イザヤ5、6章「聞き続けよ。だが悟るな。見続けよ。だが知るな」

2022年10月2日

多くの人は、「主はぶどうの樹、わたしは枝です」(ヨハネ15:5) という賛美に慰めを見出だしますが、その原点にあるイザヤ5章の「ふどう畑の歌」は、恐ろしいほどのさばきの警告に満ちています。その直後に、預言者イザヤが主の栄光を仰ぎ見て、「私を遣わしてください!」と応答するようすが描かれます。しかし、その前後関係を理解すればするほど、そのような招きには応じられないと思うのが人情です。

しかも、今日の最も意味不明な箇所が新約聖書で六回も引用されます。ある意味で「言語明瞭意味不明」というようなメッセージが世界中に広がった結果、現在のキリストの教会があるとも言えます。

聖書に忠実なメッセージはしばしば分かりにくいものですが、人を新たな誕生に導く驚くべき力に満ちています。

私は学生の時に英国の宣教師から英語を習うと同時に福音を聞きました。ある雨の日、僕一人が受講生の時、彼女は熱く、キリストの復活が反証できない事実だと語ってくれました。僕は一言、「僕は理屈では信じません」と答え、それが彼女の支援者たちの祈りの課題になりました。

そして米国に留学中に「信じてみたい」という気持ちが不思議に湧いてきました。種が実を結ぶまでには時が必要です。

1.「わがぶどう畑になすべきことで、何かわたしがしなかったことがあるか」

5章の1~7節は「ぶどう畑の歌」と呼ばれ、三つの福音書に記されるイエスの「ぶどう園と農夫たとえ」のもととなっているものです。

最初は、「わが愛する者のために歌おう、わが愛の歌を、彼のぶどう畑に関しての」と、イザヤが恋の歌の形式を用いながら、イザヤにとっての「愛する者」の葛藤を描いています。

そこでは、「わが愛する者は、ぶどう畑を持っていた、よく肥えた山腹に。彼はそこを掘り起こした。また石を除いた。そしてそこに選び抜いた(良い)ぶどうを植えた。またその中にやぐらを建てた。その中にぶどうの踏み場を掘った。そして(甘い)ぶどうがなるのを心待ちにしていた。ところが、酸いぶどうができてしまった」と記されています。

それはこの人が、ぶどうの収穫を期待して、必要な働きのすべてを終えていたにも関わらず「酸いぶどう」という使い物にならないものができてしまったということです。

そして、3節に至って初めて、イザヤが「わが愛する者」と呼んだのは、イスラエルの神ヤハウェご自身であり、「ぶどう畑」とは「エルサレムの住民とユダの人」であるということが分かります。

イザヤは、主の痛みを歌っているのではないでしょうか。それが、「わがぶどう畑になすべきことで、何かわたしがしなかったことがあるか。なぜ(甘い)ぶどうがなるのを心待ちにしていたのに、酸いぶどうができたのか」(5:4) という「嘆き」です。

それは、主が、なすべきすべてのことをしてくださったのに、期待が裏切られたからです。5、6節ではその嘆きの結果、この畑を捨てる決意をされたと描かれます。その悲しみの決意が、「わたしはその垣を取り払い、荒れすたれるのに任せ⋯⋯滅びるままにしておく」(5:5、6) と記されます。

その上で7節では、「万軍の主 (ヤハウェ) のぶどう畑はイスラエルの家」と呼びながら、そこにご自身の「喜び」としての「ユダの人」を植え、彼らに「公正を望まれた」のに「流血」が、「正義」を望まれたのに「悲鳴」が生まれたと嘆いています。

主が愛情を注いだ畑に、悲しみをもたらす実しか生らなかったのです。

ユダの人々は畑の真の所有者がどなたであるかを忘れて、我が物顔に、所狭しとその畑を占領しています。

しかし、主がその畑を捨てられ結果、「必ず、多くの家は荒れすたれ」、十くびきの牛が必要な広大なぶどう畑からたった一バテ (23ℓ) のぶどう酒しかできず、一ホメル (230ℓ) の種がたった十分の一の一エパ (23ℓ) を産することしかできないというのです (5:9、10)。それは飢餓の時代が来るという意味です。

5章11、12節ではイスラエルの民が酒と享楽に身を委ねると描かれ、その結果、「私の民は捕らえ移される」と将来のバビロン捕囚が示唆され、その理由が「知識がないため」と描かれます (5:13)。

それは申命記28章などに記される「のろい」の誓いを知らないためと言えましょう。そして貴族が飢え、民衆が渇き、「歓声もよみに落ち込む」と描かれます (5:14)。

その結果、「人間 (アダム) はかがめられ、人は低くされる。高ぶる者の目も低くされる。しかし、万軍の主 (ヤハウェ) は、さばきによって高くなり聖なる神は正義によって、自ら聖なることを示される」(5:15、16) と描かれます。

そして、そのときの状態が、「子羊は自分の牧場にいるように草を食べ、肥えた獣は廃墟にとどまって食をとる」(5:17) と描かれますが、これは今までの「家に家を連ね」(5:8) とあった人の住まいが、家畜と野獣の住まいとなるという意味だと思われます。

5章18節の「わざわいだ、嘘を綱として咎を引き寄せる者」とは、イザヤの預言をあざける偽善の宗教指導者のことです。

彼らは、皮肉にも、汗を流しながら一生懸命に、「咎と罪」を自分のもとに引き寄せているばかりか、「イスラエルの聖なる方のご計画が近づいて、成就すればよい。それを知りたい」(5:19) と、自分で主のさばきの日を呼び寄せているというのです。

さらにイザヤは彼らのことを、「わざわいだ。悪を善、善を悪と言う者たち。彼らは闇を光、光を闇とし、苦みを甘み、甘みを苦みとする」と、詭弁を弄して自分を正当化することを非難します (5:20)。

そして彼らの問題を「わざわいだ。自分を知恵のある者とみなし、自分を悟りのある者と思い込む者たち。わざわいだ。酒を飲むことにかけては勇士⋯⋯賄賂のために、悪者を正しいと宣言し、正しい者たちの正しさを退ける」(5:20–23) と非難します。

18-22節では「わざわいだ」ということばが四回に渡って繰り返され、彼らに対する主の「のろい」が宣告されます。

24節では「それゆえ、火の舌が刈り株を焼き尽くし」と、また25節では「このことのゆえに⋯⋯」と若干のことばの使い分けをしながら、「主 (ヤハウェ) の怒りはその民に向かって燃え⋯⋯御怒りは収まらず」(5:25) と宣告されます。

そして、そのさばきの内容が、「主は遠く離れた国に旗を揚げ、地の果てから来るように合図される」(5:26) と記されるように、主ご自身が、神の民の敵と思われる異教の国を用いることによってさばきを実現するというのです。

さらに27–29節ではその異教徒たちの勇猛さや恐ろしさが描かれます。そして30節では、訪れる暗黒の時代のことが、「その日、その民は海のとどろきのように、イスラエルにうなり声を上げる。地を見やると、見よ、闇と苦しみ。光さえ雨雲の中で暗くなる」と描かれます。

2.「ここに私がおります。私を遣わしてください」

6章になって初めて、イザヤの召命が記されます。「ウジヤ王が死んだ年」(6:1) とは、繁栄の時代の終焉を示唆します。

ウジヤはダビデ時代のイスラエル南部の領土を回復し、「彼の名声は遠くにまで広まった」と描かれています (Ⅱ歴代26:15)。しかしその後、成功に酔ってしまって高ぶり、主を礼拝することにおいても自分の思いを押し通そうと、祭司にしか許されていない「香をたこうとして主 (ヤハウェ) の神殿に入り」、主のさばきを受けツァラアトに冒されました (同26:16、19)。それはユダ王国が苦しみの時代に入ることを示すものでもありました。

そしてそのようなとき、それと対照的な「栄光」として、イザヤは、「高くあげられた王座に座しておられる主 (アドナイ) を見た」(6:1) というのです。そして、六つの翼をもつ不思議な生き物、セラフィムたちが主の神殿の上に立っていました。

セラフとは「燃える者」という意味で、その複数形がセラフィムです。「立っていた」とあるのは、主が「御座に座っている」こととの対比表現に過ぎず、実際は、彼らはそこを飛び舞って、互いに、「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主 (ヤハウェ) 。その栄光は全地に満ちる」と叫んでいました。

ここで彼らが「二つの翼で顔を覆っている」と描かれるのは、彼らでさえ主を直接に仰ぎ見ることがないためであり、また「両足を覆っている」のは、身体の下の部分を隠すためだと思われます。

このセラフィムの賛美の声のために、「敷居の基はゆるぎ、宮は煙で満たされた」(6:4) という恐怖が起きました。

そのときイザヤは、「ああ、私は滅んでしまう。この私は唇の汚れた者で、唇の汚れた民の間に住んでいる。万軍の主 (ヤハウェ) である王をこの目で見たのだから」(6:5) と言います。

興味深いのは人間の「汚れ」が「唇」に代表されて描かれることです。ヤコブ3章6節にも、「舌は私たちの諸器官の中にあってからだ全体を汚し、人生の車輪を燃やし」と記されています。イザヤは自分の汚れを深く意識しながら、主 (ヤハウェ) を見てしまったことに深い恐れを抱きます。

すると、セラフィムのひとりが、燃えさかる炭をもって彼の口に触れ、「見よ、これがあなたの唇に触れたので、あなたの咎は取り去られ、あなたの罪も赦された」(6:7) と宣言しました。これは唇の聖別がからだ全体の聖別につながるというのです。

またこれは、今まであったテーマの表れでもあります。そこには、人が、いけにえをささげるという務めを果たすことで聖くされるのではなく、主を恐れる者を主ご自身が聖めてくださるという意味が込められています。

そして、リーダーシップの不在に悩む民のために、主が、「だれを遣わそう。だれがわれわれのために行くだろう」と言っておられる声をイザヤは聞きます (6:8)。

それに対してイザヤは即座に、「ここに私がおります。私を遣わしてください」と応答します。これはイザヤが肉の身体のままで主を見ることができたこと、また自分の唇がきよめられ、罪が贖われたという自覚から生まれた必然的な応答であることを忘れてはなりません。一時の情熱に駆られて、「私を遣わしてください」と応答する人はかえって危ない場合があります。

ここで強調されているのは、応答する側の素直さや熱心さではなく、主の一方的な選びと主の一方的なきよめのわざです。昔、ある人が「あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい」(ローマ12:1) という招きに応答して伝道者に立とうしました。

それを聞いた宣教師がすぐにその直後の「思うべき限度を超えて思い上がってはなりません。むしろ、神が各自に分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深く考えなさい」(同12:3) を引用し、その燃える思いに水をかけてくださったとのことです。そのように言われてもなお、召しの確信が揺るがないことが何よりも大切です。

3.「主よ、いつまでですか」

イザヤに託された主のメッセージは、人間のあらゆる常識を超えていました。それは5章で繰り返された「ぶどう畑」を「滅びるままにしておく」、「必ず、多くの家は荒れすたれ、大きな美しい家々も住む者がいなくなる」「私の民は捕らえ移される」(6、9、13節) という神のさばきの文脈から理解する必要があります。

主はイザヤに「行って、この民に言え」と命じられましたが、その内容は、「聞き続けよ(聞いて、聞け)。だが悟るな。見続けよ(見て、見よ)。だが知るな」(6:9) という矛盾したものです。

その意味不明なメッセージによって、「この民の心を肥え鈍らせ、その耳を遠くし、その目を堅く閉ざせ」というのです。これは、「そんなの聞き飽きた!」といわれる状態を敢えて作り出すためです。

しかも、その目的は、彼らが「その目で見ることも、耳で聞くことも、心で悟ることも、立ち返って癒されることもないように」と説明されます。つまり、彼らが、「私はみことばを注意深く聞いて、自分の力で悟った!」と思うことがない状態を作り出すことです。それによって初めて、5章に描かれた主のさばきが実現することになるからです。

この不思議なみことばは、共観福音書では (マタイ13:14、15、マルコ4:12、ルカ8:10)、すべて種蒔きのたとえにおいて、「天の御国の奥義」が世の人々には理解できない「たとえで話されることの意味を説明するみことばとして引用されます。

マタイ13章11–14節でイエスは、弟子たちに「あなたがたには天の御国の奥義を知ることが許されていますが、あの人たちには許されていません⋯⋯わたしが彼らにたとえで話すのは、彼らが見てはいるが見ず、聞いてはいるが聞かず、悟ることもしないからです。こうしてイザヤの告げた預言が、彼らにいて実現したのです」と言われながらイザヤ6章9、10節を引用され、そのギリシャ語七十人訳が記されます。

ただそこでは同時に、イエスの弟子たちにはその奥義の意味がすでに知らされ、彼らは「百倍⋯⋯六十倍⋯⋯三十倍の実を結ぶ」と約束されています (マタイ13:23)。キリストの教会が今世界に広がっているのはこのみことばの成就です。弟子たちはイエスの召しによってイエスに従い始めたので、奥義が知らされました。ですから、従う気持ちのない人に福音は届かないとも言えます。

ヨハネ福音書12章37、38節では、「イエスがこれほど多くのしるしを彼らの目の前で行われたのに、彼らはイエスを信じなかった。それは預言者イザヤのことばが成就するためであった」と記されます。

そして、「イザヤがこう言ったのは、イエスの栄光を見たからであり、イエスについて語ったのである」とさらに説明されます (同12:41)。

イザヤは苦難のしもべの姿に、救い主の姿を見ました。しかし、多くの人はこの世的な意味での成功者になることを求めているために、十字架にかけられた方を救い主と信じることができません。しかし、「人は低くされる」(イザヤ5:15) ことによってしか、イエスに従うことはできないのです。

ローマ人への手紙11章7、8節ではイスラエルの民がキリストの福音を信じることができなかった理由が、このイザヤ書の要約として、「神は、今日に至るまで、彼らに鈍い心見ない目聞かない耳を与えられた」と記されています。

そして、使徒の働きの最後の場面では、使徒パウロがローマに囚人のような立場で送られながら、自由に福音を語ることができた状況にも関わらず、多くのユダヤ人が信じなかった理由としてこのイザヤのことばが引用されます。

ただそこでパウロは、ユダヤ人たちに向かって、「ですから、承知しておいてください。神のこの救いは、異邦人に送られました。彼らが聞き従うことになります」と述べます (使徒28:28)。

ここでもユダヤ人の「頑なさ」がイザヤの預言の成就であると記されながら、同時に、神の国の福音が異邦人の間で「百倍⋯⋯の実を結ぶ」時代となることが示唆されています。

これらによって、「救い」は、人間の力ではなく、主ご自身の「恵みの選び」(ローマ11:5) によるということが明らかにされます。

宣教に関しての私たちの使命は、結果を出すことではなく、みことばを分かち合うことです。イザヤの働きが、その時代には何の理解も得られず、その労苦は実を結ばなかったのは、主のみこころによって起こっていたことでした。

私は昔、証券営業で苦労しながらそれなりに結果を出していたとき、この同じ情熱で福音宣教に励んだら、教会が急成長するはずと甘い夢を見ていたことがあります。

しかし、実を結ぶかどうかは神の責任であり、委ねられた責任は正しく福音を語ることに他なりません。牧師が説教の準備にどれほどの時間をかけているかを知っていただけるなら幸いです。

それに対しイザヤは、「主よ、いつまでですか」と問います (6:11)。すると主はまず、「町々が荒れ果てて、住む者がなく、家々にも人がいなくなり、土地も荒れ果てて荒れ地となる(そのときまで)」(6:11) と言われます。

これはレビ記26章32、33節などにあった預言が成就することですが、そこには「そのとき地はその安息を享受するという神のご計画がありました (同26:34、43)。これは、七年一年は土地を完全に休ませるように命じられた (同25:2–5)、主の命令を守らなかったことに対するさばきです。

またここでは続けて、「主 (ヤハウェ) が人を遠くに移し、国の中に捨てられた所が増える、そのときまで」と言われますが、これは申命記28章などに預言されていた「のろいの誓い」が成就することで、そこでは「かつて、主 (ヤハウェ) があなたがたを幸せにし⋯⋯増やすことを喜ばれたように、(ヤハウェ) は、あなたがたを滅ぼし、根絶やしにすることを喜ばれる……主 (ヤハウェ) は地の果てから地の果てまでのあらゆる民の間にあなたを散らす⋯⋯主 (ヤハウェ) はそこで、あなたの心を不安にし、目を衰えさせ、たましいを弱らせる(63–65節) と驚くべきことが警告されていました。

それによって彼らは神を恐れることを、体験を通して学ぶようになるのです。確かに一方で、イザヤは神の最終的な救いの完成を預言し続けますが、それは警告されていた神のさばきが成就して初めて実現することでした。そして、イエスの十字架は、その神のさばきが全うされたことを意味します。

それは「キリストは、ご自分が私たちのためにのろわれた者となることで、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました」(ガラテヤ3:13) と記されているとおりです。それによって、私たちは祝福の時代に招き入れていただくことができたのです。

イザヤの預言は、イエスの十字架と復活を通して初めて本当の意味で理解できるもので、それを深く味わいたいものです。

「そこには、なお十分の一が残るが、それさえも焼き払われる」(6:13) とは、アッシリヤ帝国によって北王国の十部族が滅ぼされ、南のユダ王国しか残らない状況と、しかも、そのユダの地も後のバビロン帝国によって滅ぼされることを指しています。

しかし、ここでそれは、「焼き払われる」と表現され、これが「火によるきよめ」のわざであることが示唆されています。

しかも、そこには、「切り倒されたテレビンや樫の木のように、それらの間に切り株が残る」(6:13) と記されます。これらの木は、切り株から新しい芽を育てる力があります。そこで、「この切り株こそ、聖なる裔(すえ)」と記され、救い主の誕生が示唆されます。

主がイザヤに与えた逆説的なメッセージを見て、私は、「放蕩息子のたとえ」を思い起こしました。父は弟息子に愛のことばを語り続けたことでしょう。しかし、息子はその意味を知ろうともしなかったばかりか、父親が生きているというのに財産の分与を要求しました。

父は悲しみながらそれに応じました。それは、この息子が苦しみを通してしか、父の家にあった祝福に気づくことがないとわかっていたからです。父は首を長くして息子が自分の心で気づき帰って来るのを待っていました。

失ってみなければ分からない恵みがあります。ただ、そのときになって息子が父のもとに帰ってくることができたのは、それ以前に父の語りかけを「耳にたこができる」ほどに聞いていたからではないでしょうか。

挫折を通して回心できるためには、聞く耳のない人になお、「聞き続けよ」と語り続ける必要があります。ユダヤ人が、バビロン捕囚の苦しみを通して、自分たちの神に失望する代わりに、神に立ち返ることができたのは、その苦しみが主の御手の中にあって起こったものであることを知ることができたからです。

イザヤのメッセージは、バビロン捕囚というイスラエルの断末魔の苦難を通して生きて働くようになりました。苦しんで謙遜にされた者にとってこれほど希望に満ちた福音はありません。

種蒔きのたとえとセットに語られた「心を頑なにするメッセージ」の背後には百倍の実を結ぶ福音の力が隠されていました。