと同じことをユダヤ人が行なっていました。彼らはイエスが説教した近くの洞穴に隠れ、ゲリラ戦で圧倒的なローマ軍と戦い続けていました。

イエスはその戦いのただ中で、「自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」と言われました。「」とは、「厭な人」ではなく「敵対してくる人」のことです。

しかもその文脈の中で、「あなたがたの天の父が完全であるように、完全でありなさい」と、途方もない命令へと発展します。それは、天の父が悪人にも善人にも太陽を昇らせ、雨を降らせてくださるという姿勢に倣うようにという意味です。それは私たちにとっては、自分を避けている人にも微笑みかけ、またその人が困難の中にあるのを見たなら、必要な助けの手を差し伸べることで、決して不可能な命令ではありません。

これは博愛主義と混同される場合がありますが、聖書では信者どうしの兄弟愛が何よりも大切にされているという文脈の中で、また神がご自身に敵対する者に最終的に裁きを下すという文脈の中で命じられていることですから、意味が異なります。

イエスは何よりも武力闘争を厳しく戒めようとしておられました。そして、敵を愛する」という教えこそ、世界の歴史を変える原動力となったことを私たちは覚えるべきでしょう。

1.「偽って誓ってはならない」から、「決して天にかけて誓ってはいけません」へ

33-37節は「誓い」に関しての教えです。ただし、これは誓いの全面禁止ではありません。誓いを否定したら、結婚式もバプテスマも成り立ちません。これは当時の律法の専門家が「 (ヤハウェ) の御名によって誓う」ことを恐れる余り、別のものを引き合いに出して、自分のことばを信用させようとしたことを非難したものです。

34-36節は「決して誓ってはいけません、天にかけても……地にかけても……エルサレムにかけても……自分の頭にかけても」と続けて訳すべきです。つまり、「誓う」こと自体を排除したのではなく、天とか地とかを指しながら、神の御名を持ち出さないことで、誓いを果たせない時の言い逃れの道を用意するような誓い方を排除したのです。彼らはどんなときにも自分の正当性を主張できる道を見出しました。

それに対し、イエスが、「はい」は「はい」、「いいえ」は「いいえ」としなさいと言われたのは、人から尋ねられた時に何かの誓いのことばで信用させたち、また約束を果たせない時の言い訳を予め言い添えたりしないという意味です。簡潔な返事だけで済まし、あとは神に任せるという態度であるべきなのです。

なお、ロンドンの金融街であるシティで大切にされ、世界中の金融業者で守られている規範に、Dictum Meum Pactum – My Word Is My Bond(私の言葉が証文だ)という原則があります。これは日本語では、「武士に二言はない」とも訳されるとのことですが、私自身も株式や債券の売買で、口頭だけの約束が一度も裏切られたことがありません。数百万円から億単位までのお金が、録音もされない電話約束で動きます。

その後、価格が乱高下しても、その約束が反故にされたことはありません。口約束を守ることができない者は、金融の世界から排除されることが明らかだからです。

ところが、キリスト教世界に入って驚いたことは、洗礼や結婚の誓約から教会奉仕の約束まで、いとも簡単に破られることです。何よりも最初に驚いたのは、神学校に入って、レポートの提出期限を守ることができない神学生が多かったことです。当時の私は、簡単なルールしか守れない人が、どうして教会の指導者になれるのかと呆れていました。

それにしても、キリスト教会の初めには最悪の模範がありました。イエスの一番弟子とも見られていたペテロは、イエスが捕らえられた際、「あなたもガリラヤ人イエスと一緒にいましたね」から始まる三度の質問を受けただけであったのに、三度目は何と、「嘘ならのろわれてもよいと誓い始め、『そんな人は知らない』と言った」と記されています (26:69-74)。これは、もし自分のことばが嘘なら、神の呪いを受けても良いという、当時のユダヤ人としては最大限の誓約のことばでした。

しかし、不思議にも、イエスはペテロがそのようにご自分のことを否認することを知っておられた上で、回復の道を備えていてくださったのです。それ以降のペテロのことばは、「はい」は「はい」、「いいえ」は「いいえ」となったことと思います。

不思議にも、キリスト教会の歴史は、誓約を破った者への「赦し」からすべてが始まっています。私たちは何度でもやり直しができます。そこに福音の核心があります。しかし同時に、決してそれに甘んじてはなりません。イエスは何よりも、守れないときの言い訳ができるような誓い方を非難しておられたのです。

私が学んだ当時の神学校では、経済的に困窮しておられる方が多く、みなアルバイトをしながら、しかもかなりハードな教会奉仕をしながら、必死に学んでいました。

経済的には私は恵まれていましたから、彼らの痛みを十分理解できてはいませんでした。しかし、だれも言い訳をせずに、ただ学ばせてもらえること自体を喜んでいました。約束を果たせない時の言い訳を用意するような人は誰もいませんでした。

約束を守れないことは本当に悪いことですし、他の人に迷惑をかけます。しかし、逃げ道をあらかじめ備えるようなことをするなら聖霊の働く道を閉ざします。私たちはいつでもどこでも真剣に、自分のことばに責任を持つべきですが、同時にそこにおいて自分の弱さを認め、強がることなく、聖霊のみわざに期待する必要があります。

ですから、私たちが教会で誓約をするときには、「神の助けによって約束します」という一言を加えます。これは決して、できなかった時の言い訳の準備ではありません。そこには自分の弱さを自覚しながら、不可能に挑戦しようとする勇気と、聖霊のみわざへの期待が込められています。

2.「目には目を」から「右の頬を打つ者には左の頬も向けなさい」へ

38-42節でイエスは、「『目には目で、歯には歯で』と言われたのをあなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つ者には左の頬も向けなさい、あなたを告訴して下着を取ろうとする者には、上着も取らせなさい。あなたに一ミリオン行くように強いる者がいれば、一緒に二ミリオン行きなさい。求める者には与えなさい。借りようとする者に背を向けてはなりません」と言われます。

ただこれは当時の時代背景を理解することが大切です。

レビ記24章17節以降は、「人間を打ち殺す者は必ず殺されなければならない」から始まり、「人がその同胞に傷を負わせるなら、その人は自分がしたのと同じようにされなければならな」(19節) という同害報復法とも言われる原則が述べられます。

その上で、「骨折には骨折を、目には目を、歯には歯を」(20節) と記されます。ただしこれは裁判規定であり、私的な復讐を許容するものでありません。しかも、その目的は、罪に対する処罰に上限を定め復讐の連鎖を防ぐことにありました。カインの六代目のレメクは「二人の妻を迎えた」ばかりか、「私は一人の男を、私が受けるのために殺す……カインに七倍の復讐があれば、レメクには七十七倍」(創世記4:23、24) と豪語しました。古来、人はより大きな復讐を正当化することで、自分の身を守ろうとしましたが、それを正す必要がありました。

しかもここでは続けて「このさばきは、寄留者であれ、この国に生まれた者であれ、あなたがたには同一である」(22節) という「法の下の平等」の原則が記されます。今から三千数百年前に、驚くほど公平で被害者を保護する裁判規定があったのです。

また、申命記19章20、21節には「ほかの人々も聞いて恐れ、再びこのような悪事をあなたのうちで行うことはないであろう」(19:20) と言われるような共同体的な配慮も記されています。放置された悪は、伝染病のように広がるという面があるからです。

現実の世界では罪とさばきを同害にする原則が犯罪への最大の抑止力になります。もちろん新約の時代、イエス・キリストの十字架はどんな罪をも赦すことができますが、それは「罪を罪と宣告した上で赦す」ことであって、罪に妥協し、力を与えることではありません。

そのような中でイエスが「悪い者に手向かってはいけません……」と言われたことの最大の趣旨は、当時のローマ帝国の暴力に、暴力で応答することを戒めることにありました。それは当時のユダヤ人の過激な独立運動を抑えるという意味がありました。

一見、イエスはモーセと真逆のことを言っているようにも見えますが、暴力や復讐の連鎖を止めて、今ここに平和を生み出すという点では同じ趣旨と言えます。

なおこれを社会制度や日頃の生活に安易に適用することは危険です。たとえば、警察が「悪い者に手向かってはいけません」などということを実践するなら犯罪に歯止めがきかなくなります。

また裁判で、「あなたを告訴……する者には、上着を取らせなさい」と言うなら、法の支配が成り立たなくなります。

また、ビジネスの世界で「求める者には与えなさい。借りようとする者に背を向けてはいけません」ということを実践する者はすぐに破産します。

そればかりか、ふだんの社会生活でも、「あなたの右の頬を打つ者には、左の頬を向ける」ことによって、いじめが加速されることがあります。実際、イエスは、ご自身が捕らえられ、大祭司の尋問を受けたときに、その不当性を訴えました。しかもその際、「平手でイエスを打った」者に対し、別の頬を向ける代わりに、「なぜ、わたしを打つのか」と言い返されました (ヨハネ18:19-23)。

ただし、相手が自分の右の頬を打つ場合には、その人が手の裏でたたくという侮辱でもありますから、「左の頬を向ける」ことは、「たたくなら、きちんと平手打ちにしてよ……」という侮辱への抗議の意味にもなり得ます。

現実の世界では、横暴な権力者や、争い自体を好む人に立ち向かおうとすること自体が、問題をこじらせ、戦いを加速させることになります。戦争は、正義と正義の対立から生まれるのが常ですし、隣人との関係でも、聞く耳のない人に正義を訴えることで、かえって激しい反発を招くということがあります。

それが分かっていても黙っていられない最大の理由は、「これを黙って受け入れるなら、凶暴な悪人が野放しになり、不条理に歯止めが効かなくなる……」と思えるからです。しかし、そのような時こそ、創造主の目は節穴ではなく、ご自身の時に公正なさばきを実現してくださるという神のみわざを信頼すべきです。

神はアブラハムに、「わたしは、あなたを祝福する者を祝福し、あなたを呪う者をのろう」(創世記12:3) と言われましたが、それは今、キリスト者への約束となっています。つまり、「神が私たちの味方であるなら、誰が私たちに敵対できるでしょう」(ローマ8:31) という最終的な勝利を確信できるからこそ、「右の頬を打つ者には左の頬を向け……告訴する者には、上着も取らせ」ることができるのです。

なおここで、「一ミリオン行くように強いる者」とは当時、ローマ軍がユダヤの人々に軍事物資の運搬を約1.5㎞ずつ交代に強要したという現実がある中で、進んで他の人の分まで運ぶという柔軟な姿勢を命じたものです。

当時の過激なユダヤ人たちは、そのようなローマ軍が課す強制労働に次々と反抗し、ついにはローマの大軍を自分の国に引き寄せ、国を滅ぼしてしまいました。

イエスはそれを、神のご支配の中で一時的に起きている不条理として柔軟に受け入れるようにと勧めたのです。そこには、神の最終的なさばきへの信頼がありました。

あなたは様々な不条理に取り囲まれているかもしれませんが、キリストの弟子は、力に力で対抗する代わりに、善をもって悪に打ち勝つ(ローマ12:21) ことが求められます。

主は、あなたの日々の人間関係に関心を持っておられます。愛は愛によってしか生まれません。それは隣人との関係で積み上げられるものです。

この世の不条理をさばくのは神ご自身の責任です。あなたの責任は、「敵を愛する」ことです。

3.「あなたがたの天の父が完全であるように、完全でありなさい」

43、44節でイエスは、「『あなたの隣人を愛し、あなたの敵を憎め』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」と言っておられます。

あなたの隣人を愛しなさい」とはレビ記19章18節を簡略化したものですが、「あなたの敵を憎め」ということばは、旧約のどこにも登場しません。ただ、詩篇139篇21節などに、「 (ヤハウェ) よ 私はあなたを憎む者たちを 憎まないでいられましょうか」とあるような、神の敵を自分の敵として憎むことの勧めとも理解できますが、どちらにしても律法の一つの解釈に過ぎません。

それに対しイエスはまず、「自分の敵を愛しなさい」と言われました。ただこれは「ある人を敵と思ってはいけない」という話でも、「敵を好きになりなさい」という勧めでもありません。

出エジプト記23章5節には、「あなたを憎んでいる者のろばが、重い荷の下敷きになっているのを見た場合、それを見過ごしにせず、必ず彼と一緒に起こしてやらなければならない」と命じられていますが、「それを見過ごしにせず」という部分が以前の訳では、「それを起こしてやりたくなくても」と意訳されていましたが、その方がこの部分の趣旨が明らかになります。

「敵を憎い」と思うのは当然の感情ですが、その気持ちをまず横に置いて、なすべきことを行うのが隣人愛の基本です。もっと身近な例では、「顔を合わせたくない」と思える人がいたとしても、その人に出会ったら無視することなく、あいさつを交わすというのが、隣人愛の基本と言えます。

ただここではさらに進んで、「自分を迫害する者のために祈りなさい」と記されます。これはイエスがご自分を十字架にかけたユダヤ人たちのために、「父よ、彼らをお赦しください。彼らは自分が何をしているのかが分かっていないのです」と祈られた姿勢に倣うべきとの勧めです (ルカ23:34)。

ただし、それもその直前でイエスが、「生木にこのようなことが行われるなら、枯れ木にはいったい何が起こるでしょう」と言われたように (23:32)、ご自身を「生木」、宗教指導者を「枯れ木」と呼んで、彼らに対する神の厳しい裁きを知らせた上での祈りのことばです。

私たちの敵に対する神の厳しい裁きをイメージした上で、「主よ、そこまで厳しく裁いてくださらなくても結構です」と、情状酌量をお願いするという趣旨にも似ていましょう。

45節ではそうすることの目的が、「天におられるあなたがたの父の子どもになるためです」と記されますが、「子ども」とは「息子たち」とも訳せることばで、イエスと同じ神の子の立場に入れられるという特権を指し示しています。

それはイエスが「父よ、彼らをお赦しください」と祈られた姿に倣うことで実現します。

さらにそこでは、「父はご自分の太陽を悪人にも善人にも昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからです。自分を愛してくれる人を愛したとしても、あなたがたに何の報いがあるでしょうか。取税人でも同じことをしているではありませんか。また、自分の兄弟にだけあいさつしたとしても、どれだけまさったことをしたことになるでしょうか。異邦人でも同じことをしているではありませんか」と続けられます (45-47節)。

これは、ある意味で「お返し」としての善行などは誇ることができないという意味です。これは日本では「報恩の心」と呼ばれ、罪人の代表と見られる「やくざ」の方がしっかりと実践しているかも知れません。

キリストの弟子の価値観はそのレベルを超えるべきなのです。それに対し、天の父が太陽を昇らせ、雨を降らせるという働きには、何のお返しもしようがないことで、相手の善悪に関係なく施される恵みのわざです。私たちも同じように、すべての人に微笑みかけ、あいさつをすることが求められます。

興味深いのは、その上でイエスが「ですから、あなたがたの天の父が完全であるように、完全でありなさい」(48節) と言われたことです。

これは私たちが神のような完全無欠さを持つというより、悪人も正しくない者にも区別を付けずに、愛の行為を実践するようにとの勧めで、「愛における完全」を目指すことの勧めです。

ギリシャ語の「完全」には、何の傷も欠けもない完璧さというよりも、「目標に達している」という意味があり、その「目標」とか「基準」は文脈から判断されます。

ルカ6章でも同じようなことが述べられ上で、その36節で、「あなたがたの父があわれみ深いように、あなたがたも、あわれみ深くなりなさい」と記されています。つまり、イエスが求めた「完全さ」は、「神のあわれみ深い」ご性質に倣うことでもあるのです。

18世紀の英国で「キリスト者の完全」という本を記し、全世界のキリスト教会に大きな影響を与えたジョン・ウエスレーという伝道者がいます。彼は多くのキリスト者が「冷淡、怠慢、不信」の状態にとどまり、キリストに似た者へと変えられるという願いも持とうとしない、中途半端な信仰に留まっていることに心を痛め、「全き聖め」を目指すメソジスト運動を展開します。

ジョン・ウェスレー

それが日本では青山学院やホーリネス系の教会へとつながります。彼が何よりも心に留めたのが「完全でありなさい」とのイエスの命令でした。私たちも、ときに自分の成長の遅さに落胆しますが、「変わりようがない……」と諦めては聖霊のみわざを体験できません。

1921年に自由学園を創立した羽仁もと子も、「キリストを信ずるといいながら、私たちも実は自分の都合のために信じているという悲しい発見をすることがたびたびあるのです。神が人類に何を望みたもうか、この世に何を望みたもうか、自分に何を望みたもうか。すべてそこから私たちの希(ねが)いも行動も事業(しごと)も出て行かなければなりません。それは聖書によって明白です。神に似ることを望んでおいでになります」と、自分のたましいの救いのために生きる信仰を批判しながら、神に倣う「完全」を説いています。

羽仁もと子

それに先立って、もと子は、「私たちがキリストによって、絶対に神を愛し、神に従う時に、恩寵によって、この世が神の世になります」とも記しています。

彼女が愛した讃美歌463番では、「ささやかなる 滴(しずく)すら、流れ行けば海となる。細やかなる 真砂(まさご)すら つもりぬれば 山となる……愛の小さきわざすらも、地をば神の国となさん」と歌われています。

私たちができることは限られているかもしれませんが、その瞬間、瞬間に、私たちは「天の父が完全であるように、完全でありなさい」とのみことばに従うとき、この世界に神の平和 (シャローム) が広がって行きます。

真理はあなたがたを自由にします」(ヨハネ8:32) とは、この世的な尺度を超えて、自分を神にささげる自由を示しています。「天の御国」とは、天国といよりは、この地に神のご支配が見えるようになることの願いで、私たちはそれを少しずつでも実現することができます。

私自身は、「完全でありなさい」という命令を息苦しく感じていました。しかしそれは「心の貧しい者は幸いです」と言われた方のことばだと分かり、安心でき、喜びが生まれました。その不可能?を命じたイエスご自身が、私たちに聖霊を与えてくださったからです。

そして、私たちは日々の生活の中で、ほんの少しでも、天の御国の前味を体験し、その広がりをともに喜ぶことができます。愛は広がり行くからです。