罪とは自分を神とすること

束の間の冷房も暖房もいらない季節を過ごしていますが、皆さま、いかがお過ごしでしょうか。毎週、いろんなことが起きています。

何よりも心が痛むのは、ウクライナでのロシア占領地域での住民投票を受けてのロシア併合という動きです。
 
しばしば、国家指導者が妄想の歴史観によって戦争を引き起こすということがありました。プーチン大統領の場合は イヴァン・イリリンという亡霊のような国家主義的な歴史観の著作を読みふけって、陰謀史観にのめり込み、昨年は、プーチン氏自らが「ロシア人とウクライナ人の歴史的一体性」という論文をロシア語とウクライナ語で発表したということがあったようです。

実際、ウクライナ侵攻が始まる少し前の2月8日にフランスのマクロン大統領がモスクワを訪れ、5時間にも及ぶ対面の会談を、長いテーブルを隔てて行ったということが今年初めに話題になりました。

その際、マクロン大統領は、「プーチンの話しはイデオロギーと歴史が中心であった」と明かしています。

今回の占領地域併合に関する演説でも、「ウクライナ」という国家名の代わりに、「キーウ」という呼び方をしています。

2008年にプーチン大統領は、米国のブッシュ元大統領に向かって、「ウクライナは本当の国ではない」と語ったと伝えられています。

実際、プーチン氏は何度も、現在のウクライナという国家の成立は、ロシア革命の際の革命指導者レーニンが犯した最大の誤りであったと述べています。ウクライナに住む人々からしたら、とんでもない妄言です。彼らがロシアやポーランドの支配から脱するためにどれだけの血を流したかということを真っ向から無視しています。

聖書によると、最初の罪とは、エデンの園で禁断の木の実を食べる理由が、以下のような蛇の誘惑のことばにあったと記されています

それを食べるそのとき、目が開かれて、あなたがたが神にようになって善悪を知る者となる (創世記3:5)

そのとき人は、「その木は賢くししてくれそうで、好ましかった」と思ったと描かれています。さらに、木の実を食べた人に関して、主は「見よ、人はわれわれのうちのひとりのようになり、善悪を知るようになった」と言っておられます (創世記3:22)。
 
つまり、禁断の木の実を取って食べることによって、人は自分を神の立場に置き、自分を善悪の基準とすることになったのです

それ以来、この社会では、自分の正当性を強力に主張できる人が権力を握るようになってゆきます。
 
先日も、小金井市で公立保育園の廃園をめぐって、保護者や住民の訴えに耳を傾けてきた市議会を機能不全かのように見て、市長が専決処分を下して、廃園を通知したということが身近な人の心を激しく痛めることになっていました。(僕は実態が分からない面がありますが、その信頼できる方が、本当に本当に心を痛めている⋯⋯という現実に、心が揺さぶられています)。小金井の市議から市長になった方は、ご自分こそが実情を一番よく知っていると思っておられ、苦渋の決断をしたということのようです。

専決処分というのは、「議会において、議決すべきことを議決しないとき」に地方公共団体の首長ができる決断のようですが、議会制民主主義のなかで、首長が議会を機能不全と判断するということに首をかしげざるを得ません。今、それが多くの住民の心を本当に痛めています。

聖書が語る罪の根本とは、自分を神の立場に置き、自分の判断を絶対化することにある⋯⋯ということを私たちは心に留める必要があります。

もちろん、このようなことを書いている私自身がほんとうに限られた情報の中で自分の価値判断を絶対化している可能性があります。それに対して、私たちは互いに、柔和な心を持って、愛によって、互いの思い込みを正し合うことができます。

そして、そのような批判に謙遜に耳を傾けることこそ、キリストに倣った生き方と言えます。