ときに「何も変わりはしない……こんな人生に何の意味があるのか……」と、失望する信仰者がいるかもしれません。しかし、ユージン・ピーターソンはベストセラーとなった信仰の旅路に関する詩篇解説書のタイトルを「A Long Obedience in the Same Direction」としました。 “イザヤ7章1節~9章7節「御顔を隠しておられる方への信頼」” の続きを読む
マタイ21章1〜11節「救い主のエルサレム入城」
今から百年余り前にフランスの画家ポール・ゴーギャンは、「われわれはどこから来たのか、われわれは何者か、 われわれはどこへ行くのか」という長いタイトルの大きな絵を描きます。 “マタイ21章1〜11節「救い主のエルサレム入城」” の続きを読む
イザヤ52章1~12節「あなたの神が王となる」
世の多くの人々は、家内安全、商売繁盛や災いを退ける厄払いを願って神社に参拝します。そのような中で、「イエスを救い主と信じることによって、今ここで、何が変わるのですか?」と聞かれたら、どのように答えるでしょう。 “イザヤ52章1~12節「あなたの神が王となる」” の続きを読む
エズラ記9、10章「この世と調子を合わせてはいけません」
2001年3月当時のアフガニスタンを支配していたタリバンは、バーミヤンの巨大な仏像をロケット砲で破壊し、全世界の人々を敵に回し、その後まもなく政権が崩壊しましたが、20年たって復権しました。ただし、支配地の偶像を破壊するように命じた最古の文書こそ聖書なのです。それは特に申命記7章に明確に命じられています (5節)。 “エズラ記9、10章「この世と調子を合わせてはいけません」” の続きを読む
マタイ20章29〜34節「イエスが通り過ぎると聞いて……」
福音書には多くの奇跡的な癒しが描かれます。それらはすべて「天の御国(神の国)が目の前に来た」ことのしるしでした。 “マタイ20章29〜34節「イエスが通り過ぎると聞いて……」” の続きを読む
エペソ4章1〜6節「共同体のうちにある醍醐味」(寺村幸雄神学生)
2021年11月14日(音声のみ)
エズラ7、8章「私たちの神の御手が私たちの上にあって……」
今回の箇所には6回にわたって、「主 (ヤハウェ) の御手」または「神の恵みの御手」の守りが様々な形で表現されています (7:6、9、28、8:18、22、31)。しかも、そこでは「主 (ヤハウェ) の御手」がエズラの上にあったからこそ、ペルシアの王がエズラの働きを全面的に応援し、保護したというように記されています。神の御手による守りと、異教徒の王の保護は、まったく矛盾せずに描かれます。 “エズラ7、8章「私たちの神の御手が私たちの上にあって……」” の続きを読む
マタイ20章17〜28節「皆のしもべ(奴隷)になりなさい?」
キリスト教は奴隷制を擁護してきたと批判されたことがあります。実際、イエスは弟子たちに向かって「皆のしもべ(奴隷:slave)になりなさい」なとど、とんでもないことを命じられました。 “マタイ20章17〜28節「皆のしもべ(奴隷)になりなさい?」” の続きを読む
エズラ4〜7章「神の目が注がれることの幸い」
キリスト教会はときに目に見える慈善事業や社会奉仕に熱心になりすぎ、異教社会の論理に巻き込まれ、信仰の純粋さを失ってきたという面があります。そのような教会はしばしば社会派と呼ばれます。 “エズラ4〜7章「神の目が注がれることの幸い」” の続きを読む
マタイ20章1〜16節「わたしの善が、あなたの目には悪なのか」
多くの人は他者との比較で自分が受けている祝福を測ります。それゆえあまり苦労していない者が特別に祝福されると、それを不公平と思いたくなります。 “マタイ20章1〜16節「わたしの善が、あなたの目には悪なのか」” の続きを読む