平家物語の冒頭では、「おごれる人も久からず、ただ春の夜の夢のごとし。たけき者もついには滅びぬ、ひとえに風の前の塵に同じ」と記され、それによって「驕る平家は久しからず」などと、傲慢の代名詞のように言われています。しかし、平清盛は純粋でナイーブな人間だったという見方もあるようです。 “エステル5、6章「驕るハマンは久しからず」” の続きを読む
Ⅱコリント3章1〜18節「キリストの手紙として」
復活祭から50日目にエルサレムの弟子の集団に「聖霊」が「炎のような舌が分かれ」るように下りました (使徒2:3)。これがペテンテコステ(聖霊降臨日)の由来ですが、そこで起きたことは、使徒たちが遠い地方出身者の言語で少数者に寄り添うようにキリストの復活が証しされたことと、それによって三千人ほどの人がバプテスマを受け、すべてを共有する愛の交わりが生まれたことです。それが現代に続く教会の始まりです。 “Ⅱコリント3章1〜18節「キリストの手紙として」” の続きを読む
マタイ23章1〜15節「モーセの座に着き、天の御国を閉ざす者」
ダビデは「主 (ヤハウェ) の教え(トーラー:律法)は完全で たましい生き返らせ……蜜よりも 蜂の巣のしたたりよりも 甘い」と歌いました。 “マタイ23章1〜15節「モーセの座に着き、天の御国を閉ざす者」” の続きを読む
エステル2章19節~4章17節「もしかすると、このような時のためかも知れない」
エステル記はシンデレラ物語とは違います。人の心の中にはときに、「いつか白馬に乗った王子様が現れて自分を救い出してくれる」というシンデレラ症候群のような憧れがあるとも言われますが、エステルの場合は、途中までは夢が破れた物語です。 “エステル2章19節~4章17節「もしかすると、このような時のためかも知れない」” の続きを読む
創世記22章1〜19節「自分のひとり子を惜しまなかったので」
2022年5月15日 𠮷田真太郎先生(流山福音自由教会副牧師)
エステル記1章1節〜2章18節「神の摂理の御手の中で」
私たちの人生に中には、ときに「何でこんなことになるのか……」と、泣きたくなるようなことが起きます。しかし、それはしばしば、振り返って見ると、神が示してくださった方向転換のときとなってはいないでしょうか。それがクリスチャンの場合は、「みこころだと思って従ったのに……」という解釈に結び付くと、複雑骨折の信仰的な挫折につながる場合があります。しかしそのようなときに密かに、皮肉ですが、「神があなたに天からどんなみこころを指示したというのでしょう……」と、ときに言いたくなるようなこともあります。 “エステル記1章1節〜2章18節「神の摂理の御手の中で」” の続きを読む
マタイ22章34〜46節「あなたにとっての救い主とは、どのような方か」
イエスの時代のパリサイ人たちは、神の御教えを細かく分けて丁寧に研究し、毎日の生活の中で、何が神の御心に叶うことなのか、何が反することなのかを明確にして行きました。それは、もう二度と「主 (ヤハウェ) の怒りを引き起こし」、自分たちが「約束の地」から散らされることがないためでした。 “マタイ22章34〜46節「あなたにとっての救い主とは、どのような方か」” の続きを読む
ネヘミヤ13章「人の心の限界を超える神の救い」
中国のゼロ・コロナ政策やロシアでの言論統制のことが話題になりますが、日本もつい80年前は同じような統制下に置かれていたことを思えば、他人ごととは言えません。 “ネヘミヤ13章「人の心の限界を超える神の救い」” の続きを読む
マタイ22章23〜33節「復活こそ、希望の源」
多くのクリスチャンは、イエスの十字架の贖いによって「罪が赦され」、神との交わりが回復し、このままの私が「神の子」とされたという福音を喜んでいます。それは福音の核心です。 “マタイ22章23〜33節「復活こそ、希望の源」” の続きを読む
マタイ22章15〜22節「あれか、これか、を超えた神の視点」
私たちの世界ではしばしば、明確な対立軸を作りながら人々の心をまとめて権力を掌握し、変革を成し遂げるという手法が用いられます。しかし、根底に争いと憎しみを駆り立てる論理があることは次の問題を生み出す種となります。 “マタイ22章15〜22節「あれか、これか、を超えた神の視点」” の続きを読む