マタイ25章1〜13節「さあ、花婿だ。迎えに出なさい」

2022年9月25日

「キリストの再臨」は聖書の根幹にある大切な教えで、それこそ歴史のゴールですが、イエスはそれを当時のエルサレム神殿が跡形もなく崩れ去るときと重ねて話されました。

私たちの人生の中でも、自分にとっての「世界の終わり」と思えるような真夜中の時間が訪れることがあります。しかし、それはキリストの栄光の現れを体験できるときとも言えます。

基本的に人は、自分の人生が順調に進んでいるときにはこの世的な力や能力に頼って生きることができますから、私たちの人生にイエスにある救いが心に迫ってくるのは、自分や友人やこの世界への失望を味わう場合であることが多くなります。

今日の箇所では、真夜中になって寝入ってしまう中で、初めて「さあ、花婿だ。迎えに出なさい」という声を聞きます。それは私たちの人生にとっては、イエスを自分の救い主として迎え入れるときを指しているとも言えましょう。

1.「夜中になって叫ぶ声がした、『見よ、花婿だ、迎えに出なさい』」

25章1、2節は、「天の御国は十人の娘たちと比較されましょう、彼女たちはそれぞれ、ともしびを持って花婿を迎えるために出て行きます。そのうちの五人は愚かで、五人は賢かったのです」と記されています。

当時の結婚式では、花婿が友人に伴ってもらいながら花嫁の家に出向いて花嫁を迎え、ともに結婚式会場に向かいました。その際、花嫁の友がブライドメイドとして花婿の入場の道を照らしますが、そのため「それぞれ、ともしびを持って、花婿を迎えるために出て行きます」。花婿到来の道、または結婚式場に向かう道が、花嫁の友人の「十人の娘たち」によって美しく飾られるのです。

そのような栄光に包まれて花婿が花嫁を娶るためにやって来ます。それは24章37節に述べられていた「人の子の到来(パルーシア)」のときを指しています。

なおイエスは、9章14、15節において、バプテスマのヨハネの弟子たちがイエスのところに来て、「私たちとパリサイ人はたびたび断食をしているのに、なぜあなたの弟子たちは断食をしないのですか」と聞いたときに、花婿に付き添う友人たちは、花婿が一緒にいる間、悲しむことができるでしょうか。しかし、彼らから花婿が取り去られる日が来ます。その日には断食します」と不思議なことを言われました。

これはイエスが「人の子」の姿でイスラエルの現れたのは、「花婿」としての現れであったと述べるものですが、イエスは二千年前の初臨の際も再臨の際も、神の民にとっての「花婿」として現れるということを意味します。

後にパウロはコリント教会の信者たちに向かって、「私はあなたがたを清純な処女として、一人の夫キリストに献げるために婚約させた」と言いました (Ⅱコリント11:2)。キリスト者の群れである教会は、キリストの花嫁として「しみや、しわや、そのようなものが何一つない、聖なるもの、傷のないものとなって栄光の教会」とされる途上にあります (エペソ5:27)。

なお、イエスはご自身の来臨(パルーシア)に関して、「ですから、目を覚まし続けていなさい。あなたがたは知らないのですから、いつの日にあなたがたの主が来られるのかを」(24:42) と警告しておられました。その上で、イエスは、「いったいだれでしょう、忠実で賢いしもべとは。彼を主人はその家のしもべたちの上に任命し、彼らにふさわしいとき(食事時)に食事を彼は与えます」と言われました (24:45)。

ここでの「十人の娘」のたとえは、「いったいだれでしょう。忠実で賢いしもべとは」(24:45) という問いかけの続きと考えられます。なぜなら、25章2節の「愚か」と「賢い」娘の対比での「賢い」はそこでの「賢いしもべ」と同じことばだからです。なお「賢い」とは、「分別がある(気が利く:sensible)」とも訳されることばです。

そしてここでも、その特徴が、愚かな娘たちは、ともしびは持っていたが、油を持って来ていなかった。賢い娘たちは自分のともしびと一緒に、入れ物に油を入れて持っていた」と描かれます (25:3、4)。

「ともしび」を持っていても、補充すべき油を「入れ物」に入れて持っていないというのは、まさに肝心のことに気が利かない状態です。その違いはすぐには見えませんが、時間の経過とともに明らかになります。

そのことが、「花婿が来るのが遅くなったので、娘たちはみな眠くなり寝入ってしまった」と描かれます。この話の結論では、「ですから、目を覚まし(続け)ていなさい」(25:13) と命じられますが、ここでは賢い娘たちを含めて「寝入ってしまった」こと自体は非難されていません。大切なことは「用心している」(24:44) ことです。

その違いが、「ところが夜中になって叫ぶ声がした、『見よ、花婿だ、迎えに出なさい』。そこで娘たちはみな起きた。そして自分のともしびを整えたと記されます (25:6、7)。ここでは、眠っていてもすぐに花婿の到来に準備ができているかどうかが問われています。

ここでの「整える」ということばはギリシャ語でコスメオーと記され、宇宙を意味するコスモスと同じ語源で秩序立てるという意味があります。つまり、娘たちは眠っていても、すぐに花婿を迎えに出る用意がなされているべきだったのです。

なお、「夜中になって」ということばは厳密には「夜の真ん中に (in the middle of the night)」と記されています。それは、夜が深まり、もう花婿は来ないかもしれないという疑いを起こさせる時間です。

しかし、それは、昼が近づいたというしるしでもあります。実際、夜の真ん中を超えると、これから朝が近づくというイメージで神の時を見ることができます。ローマ人への手紙13章11–14節には次のように記されます。

さらにあなたがたは。いまがどのような時であるかを知っています。あなたがたが眠りから覚めるべき時刻が、もう来ているのです。私たちが信じたときよりも、今は救いがもっと私たちに近づいているのですから。 夜は深まり進んで)、昼が近づいて来ました。

ですから私たちは闇のわざを脱ぎ捨て、光の武具を身に着けようではありませんか。

遊興や泥酔、淫乱や好色、争いや妬みの生活ではなく、昼らしい、品位のある生き方をしようではありませんか。主イエス・キリストを着なさい。欲望を満たそうと、肉に心を用いてはいけません。

カトリックとプロテスタントの双方から尊敬されている西暦400年前後に活躍した教父アウグスティヌスは、自分が性的な情欲から自由になれないことに深く悩みながら、「いったい、いつまで、いつまで、あした、また、あしたなのでしょう。どうして、いま、ではないのでしょう。なぜ、いまこのときに、醜い私が終わらないのでしょう」と祈っていました。

そのとき、ふと近くで、子どもが「とれ、よめ、とれ、よめ」と歌っているのが聞こえました。それで聖書を開くとこのローマ書の「遊興と泥酔⋯⋯の生活ではなく⋯⋯主イエス・キリストを着なさい」ということばが迫って、自分の生涯をキリストにささげるという思いで、受洗に導かれます。

これは彼が32歳になっていたときでした。洗礼を受けるとは「主イエス・キリストを着る」ということを意味します。私たちはみな、人生の真夜中と思える時に、『見よ、花婿だ、迎えに出なさい』という声を聞いて、花婿イエスを自分の人生に迎え入れ、キリストを着て歩み出すという回心のときがあるのです。

2.『あなたがたの油を私たちに分けてください、私たちのともしびが消えようとしています』

ところがここで愚かな娘たちの対応が、「愚かな娘たちは賢い娘たちに言った、『あなたがたの油を私たちに分けてください、私たちのともしびが消えようとしていますと描かれます。

愚かな娘たちは「ともしびを整える」という必要に迫られて初めて、自分たちが「入れ物に油を持って」は「いない」ことに気づいたのです。

それに対し、「賢い娘たちは答えた、『いいえ、分けてあげるにはとても足りません。それより、店に行って自分の分を買ってください』と言った」と記されています。これは「賢い娘たち」が意地悪だったのではなく、それこそが現実なのです。

「油」はしばしば聖霊の注ぎの象徴です。ユダヤの宗教指導者とイエスの弟子たちの決定的な違いは、聖霊を受けていたかどうかにありました。その差は、順境の時には見えなくても、やみが支配するときには歴然と明らかになります。

しかも、」は各自が自分の分しか持っていません。たとえば、登山の際には、人の食べ物を持ってあげる親切が仇になることがあるように、一人一人が聖霊を受けているかが問われています。

確かに、世には私たちの及びもつかないほどに人徳のある人は珍しくありません。しかし、主が来られる時、聖霊を受けているかどうかの差は歴然と現われます。自分の人徳の輝きでは役に立ちません。その時に気づいても遅いのです。

その点、今このときに、自分の不足を実感している私たちこそが、最も良い備えができていると言えます。

10節ではその結果が、「そこで娘たちが買いに行くと、その間に花婿が来た。用意ができていた娘たちは彼と一緒に婚礼の祝宴に入り、戸が閉じられた」と記されます。

ここでは、夜中になって店に行って油を買うことができたのかとか、娘たちは油を買いになど行かずに、謝罪して赦してもらえばよかったのではないかなどといろいろ思い巡らしますが、当時の結婚式においては、花嫁の友人のおとめたちが、ともしびを持って道を照らすというのは本当に大切なイヴェントですから、それなしにおとめたちが結婚式に参加することはできませんでした。

そして、結婚式は招待された人だけが参加できますから、花婿の入場とともに祝宴会場の戸は閉められます。

とにかく、彼女たちは結婚式での最も大切な働きができなかった者として、その愚かな過ちを挽回することはできなくなっているのです。すべては、「油の用意」ができていなかったことが原因ですが、そのことに気づいたときには遅すぎたという現実があります。

聖霊が与えられることに関して、ガラテヤ人への手紙3章2–5節で以下のように記されます。

「あなたがたが御霊を受けたのは、律法を行ったからですか、それとも信仰をもって聞いたからですか。あなたがたはそんなにも愚かなのですか。

御霊によって始まったあなたがたが、今、肉によって完成されるというのですか⋯⋯

あなたがたに御霊を与え、あなたがたの間で力あるわざを行われる方は、あなたがたが律法を行ったから、そうなさるのでしょうか。それとも信仰をもって聞いたから、そうなさるのでしょうか」

ここで、「聖霊を受ける」とは、信仰を持ってみことばを聞くということから始まっているということが強調されています。なお、クリスチャンとはすべて聖霊を受けている人を指します。それはみことばに感動してイエスを自分の罪からの救い主として受け入れたということから始まっています。

それは私たちがイエス・キリストの御名によって父かる神に向かって「お父様!」と呼び求めることから始まっています。それは一人ひとりに求められていることであって、だれもその代わりをすることはできません。

私たちは聖霊を受けたときの感動を人生の中で繰り返し味わうことができます。それは、イエスが自分の人生の救い主であることを、霊の目が開かれて納得できた体験と言えます。

ただし、聖書に登場する神の不思議は、ほとんどの場合は一回限りのことです。エジプト軍に追われたイスラエルの民の前の海が二つに分かれたのも、ヨルダン川がせき止められたのも一回限りです。エリコの城壁がイスラエルの民の「ときの声」とともに崩れたのも一回限りのことです。

天からマナが降ってきたのも荒野の四十年間のときだけです。しかし、イスラエルの民はそれらのみわざを記念し、繰り返し思い起こすことで、その体験を後の世代の人々も味わい続けるようにと受け継ぎました。

神の神秘的な救いの体験するのは、人生に一回だけでも良いことかもしれません。要はその体験を深めることです。回心は、あなたの内側から湧きて来たというよりも、夜が更けるという人生の悩みの中で、外から訪れる体験だとも言えましょう。

3.『ご主人様、ご主人様(「主よ。主よ」)、開けてください』⋯⋯『私はあなたがたを知りません』

25章11節では、「賢い娘たち」が「婚礼の祝宴に入り、戸が閉じられた」後のことが「その後で残りの娘たちも来た。『ご主人様、ご主人様(「主よ。主よ」)、開けてください』と言いながら。しかし、彼は答えて言った。『まことにあなたがたに言います。私はあなたがたを知りません』と記されます。

花婿は、花嫁の友人である娘たちが、結婚式での一番大切な働きを、愚かさのためにできなかったことに対して怒っているのです。私たちにも肝心かなめのところで責任を果たせなくなら、その愚かさを非難されましょう。

私たちは、花婿であるイエスは、いつでも私たちの過ちを赦してくださると期待しますが、もう赦しが与えられない時期が来るのです。それは私たちが最後の審判の席に立たされる時でもありますが、同時に、何度も主の招きのことばを聞きながら、それに耳を閉じた結果として起きることでもあります。

この終わりの日の預言は、もともと当時のエルサレム神殿の崩壊の時を第一義的に意識されていました。同じように、あなたの人生が終わるという時になって、悔い改めようと思っても心が動かないという現実があります。

ローマ帝国でキリスト教が広まった時、多くの権力者たちは受洗の時を、死の間際に先延ばしする傾向がありました。心と身体が壮健なときに自由気ままに生きて、最後に悔い改めて洗礼を受け、すべての罪を赦していただけるなら、天国の祝福に預かることができると考えたのです。

しかし、そのように計算で、悔い改めを先延ばししようとする者は、最後まで、主に真の意味で立ち返ることはできません。皮肉にも、その反動で、ローマカトリック教会では幼児洗礼が一般的になって行きます。

これはイエスが「山上の説教」の結論部分で、「わたしに向かって、『主よ。主よ。』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです」(7:21) と言われたことを思い起こさせます。

そこでの「主よ、主よ」とここでの愚かな娘たちの叫びはまったく同じです。しかもその時、自分が主の御名によって「預言し」、「悪霊を追い出し」、「多くの奇跡を行った」と自分の働きを誇る者に対して、主は「わたしはおまえたちを全く知らない。不法を行う者たち、わたしから離れて行け」と言うと、警告しておられたことを思い起させます (7:21、23)。

そこでは、自分を義人と見なしているパリサイ人のような人に対する警告が語られていました。イエスは、父なる神とともに全世界を創造された方です。その創造主が罪人の仲間となられました。「みこころを行う」とは、そのようにご自分を低くされたイエスの生き方に倣うことに他なりません。愚かな人に限って自分を大きく見せようとするものです。

そしてその結論が、ですから、目を覚ましていなさい。その日、その時をあなたがたは知らないからです」と記されます (25:13)。

これは24章36節で、イエスが「ただし、その日、そのときがいつなのかはだれも知りません。天の御使いも子も知りません。ただ父だけが知っておられます」と言ってこられたことを思い起させます。

ですから24章36節から25章13節を一つのまとまりとして見ることができます。

ところで、「賢い娘たち」も居眠りしてはいたのですが、「用意(備え)ができていた」(25:10) とも記されていることを忘れてはなりません。ある修道院では、眠りの途中で深夜に起きる訓練を今も続けているとのことですが、肉体的に「目を覚ましている」ことではなく、眠っていながらも、「霊的な備え」ができていることが大切なのです。

その秘訣は、「絶えず祈りなさい。すべてのことにおいて感謝しなさい⋯⋯御霊を消してはいけません」という勧めを実行することです (Ⅰテサロニケ5:16–19)。私たちが試練に会えば会うほど、本来、私たちの祈りは深くなります。「何をどう祈ったらよいかわからない」ときこそ、御霊ご自身が、ことばにならない深いうめきをもって、とりなしてくださるというときです (ローマ8:26)。

讃美歌作者 は1596年にドイツ西部のウエストファリア州のウンナという小さな町に牧師となりましたが、それから間もなく、その町を恐ろしい疫病が襲いました。彼は1300人以上の人の葬式を上げざるを得ないような悲惨の中で、心を天の神のご支配に向けて黙想していました。

そこで、「花婿の来るのが遅くなった⋯⋯夜中になって、『さあ、花婿だ。迎えに出なさい』と叫ぶ声」を聞くというこの箇所のみことばに慰めを受けました。

彼はアウグスティヌスが記した「神の国」の書に大きな慰めを見出だしましていました。それは、この地上の王国とは別にそれと重なるように神の国、神のご支配がこの地に広がっており、私たちは神の祝福に満ちた世界に招き入れられているという教えです。

その1、2番の歌詞は次のような意味で、これを編曲したJ.S.バッハのオルガン曲がとても有名です (Johann Sebastian Bach – “Wachet auf、 ruft uns die Stimme”、 BWV 645 [Ernst-Erich Stender])。

これは結婚式の入場の際にも、また喫茶店のBGでもよく聞くことができる曲ですが、それが感染症の蔓延の中で、人々が苦しみ嘆き、キリストにある救いを待つただ中で生まれたことを知るべきでしょう。

  1. 「目覚めよ!」という声が私たちに呼びかけられる、
    塔の上から夜警が高らかに、
    エルサレムの都に向かって「目覚めよ!」と。
    真夜中こそがその時となっている。
    明るい声で、賢いおとめはどこにいるのかと問うている。
    喜びなさい。花婿が来られる。
    「起きなさい!ともしびを取りなさい!」
    ハレルヤ 結婚式に向けて準備をしなさい。
    彼を迎えに出なければならない。
  2. シオンは夜警の歌声を聞き、心は喜びに踊る。
    おとめたちは目覚め、急いで支度をする。
    シオンの友は、天から晴れやかに降りてくる、
    あふれる恵みと、力強い真理に満ちた姿で。
    シオンの光は輝き、シオンの明星は今、昇る。
    「さあ来てください!栄光の冠の王よ。」
    主イエス。神の御子よ。ホシアナ(万歳!栄光あれ!)
    私たちはみな喜びの祝宴の広間へとついて行き、
    そこで主の晩餐にあずからせていただこう!