イザヤ1~4章「さあ、私たちも主 (ヤハウェ) の光のうちを歩もう」 

2022年9月18日

ニューヨークの国際連合本部の広場に「イザヤの壁」というモニュメントとがあり、2章4節の「彼らはその剣を鋤(すき)に、その槍(やり)を鎌に打ち直す。国は国に向かって剣を上げず、もう戦うことを学ばない」という聖句が大きく刻まれています。まさにイザヤ書は世界平和を覚える際の鍵の書です。

イザヤの壁

そこでは神の民に対する厳しいさばきの宣告から始まりますが、同時にエルサレムが「平和の都」とされるという終わりの日の預言が繰り返し登場し、このみことばもその一つです。

聖書に記される救いの物語は、そのように主のさばきが新しい創造の希望とセットになっています。苦しみは新しい創造の誕生の場です。そして私たちはその様々な苦難の中で、「私たちも主 (ヤハウェ) の光のうちを歩もう」と告白するのです。

1.「わたしは飽きた、雄羊の全焼のささげ物や、肥えた家畜の脂肪に」

この書は「幻 (Vision)」ということばから始まりますが、この書には神からのビジョンが満ちています。当教会もイザヤ書65章17節の「新しい天と新しい地」をずっとビジョンとして掲げ続けてきました。

イザヤの活動は紀元前740年ごろ没したウジヤ王のときに始まりますが、ウジヤはダビデ王国全盛期の南の領土を回復した有能な王でした。そしてイザヤは、ヒゼキヤ王(687年頃没?)の後継者、悪王マナセのもとでの殉教の死を遂げたと言い伝えられています。その間、ヨタム王の16年間、アハズ王の16年間、ヒゼキヤ王の29年間もの間、預言者として王に助言できる立場にありました。

なお、イザヤという名には、「ヤハウェは救い」という意味が込められています。彼の父のアモツは、王の弟であったとの伝承もあります。とにかくイザヤは王に直接語ることができる貴族の一人であったことは明らかです。なお最後のマナセの時代は、アッシリア帝国が南のエジプトまで支配していた時期で、ユダ王国はその属国として独立をぎりぎりで保つほどに落ちぶれていました。

つまり、イザヤは、国の最盛期から転落し存亡の危機を迎えるという時代背景の中で預言したのです。その意味で、この預言には、成長期から停滞期に入ったと言われる日本経済や教会の現状にそのまま適用できる教えが満ちているとも思われます。

最初に主 (ヤハウェ) は、「聞け、天よ。耳を傾けよ、地よ」と、ご自身の被造世界全体に向かって、「子どもたちはわたしが育てて、大きくした。しかし、彼らはわたしに背いた」と語られます。ここで主はイスラエルをご自身の「子どもたち」と呼びながら、彼らが「牛」や「ろば」にも勝って恩知らずであることを嘆いています (1:2、3)。

さらに、主は彼らを「わたしの民」と呼びながらも、すぐに彼らを「罪深き国、咎重き民、悪を行う者どもの子孫、堕落した子ら」と呼び替え、「彼らは主 (ヤハウェ) を捨て、イスラエルの聖なる方を侮り、背を向けて離れ去った」(1:4) と非難します。

スイスの精神科医だったポール・トゥルニエは、「罪意識の構造」で、多くの人は劣等感と罪意識を混同している、それは「娼婦が失業して客を見つけることができない」ときに感じる感情と同じで、「人間は、自分に(社会的に)課せられた義務を果たすことに失敗するとそのたびに罪意識を経験する」と記しています (p120)。

ただそれは、聖書の語る「罪」とはまったく異なりながら、人間の感情としては区別がつかないと語っています。神は何よりも私たちが神の恵みを忘れ、自分の救い主を侮り、背を向けて歩くことに対して「怒り」を発しておられることを忘れてはなりません。

5、6節で神はイスラエルに対して、「なおも、どうして(どこを)あなたが打たれようとするのか、反抗に反抗を重ねて。頭は残すところなく病み、心臓もすべて弱っている。足の裏から頭まで、健全なところはなく、傷、打ち傷、生傷⋯⋯」と訴えています (1:4–6)。

人は基本的に苦しみに会わない限り自分の生き方の誤りを認めることができません。それで、神は深く心を痛めながらも、彼らを「打つ」ことでご自身に立ち返るように招いています。

ただ8節では、「しかし、娘シオンは残された」という希望が記され、「もしも、万軍の主 (ヤハウェ) が私たちに生き残りの者をわずかでも残されなかったなら、私たちもソドムのようになり、ゴモラと同じになったであろう」と、彼らは天からの硫黄の火で焼かれて滅びた住民と比べられるほどに堕落しきってしまいながら、神のあわれみを受けていると記されています。

ここで「残された」とか「生き残りの者」という表現は、イザヤ書全体で繰り返される鍵のことばで、そこに希望があります。ただ、これがいつの時期を指しているかに関しては異なった解釈があります。どちらにしてもイザヤは、エルサレムが異教徒の国の攻撃によって壊滅的な打撃を受けるということを前提としてこのように語っています。

1章10節からは時代が遡って、エルサレムが繁栄を極めていたときの状態が描かれていると思われます。ここで主はエルサレムをソドムやゴモラと同列に扱い、「聞け、ソドムの首領たちよ⋯⋯耳を傾けよ。ゴモラの民よ」と呼びかけながら、「わたしは飽きた、雄羊の全焼のささげ物や、肥えた家畜の脂肪に⋯⋯もうむなしいささげ物を携えて来るな⋯⋯わたしは耐えられない」(1:10、13) と驚くべきことを言っています。それは、彼らが自分たちの生き方を改めようともせずに、「ささげ物」によって神の好意を勝ち取ろうとしたからです。

さらに驚くべきことに、礼拝を命じられた主ご自身が彼らの例祭を、「それはわたしの重荷となり、それを担うのに疲れ果てた」(1:14) と言われました。なぜなら、「あなたがたの手は血まみれだ」(1:15) とあるように、社会的弱者から搾り取った金でいけにえを献げていたからです。今も昔も、多くの宗教で「敬虔を利得の手段と考える者たち」(Ⅰテモテ6:5) が指導者となっている現実が見られます。

それに対し主 (ヤハウェ) は、「洗え。身を清めよ⋯⋯」と信仰の原点に立ち返るように命じます (1:16)。そして18節で、「さあ、来たれ。論じ合おう」と仰せられます。彼らは、罪の赦しを金で買い取ろうとする態度で神に近づいていましたが、神は、飢えているわけではなく、取引に応じる必要はまったくありません。罪の赦しは、全能の神の一方的なあわれみによって与えられるものです。

そのことが、「たとえ、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとえ、紅(くれない)のように赤くても、羊の毛のようになる。もし、喜んで聞こうとするなら、この地の良い物を食べることができる」(1:18、19) という招きです。

1章21節で、主 (ヤハウェ) はエルサレムを「どうして遊女になったのか、忠実な都が。公正があふれて、義がそこに宿っていたのに。今は人殺しばかりだ」と嘆いています。

そして支配者たちの堕落が、「おまえの君主たちは強情者、盗人の仲間。みな賄賂を愛し、報酬を追い求める。みなしごを正しくさばかず、やもめの訴えも彼らには届かない」と非難されます (1:23)。

さらに24、25節で、主 (ヤハウェ) はエルサレムの指導者を「わたしの敵」と呼びながらさばきを宣告します。

ただその直後の26節では、主は「さばく者たち」や「助言する者たち」を「最初のように回復すると言われ、「その後に、おまえは正義の町、忠実な都と呼ばれる」という主に建て直された町の栄誉が預言されます。

つまり、神がエルサレムを異教徒の国によって苦しめるのは、彼らを精錬し、きよめ、永遠に回復するためなのです。これこそ、旧約で繰り返されるテーマで、その結論が「シオンは公正(さばき)によって贖われる、その町の立ち返る者は義によって」と描かれます (1:27)。ただ同時に、28–31節では主に逆らう者に対する厳しいさばきが宣告されます。

多くの人は神のさばきを最後の審判による天国と地獄で考えますが、預言者イザヤはエルサレムの歴史を通して主のさばきと救いを語ります。主が何よりも怒られるのは、主の恵みを忘れることです。

そして、私たちは多くの場合、この世の人々によって苦しめられますが、それはすべて私たちを聖なる者としてご自身の前に立たせるための訓練です。主との交わりのうちに生きることこそが主のみこころです。

2.「人間に頼るな。鼻で息をする者に」

2章の書き出しは、「ことば、それはイザヤが見たもの」ですが、2–4節は、同時代の預言者ミカの記事とほぼ同じです (ミカ4:1–3)。それは主 (ヤハウェ) が二人の預言者にこれから訪れるエルサレムに対する厳しいさばきとセットで「終わりの日」の希望を語ったものです。

その最初には、「終わりの日にこのようになる。主 (ヤハウェ) の家の山は山々の頂に堅く立てられ⋯⋯そこにすべての国々が流れて来る。多くの民族が来て言う。『さあ上ろう、主 (ヤハウェ) の山、ヤコブの神の家に。主は私たちに教えてくださる、ご自分の道を。私たちは進もう、その道筋を』 それはシオンからみおしえ(律法)が、エルサレムから主 (ヤハウェ) のことばが出るからだと記されています。

これは、イザヤ書の結論の66章18–24節に記されていることの要約とも言えます。それは、主 (ヤハウェ) が創造される「新しい天と新しい地」で実現することです (66:22参照)。

「すべての国々」が「新しいエルサレム」を訪れ、そこで「主 (ヤハウェ) のことば」を聞くようになるというのです。それが歴史のゴールで、そのときに「新しいエルサレム」は「天から降って」きています (黙示21:2)。

それに対する備えとして、「エルサレムから主 (ヤハウェ) のことばが出る」のですが、それがイエス・キリストによって実現しました。キリストの教会はエルサレムから始まり、今、全世界に広がっています。それはすべての国々が「新しいエルサレム」に礼拝に訪れるという礼拝の完成が起きるための準備でもあります。

そのときに実現されることが、「主は国々の間をさばき、多くの民族に判決を下す。彼らはその剣を鋤(すき)に、その槍(やり)を鎌に打ち直し、国は国に向かって剣を上げず、もう戦うことを学ばない」(2:4) と描かれます。これが国連本部広場に刻まれているのは、これこそ「シャローム(平和)」が世界を満たす時で、国連はその実現のために立てられているからです。

ウクライナ国旗は青い空と小麦畑のモチーフですが、そこで戦いの道具が農機具に打ち直される日が来ることを待ち望みましょう。ただそれは主 (ヤハウェ) のことばが広められ、主のご支配がこの地に現わされるときです。福音が広まった結果、戦いが止むという順番を忘れてはなりません。

ドイツの前首相メルケル氏は、長らくロシアのプーチン大統領と会談を重ねてきましたが、寂しそうに、「彼には理屈が通じない。彼は力にしか反応しない、武力の増強は必要だ」という趣旨のことを、ウクライナ戦争後に語っています。理想と現実の両方を見る必要がありましょう。

そのゴールを見させながらイザヤは、「ヤコブの家よ。さあ、私たちも主 (ヤハウェ) の光のうちを歩もう」(2:5) と呼びかけます。これは信仰の歩みの励ましが、常に、最終的なビジョンをともに見ることから始まるからです。

あなたは聖書が歴史のゴールをどのように描いているかを心の目で見ているでしょうか?

ただ不思議にも、その上でイザヤは主に向かって、「それはあなたがあなたの民、ヤコブを捨てられたからです」(2:6) と訴えます。主のビジョンが示される必要があるのは、彼らがそれを忘れ、自業自得で、主のさばきを受けているからです。

そして彼は、主のさばきが正しいことを、彼らが自分たちの富を用いて偶像の神々を拝むようになったからという趣旨で説明します。

さらに、終わりの日のさばきのことが2章11、17節でほとんど同じ表現で繰り返しながら、「その日には、人間の高ぶりの目は低くされ、人々の思い上がりはかがめられ、(ヤハウェ) おひとりだけが高く上げられる」と言われます。

そして18節では「偽りの神々はことごとく消え失せる」とまとめられます。

さらに19、21節でも同じ表現が繰り返され、「主が立ち上がり、地を脅かすとき、人々は主 (ヤハウェ) の恐るべき御顔を、その威光の輝きを避けて、岩の洞穴や、土の穴に入る」と、偶像礼拝のむなしさが訴えられます。

そしてそれと合わせて22節では、「人間 (アダム) に頼るな。鼻で息をする者に。そんな者に、何の値うちがあるか」と結論付けられます。偶像礼拝とこの世の人間の力を恐れることは神の目からは同じことだからです。

世の人々は偶像を神のかたちとして拝んでいました。しかし、キリスト教国では、人間を神のかたちとして拝んでいるとも言われます。私たちも、創造主よりも、人間の信仰の力を見てしまうという落とし穴があることを忘れてはなりません。

3.「わたしは、若い者たち(少年たち)を彼らのつかさとし、気まぐれ者に彼らを治めさせる」

3章1~3節では、「まことに、見よ、万軍の主 (ヤハウェ) 、主はエルサレムとユダから、支えと頼みになるものを除かれる。すべての頼みのパン⋯⋯勇士と戦士、さばき人と預言者、占い師と長老⋯⋯助言者と賢い細工人、巧みにまじないをかける者を」と記されます。

国の指導者と偶像礼拝の指導者が混在して描かれ、主がそれらを退けてエルサレムを廃墟とする計画が述べられます。そして主ご自身がその過程で、「若い者たち(少年たち)を彼らのつかさとし、気まぐれ者に彼らを治めさせる」(3:4) と、ご自身の国を滅ぼすために、指導者にふさわしくない者を敢えて立てられると言われます。

その結果、「民はそれぞれ仲間同士で虐げ合い、若い者は年寄りに向かって尊大にふるまう」と描かれます (3:5)。人間の集まりではしばしば安定的なリーダーシップがないところでは互いに傷つけ合うという混乱が起きます。

3章6、7節では、「そのとき」、指導者に飢えた民が、表面的な「着る物を持っている」というだけの人に向かって、「私たちの首領になってくれ」と叫び、また要請された人も、「私は傷の手当てをする者にはなれない。家にはパンもなく、着る物もない。私を民の首領にはしないでくれ」と「声を張り上げて」その要請を退けると描かれます。

「傷の手当てをする」とは対処療法的な必要に応えるだけで、それで共同体は建ちません(昔の私はそれを誤解していました⋯⋯)。指導者に求められることは、人々に明確なビジョンを示し、一人ひとりが自分に与えられているものを進んで差し出して仕え合うように導くことです。

10、11節では、主の民の中では、正直者がバカを見るような不条理がなくなり、「正しい人は幸いだ⋯⋯悪人はわざわいだ」と、善悪の結果が正しく評価される共同体の姿が描かれています。

それに対し12節では、主から「わが民」と呼ばれる国では、「幼子が虐げる者となり、また女たちが民を治める」という秩序の逆転が起きるというのです。これは4節での「少年が君主となる」ということの言い換えだと思われます。

なお、現代的には「女たちが民を治める」ことに何に異論があろうかとも思いますが、当時の女性たちには独立した人格権が無く、未婚の女性は父親の、結婚した女性は夫の所有物かのように見られ、人々を指導するような教育を受けていなかったという現実があります。

そのような中で、16–26節では、高ぶる女たちへのさばきが描かれます。まず彼女たちの傲慢さが、「シオンの娘たちは高ぶり、首を伸ばし、色目を使って歩き。足に鈴を鳴らしながら小股で歩く」と描かれ、それに対して、「主はシオンの娘たちを頭の頂をかさぶたでおおい、主 (ヤハウェ) は彼女たちの額をむき出しにされる」という辱めが宣告されます。これは当時の女性たちが頭を被り物で覆っていたことを前提に、その隠された部分が顕わにされ、傷つけられるというさばきです。

3章18–23節には当時の高貴な女性たちが身に着けている「もろもろの飾り」が列挙され、主がそれらを「除かれる」と記され、「こうして、芳香は悪臭となり、帯は荒縄、結い上げた髪ははげた頭、豪華な衣装は粗布の腰巻き、その美しさは焼き印となる」(3:24) と描かれます。

そして4章1節では、女たちの絶望の結果、「七人の女が一人の男にすがりついて」、「私たちは自分のパンを食べ、自分の服を着ます。私たちがあなたの名で呼ばれるようにして、恥辱を取り去ってください」と懇願するようすが描かれます。

これは今まで誇り高ぶっていた女たちが、男に経済的な負担をかけない代わりに、自分を多数の妻の一人にしてでも、守って欲しいとと保護を求めるような悲惨を現します。それは、女同士で争いながら国を裏から操っていた状態が終わるという意味かもしれません。

4章2節では、この地が人間の指導者に徹底的に失望を味わった「その日」になって、「主 (ヤハウェ) の若枝は麗しいものとなり、栄光となる」という救い主の現れが預言されます。これは一連の預言書の中での最初のメシヤ預言です。

また、苦しみを潜り抜けた者たちを、「イスラエルの逃れの者」「シオンに残された者、エルサレムに残った者」と呼び、彼らが「みなエルサレムに生きる者として書き記されていると描かれます (4:3)。

これは以前「いのちの書に記された者」と訳され、黙示録で繰り返される表現の先駆けでしょう。これは私たちが苦しみの中で信仰を全うできるのも、肉の力ではなく神の選びによるという告白です。

また4章4節での、主が、「さばきの霊と焼き尽くす霊によって、シオンの娘たちの汚れを洗い落とし、エルサレムの血をその町の中から洗い流す」とは、預言書で初めての聖霊預言とも言えましょう。

4章5節では、「主 (ヤハウェ) は創造される」いう天地創造を思い起こさせることばとともに、主が荒野でイスラエルの民の真ん中に住んで、「昼は雲の柱、夜は火の柱」(出エジ13:21、22) によって民を導いたときの回復が預言されます。

エルサレムが滅びたのは、主の栄光が立ち去ったからですが、その栄光が再び戻ってくるのです。しかもその主の臨在のしるしは、民を覆う「仮庵」となり「昼に暑さを避ける陰となり、嵐と雨から逃れる避け所、また隠れ家になる」と描かれます (4:6)。

先に、主の栄光の現れは、人々をほら穴や岩の割れ目に逃れさせましたが (2:19、21)、ここでは、人を守る陰となり隠れ家となるという変化が見られます。私たちにとっての救い主の現れは、恐れるべきものではなく、安全と喜びと繁栄の回復です。

という社会心理学者は、ナチズムの台頭を、人々が「自由からの逃走」を願った結果であると語りました。実際、ナチスの宣伝相ゲッペルスは、「民衆は上品に支配されること以外なにも望まない」と断言しています。

神は一人ひとりを「神のかたち」に創造し、自分の意思で神を愛し、人を愛することができるようにしましたが、人は、この自由な責任を果たすことを拒否し、偶像と権力者に屈服することを望んだのです。実際、約束の地に導き入れられたイスラエルの民は、神に向かって、自分たちを治める王を求めました。

つまり、神がご自身のさばきとしてリーダーシップを混乱させたというのは、人の奴隷根性の流れるままに任せたということに他なりません。現代の人々も、自由に付随する孤独と不安をもてあまして、何でも断言してくれる宗教指導者を求めています。

しかし、パウロはコリントの自由市民に向かって、「あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。人間の奴隷となってはいけません」(Ⅰコリント7:23) と勧めています。

つまり、「主 (ヤハウェ) の若枝」と呼ばれる預言された救い主は、一人ひとりの心を神に向け、誤ったリーダーシップから解放するためにこの地に来られたとも言うことができます。