いかがお過ごしでしょうか?なかなか先が見えませんが、実は3月の時点では「母の日」あたりには状況が変わっているはずと期待していました。それが北海道の母を訪ねることも叶わなくなり、ひたすら本を書き続けている毎日になっています。 “「慈しみ深き友なる」〜詩篇40篇” の続きを読む
How excellent your name〜詩篇8編
適度な散歩がとっても心地よい季節です。いかがお過ごしでしょうか?
詩篇8篇は詩篇の中の詩篇とも言われ、これを思い巡らすことの中には、ふさぎ込んでいる心を広げる大きな力があります。まずそれぞれのことばを味わっていただければ幸いです。例によって、私訳で失礼します。 “How excellent your name〜詩篇8編” の続きを読む
「日を数えることを教えてください」という歌〜詩篇90篇
外出自粛規制があと一カ月延長されるということに心が揺れている方も多いと思います。ドイツでは一昨日、メルケル首相が、キリスト教会の協力に感謝しつつ、集まって礼拝することを始めてくださいと語っていました。それぞれの国の対応に違いがあるのは当然ですが、正解は見えない中で必死に考えている指導者たちのためにお祈りして行きたいと思わされました。 “「日を数えることを教えてください」という歌〜詩篇90篇” の続きを読む
Al Kol eleh(これらすべての上に)〜詩篇126篇
去る4月29日はイスラエル共和国の72回目の独立記念日でした。それは南ドイツのダッハウ絶滅収容所からユダヤ人が解放された75年目の記念日でもありました。そのとき解放されたAbba Naorさん(92歳)は、「アメリカ軍が僕の命を救ってくれた、それは決して忘れられないことだ。それにしても私たちが見た最初のアメリカ兵は日系人だった。そのような人々を私たちはそれまで見たことがなかった」と言っています。それは、日系アメリカ人によって構成された442連隊でした。この連隊は米陸軍で最多の勲章を得た勇猛な部隊で何と31.4%もの兵が死傷したとのことです。残念ながら1992年に至るまでダッハウ収容所を解放したのは日系人部隊であったことは隠されていました。 “Al Kol eleh(これらすべての上に)〜詩篇126篇” の続きを読む
誕生と復活の奇跡 Rinascerò, Rinascerai(僕は復活し、君も復活する)〜詩篇71篇
今、世界中で聞かれている歌と動画があります。Rinascerò, Rinascerai(僕は復活し、君も復活する)ということばが繰り返されています。そしてこのことばを掲げた医療従事者や住民の顔が映っています。 “誕生と復活の奇跡 Rinascerò, Rinascerai(僕は復活し、君も復活する)〜詩篇71篇” の続きを読む
Mackyの「幸せの歌」〜詩篇133篇
「社会的距離を保つ (Social distance)」などということを守るようにと言われるなんて、大変な世の中ですが、だからこそ懐かしい仲間との交わりの回復もあるのかもしれません。昨日、Facebook を見ていると、神学校の同期のオリジナル曲「幸せの歌」というのが紹介されていました。 “Mackyの「幸せの歌」〜詩篇133篇” の続きを読む
ハイドン「天地創造」〜詩篇19篇
今朝、いつものように30分余りかけて教会に向かって歩いてきました。若干沈んだ心から歩き出したのですが、太陽の光が驚くほど心地よかったです。考えてみたら最高の季節なのですね。 “ハイドン「天地創造」〜詩篇19篇” の続きを読む
鹿のように〜詩篇42篇
昨日、私たちはインターネット配信によって礼拝を守りましたが、多くの方々は、いつになったら皆がそろって集まって、ともに主を礼拝できるのか……と思っておられることと思います。詩篇42篇は、そのような「うなだれ、思い乱れている」気持ちを表現しつつ、神が臨在する礼拝を待ち望む歌です。 “鹿のように〜詩篇42篇” の続きを読む
死の支配からの解放〜詩篇30篇
詩篇30篇「死の支配からの解放」
私たちはすでに復活のいのちのうちに生かされています。そのことを何よりも歌っているのがこの詩篇と言えましょう。「永遠のいのち」とは、キリストにある復活のいのちが今から始まっていることを意味します。この標題が示すのは、これがもともと主 (ヤハウェ) の「家」である神殿奉献の歌であったということです。ダビデは神殿建設を後継者に委ねましたが、その準備には万全を期していたからです。彼は1-3節、自分の個人的な体験を繰り返しながら、それが会衆全体の信仰告白につながるように願っています。 “死の支配からの解放〜詩篇30篇” の続きを読む
存在の感謝〜詩篇139篇
今日は詩篇139篇から「存在の感謝」としてご紹介します。
この詩は、「ヤハウェよ」という神の御名への呼びかけから始まります。多くの人々は、自分の必要から始まって神を求め、「私が神を認識する」いう考え方をします。しかし、「わたしはある」または「わたしはあらしめる(生み出す)」と宣言される神がおられるので、私がここに生き、また、考え、語っていると認識すること、つまり、全能の神のご支配を前提としてこの世界を見るというのが聖書の発想ではないでしょうか。 “存在の感謝〜詩篇139篇” の続きを読む