箴言30章「知るべきことを知らず、欲望と怒りを制御できない危なさ」

2022年8月14日

77年前の米国による二つの原爆の投下は、決して許すことのできない暴挙ですが、そのころソ連のスターリンは北海道占領計画を立てていたということが明らかにされています。「原爆がソ連の侵攻を阻んだ……」と言われると、本当に複雑なやるせない気持ちになります。

今日の箴言の要約を「知るべきことを知らず、欲望と怒りを制御できない危なさ」としましたが、人間の性質は三千年前から成長してはいません。平和を保ち、広げるためには、人間の「危なさ」を直視し、それに備える必要もありましょう。

1.「私はまだ知恵も学ばず、聖なる方の知識を持っていない」

箴言30章、31章はそれまでの箴言のことばと著者も文体も異なり、箴言集の付録のように見られることがあります。ただ、とっても示唆に富むことばなので聖典に含まれてきたと考えられます。

1節は原文の語順では、「ことば、アグルの、ヤケの子の、マサの(託宣)、ことば、その人の、イティエルに(疲れた、神よ)、イティエル(疲れた、神よ)、ウカルに(呑み尽くされる)」と記されています。「マサ」とはイシュマエルの子孫の地名とも、「託宣」とも訳すことができます。

ですから新改訳の伝統では、「マサの人、ヤケの子アグルのことば、イティエルに告げ、イティエルとウカルに告げたことば」と訳されます。それはイティエルとウカルをアグルの二人の息子と解釈するからです。

一方、聖書協会共同訳では、「ヤケの子、アグルのことば、託宣。その人は言う。神よ、私は疲れた。神よ、私は疲れた。呑み尽くされてしまいそうだ」と訳されます。それはアグルが自分の疲労感、絶望感を告白したという意味です。

同じヘブル語テキストがこれほど違った翻訳になるのは珍しいですが、それは聖書に人間的な合理的な解釈を加えず、理解し難いことばは、理解し難いまま残すというのが聖典を尊重することになるからです。

それにしても2節の初めは、「まことに」というより「なぜなら」と訳す方が自然とも言えますので、その前のことばを共同訳のように訳し、ここでは「アグル」という「人」の「託宣」の「ことば」として、「神よ、私は疲れた。神よ、私は疲れた。呑み尽くされてしまいそうだ。なぜなら、この私は人としては愚かすぎて、私には人間(アダム)の分別がないのだから」と記されているとも解釈できます(ESV、NIV、NRS訳も同様)。

そして続けて、アグルは「私はまだ知恵も学ばず、聖なる方の知識を持っていない」(3節) と告白します。そしてその内容は4節で記されますが、それはヨブ記38章で、主 (ヤハウェ) がヨブに次のように語りかけたことばに似ています。

「主 (ヤハウェ) は嵐の中からヨブに答えられた。知識もなしに言い分を述べて、摂理を暗くするこの者はだれか……わたしが地の基を定めたとき、あなたはどこにいたのか。分かっているなら告げてみよ。だれがその大きさを定めたのかを、あなたは知っているはずだ、だれがその上に測り縄を張ったのかを……」(2–5節原文に合わせて一部語順変更)と記されていました。

これはどの人間も持つべき知恵や知識を、本当は持っていないという意味になります。このヨブ記の文脈を前提として4節は、四回の「だれが」を中心に、だれが天に上り、また降りてきたのか。だれが風を両手のひらに集めたのか。だれが水を衣のうちに包んだのか。だれが地のすべての限界を堅く定めたのか」と問いかけます。

これはイスラエルの神ヤハウェ以外には不可能なことということが明らかなので、「その名は何か、その子の名は何か。あなたは確かに知っている」と記されます。

ただ、ここで「その子の名」と、創造主に子がいると示唆されているのは不思議です。これは箴言8章22–31節で、神の「知恵」が人格化されて父なる神とともに世界を創造しておられたと記されていることを示唆するとも、クリスチャン的には受肉前の神の子キリストを指すとも解釈できます。ただ当時の文脈では、「その名を知る」ことと、「その子の名を知る」ということはセットのことで、人知を超えた神の創造のみわざは、神からの特別な啓示がなければ知り得ないということの表現として理解すべきでしょう。

今から三千年前の世界では、神々は天から生まれるか、風から生まれるか、水から生まれるかなどと創造されているのが一般的でした。それに対し、聖書は明確に、創造主が最初におられ、天や風や水や地のすべてを定めたと告白しています。

ですから、この「だれが」という問いに対する答えを知っていること自体が、神のわざと言えます。

そしてそれを受けて、「神のことばは、すべて精錬されている。神は、ご自分に身を避ける者の盾。神のことばに付け足しをしてはならない。神があなたを責めて、あなたが偽り者とされないために」(5、6節) と記されます。

多くの人々は、自分のイメージの中で理想的な神を作り上げ、その基準によって、「旧約聖書の神は残酷だ!」などと評価します。しかし、神の啓示がなければ人間は創造主の概念を持つことすらできませんでした。

しかも、神はそれぞれの時代にその時代の人々の理解できる知識や価値観に合わせてご自身の救いのみわざを啓示されます。私たちがイエス・キリストの啓示をもとにイスラエルのカナン侵入のできごとの価値を計るというのではなく、ヨシュア記の時代の限界の中からイエス新しいヨシュア)にある救いを見る必要があります。

新約の福音は旧約の民から見たら「許されない付け足し」と見えるかもしれませんが、それは旧約の預言の成就であって、神に関しての付け足しの教えではないということを理解する必要があります。

もちろん、現在の六十六巻の聖書に対する付け足しはみな異端の教えとされます。その点で、統一協会、モルモン教、エホバの証人の教えは誤ったものと理解すべきです。

2.「二つのことをあなたにお願いします。私が死なないうちに、それをかなえてください」

7節では突然、「二つのことをあなたにお願いします。私が死なないうちに、それをかなえてください」という、生きている中での切実な願いが記されます。

その第一は、「むなしい(無価値な、惑わしの)ことと偽りのことばを、私から遠ざけてください」というものです。

たとえば使徒パウロは後継者のテモテに向かって、「果てしない作り話と系図に心を寄せたりしないように命じなさい。そのようなものは、議論を引き起こすだけで、神に委ねられた信仰の務めを実現させることにはなりません。この命令が目指す目標は、きよい心健全な良心偽りのない信仰から生まれる愛です」と記しています (Ⅰテモテ1:1:4、5)。

これはたとえば現在の神学的な議論の中で、聖書の系図の年数を合計して地球が生まれたのは何年前かとか、預言書の記述を見ながらキリストの再臨の場所や姿はどうなるかを激しく主張し合うことに似ているのかもしれません。

しかし、それが日々の信仰生活に結び付かないなら、空しい議論とも言えましょう。

また、ヤコブ4章14、15節には、「あなたがたには、明日のことは分かりません。あなたがたのいのちとは、どのようなものでしょうか。あなたがたは、しばらくの間現れて、それで消えてしまう霧です。あなたがたはむしろ、『主のみこころであれば、私たちは生きて、このこと、あるいはあのことをしよう』と言うべきです」と記されます。

ところが「むなしいここと、偽りのことば」は、未来のことが分かるようなことを述べます。

その上で二つ目の願いが、「貧しさも富も私に与えず、ただ、私に与えられた分の食物で私を養ってください。私が満腹してあなたを否み、『主 (ヤハウェ) とはだれだ』と言わないように。また、私が貧しくなって盗みをし、私の神の御名を汚すことがないように」と記されます (8、9節)。

ここには、富むことの落とし穴と同時に、貧しいことの落とし穴が、とっても現実的な表現で描かれています。

私たちはすべての必要が満たされることで、創造主を忘れることがあります。それが現代の病かもしれません。主 (ヤハウェ) はイスラエルが約束の地に入れられて満ち足りるようになるときの誘惑を、「あなたが食べて満ち足り、立派な家を建てて住み……所有物がみな豊かになって、あなたの心が高ぶり、あなたの神、(ヤハウェ) を忘れることがないように」と命じていました (申命記8:12–14)。

さらに、荒野の四十年の欠乏生活の中で、天からのマナで養った目的を、「それは、あなたを苦しめ、あなたを試し、ついにはあなたを幸せにするためだったのである。あなたは心のうちで、『私の力、私の手の力がこの富を築き上げたのだ』と言わないように気をつけなさい」と言われました (同8:16、17)。

ただイスラエルはこの警告にあるように、約束の地に入ってすべての必要が満たされた時、自分たちを導いてくださった主 (ヤハウェ) を忘れてさばきを受けることになります。

イエスはその公生涯の初めに荒野の誘惑を受け、空腹を覚え、石をパンに変えるように悪魔の誘惑を受けたときに、この同じ申命記8章3節のみことばを引用して、「人はパンだけで生きるのではなく、人は主 (ヤハウェ) の御口から出るすべてのことばで生きる」とお答えになりました (マタイ4:4)。

そしてイエスは、私たちに主の祈りを教えられましたが、そこでは「私たちの日毎の糧を、今日もお与えください」と、毎日祈るようにと命じられました。私たちは世界中の主にある交わりを意識しながら、日々の糧を、今日一日分与えられるようにと祈るべきなのです。それは乏しすぎることも豊か過ぎることもないように、一瞬一瞬、主に信頼して歩むようにという勧めでした。

適度に必要が満たされることこそが幸せの鍵となりますが、そこでは「私たち」の交わりを、貧しい人にまで広げるという分かち合いの精神が問われています。

10節の「しもべのことを、その主人に中傷してはならない」ということばは、「しもべ(奴隷)」の人格権を尊重したことばで、「気づいたことは本人に直接に言うように……」という勧めと理解できます。

後半の「そうでないと彼は」の「彼」とは「しもべ」のことで、「あなたをののしり、あなたは罰を受けることになる」と記されます。ここには、主ご自身が「しもべ」の訴えを真実に聞いてくださるという前提があります。

11–14節は、現代の問題にそのまま適用できると言えましょう。それぞれの節の最初のことばは「世代」ということばで、四回続きます。

「自分の父をののしり、自分の母をたたえない世代とは、親に対する感謝や尊敬が欠けている時代です。

そのような人が続けて、「自分をきよいと見るが、汚物を洗い落とさない世代」と描かれます (12節)。それは自分を絶対化しながら、自分自身から出ている汚れには気を留めようともしないという身勝手な生き方を指しています。なお、自分の汚物は人の目から隠すことができますから、それを前提にイエスは、パリサイ人を「白く塗った墓」と呼びながら、「外側は美しく見えても、内側は死人の骨やあらゆる汚れでいっぱいだ」と言ったとも考えられます (マタイ23:27)。

それがさらに、「なんとも、その目が高ぶり、まぶたが上がっている世代と描かれます (13節)。ここでの「まぶたが上がっている」とは、軽蔑の眼差しを意味します。それは他の人を見下した姿勢で、ルカによる福音書でパリサイ人が取税人を意識しながら、「神よ。私がほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦淫する者でないこと、あるいは、この取税人のようでないことを感謝します」と祈った姿が描かれています (18:11)。

さらに14節は、「歯が剣、牙が短刀の世代、それは地の苦しむ者を、人々の貧しい者を食い尽くすためだ」と訳すことができます。彼らは地の弱い人々を迫害し、食い尽くすことしか考えていません。

11–14節で描かれている「世代」とは、すべて、自分の知恵や力を誇り、他の人々を見下し虐げる人々を指します。

それは9節の「満腹してあなたを否み、『主 (ヤハウェ) とはだれだ』と言う」ような人々を指します。彼らは、「心のうちで、『私の力、私の手の力がこの富を築き上げたのだ』と言わないように気をつけなさい」と言われたことを (申命記8:17) すっかり忘れてしまった「世代」です。

現在、市場経済を尊重する経済体制が、弱肉強食の「新自由主義」と呼ばれて非難されがちですが、もともとその前提には、この世の成功者には、主を恐れ、貧しい人々にあわれみの手を差し伸べるという責任が課せられていました。または神の代理としての政府には、貧富の格差を是正するという政策が期待されていました。

聖書はこの世の成功者に社会的な責任を負わせ、それに応じない人にさばきを下すという前提で記されます。とにかく、神はいつもこの世の虐げられている人の味方であり、彼らを迫害する者は神の敵とされます。

3.「飽くことを知らないもの」「知恵者中の知恵者」「怒りをかき回すと争いが出て来る」

15節は、「蛭(ひる)には二人の娘がいて、『くれ、くれ』という」と記されます。ここに描かれた蛭にもいろんな種類がありますが、ここに描かれた蛭とは、身体の前後に吸盤を持ち、他の動物に寄生して、その血を吸って生きる3–10センチの生き物を指しますが、聖書中、ここにしか登場しない動物です。

なお、「二人の娘」と記されるのは、続いて「飽くことを知らないものが三つある。いや四つあって、『もう十分だ』と言わない」と記されるように、二、三、四という数字の増加に意味があり、どこまで行っても「もう十分だ」と言わない状態を指します。

そこでは、死人を吸い込む「よみ」、子どもを待ち望む「不妊の胎」、「水に飽くことを知らない地」「『もう十分だ』と言わない火」という四つが描かれますが (16節)、三番目と四番目に登場する「飽くことを知らない」「もう十分だ」ということばは15節と同じです。

つまり、ここには終わりのない欲望に駆られる、創造主を知らない者の人生が描かれていると言えましょう。

17節の原文は、「目」(単数形)ということばから始まり、それが「自分の父を嘲る」また、「母への従順を蔑む」ところの「目」として説明されます。

それが「谷の烏にえぐり取られ、鷲の子に食われる」という痛ましい表現は、死体がさらし者にされて鳥に食べられることで、神の厳しいさばきを描いたものです。

18節は、「私にとって不思議なことが三つある。いや四つあって、私は知らない」と記されますが、19節に描かれる最初の三つの「道」としての、「天にある鷲の道」「岩の上にある蛇の道」「海の真ん中にある船の道」に共通するのは、」の「」が見えないということです。

それに続いて四つ目の「おとめへの男の道」が記されますが、これも他人の目には隠されている道です。そしてこれがすぐに「姦淫する女の道もそのとおり」と言い換えられます。姦淫は石打ちの刑になりますから、当事者は徹底的にその跡が見えないようにと証拠を消そうとします。

その姿が、「彼女は食べて口をぬぐい、『私は不法を行わなかった』と言う」と描かれます (20節)。ここでは「性的交わり」が「食べる」ことに例えられながら、欲望に駆り立てられ、その証拠を消して知らないふりをするという典型的な罪のかたちとして描かれます。

21–23節の表現はなかなか理解し難いものです。それは、「地は、三つの状態の下で震える。いや、四つの状態の下で耐えられない。奴隷という状態の者が王となること、また愚か者がパンに満ち足り、嫌われた女という状態の者が夫を得ること、女奴隷が女主人の座を継ぐこと」と訳すことができます。

現代的には、何の問題があるのかと思いますが、当時の感覚としては、奴隷状態下の者が王となると王の責任を忘れて横暴な振る舞いをする、愚か者はすぐにパンを食い尽くす、嫌われた女という状態下にあった女は、夫にへつらうばかりで健全な夫婦関係を築くことができない、女奴隷が女主人の座を引き継いでもその立場にふさわしい振る舞いをすることができないという意味だと思われます。

これは現在でも、何の訓練も準備もない者が急に指導者の立場に立てられることの危なさを指すとも言えます。

24節は、「この地上には小さいものが四つある。それは知恵者中の知恵者だ」と記されます。

そして四つの小さな生き物の賢さが、「蟻は力のないものたちだが、夏のうちに食料を確保する。岩だぬきは強くないものたちだが、その巣を岩間に設ける。いなごには王がいないが、みな隊を組んで出陣する。やもりは手で捕まえられるが、王の宮殿にいる」と描かれます (25–28節)。

これらはすべて、それぞれの弱さを補う力が与えられています。それは私たちにも言えることです。神は私たちに様々な弱さを与えておられますが、同時に、それを補う力が与えられています。それがその人の特徴を現します。

29節は、「歩きぶりの堂々としたものが三つある。いや、堂々と歩くものが四つある」とまず記されます。その上で、「獣の中で最も強く、何からも逃げない雄獅子、誇らしげに歩くおんどりと雄やぎ、軍隊を引き連れた王」と描かれます(30、31節)。

「雄獅子」が「堂々と歩く」ことには何の疑問もありませんが、「おんどりと雄やぎ」には、強がりという面が見られましょう。

そして、「軍隊を引き連れた王」に関しては、何よりも「軍隊」としてのまとまりとか戦意が問われています。烏合の衆のような軍隊は、まさに「おんどりや雄やぎ」のような見せかけの迫力しかありません。

しかしそれでも、王に逆らうと人は自分の命を守ることができません。そのことが32節で、「もし、あなたが高ぶって、愚かなことをしたり、企んだりしたら、手を口に当てよ」と警告されます。それは、自分の思いを口に出すことの危なさを指摘したものです。

その上で、「乳をかき回す(絞る)と凝乳(バター)が出て来る。鼻をねじる(絞る)と血が出て来る。怒りをかき回す(絞る)と争いが出て来る」と韻を踏んだ表現が描かれます (33節)。

なお、「怒り」ということばは「鼻」ということばから派生しており、ここでは「絞る」「出て来る」ということばを重ねることを含め、ことば遊びのような技法が見られます。

なお、「絞る」働きから凝乳(バター)という良いものも生まれますが、怒りをため込んで圧力をかけると「争い」を生み出し、それは王の軍隊さえをも破滅に導きます。怒りの感情のコントロールは、人と人との協力関係を築く上で何よりも大切であるということが示唆されているのです。

著者のアグルは、「私はまだ知恵も学ばず、聖なる方の知識を持っていない」という告白から始めます。それは、神がヨブに指摘したことに通じます。私たちの信仰とはこのような告白から始まるべきでしょう。

そして彼の切なる望みとしての「貧しさも富も私に与えず、ただ、私に与えられた分の食物で私を養ってください」とは何と美しい表現でしょう。

さらに父母を尊敬しない世代のことが、「歯が剣、牙が短刀の世代、それは地の苦しむ者を、人々の貧しい者を食い尽くすためだ」とも描かれます。

さらにその姿が蛭にたとえられ、「飽くことを知らない」「もう十分だ」と言わない欲望に駆り立てられる世代と描かれますが、これはまさに現代の問題で、人間の本質が成長していないことがよく分かります。

それから見ると、「蟻」とか「いなご」の方が賢いと見える面があります。

そして、最後は「怒り」の感情のコントロールの大切さが描かれます。科学技術の進歩に合わせて人間性が進歩すればよいのですが、大量破壊兵器を作る知識ばかりが進んで、真の知恵は増していません。欲望と怒りの制御こそが平和の鍵と言えましょう。