真実な教えの見分け方〜詩篇118篇

最近、岩手県の方が八王子の大学で学ぶご長男が失踪したということで、教会を訪ねてきました(失踪届提出済み)。彼のお部屋に読み込まれた聖書と古い文書のファイルが置いてあったので、近隣の教会を訪ねて、手掛かりをつかもうとしているとのことでした。聖書では、黙示録を真剣に読んでいたようすが分かりました。

またそのファイルの文書を後で調べたら、「聖書の失われた書物とエデンの忘れられた書物」に分類される「アダムとイヴの最初の書」とか、「ギリシャ語のバルクの預言書」とか、「シュビラの託宣」という古文書の日本語訳のコピーがきれいにファイルされていました。

そのファイルの手書きの続きには、「ただ一つ分かっているのは、終わりの日が着実に、預言者たちが記したこと、裁きと報いと、怒りと憤りと妬みの日は着実に近づいている。しかも、その日からは、誰も逃れられない。正しい人も正しくない人も、恐れ苦しまなければならない。セトの子らが、カインの娘たちに誘惑され……堕落して滅んでしまったから、イエス・キリストを信じる人の中からも恐ろしく堕落してしまう人がいるだろう」と記してありました。

ファイルの内容から、誤った教えに詳しい人に相談してもらったりしているところです。以上のことは、そのお父様の了解を得て書いております。

今、インターネットには聖書の教えまた、それに近い誤った教えが氾濫しています。興味本位に調べて、「今までの伝統的なキリスト教会で無視されてきた文書がある……またまったく新しい聖書の解釈がある」などということを見たら、それが人を破滅に導く誤った教えである確率が非常に高いと思われます。

聖書の教えの核心は、創造主の真実とこの世界がシャローム(平和)の完成に向かっているということです。その平和の完成の直前に、神の厳しいさばきがありますが、その最終目標が語られずに、途中の厳しいさばきばかりが強調されるのが、誤った教えの核心です。それでは、この地で誠実に生きて、この地に神の平和を広げる働きの大切さが見えなくなります。この地で汗水たらして誠実に生きる意味が分からなくなる……というのが誤った教えの特徴です。

イスラエルの民は、礼拝の中で詩篇を繰り返し唱和していました。その中で多くの人に愛唱されたのが詩篇118篇で、そこには聖書の教えの核心が記されています。

その最初と最後で「主 (ヤハウェ) に感謝せよ」と訴えられ、その理由の第一が、「主は……いつくしみ深い」と訳されますが、原文では単に「善い(トーブ)方であるから」としか記されていません。

そして、第二の理由が、「その恵み(ヘセド:不変の愛)はとこしえまで続くから」と記されています。そして、2-4節では「イスラエルよ」「アロンの家よ」「主 (ヤハウェ) を恐れる者たちよ」「言え」と繰り返されながら、三度にわたって「主の恵み(ヘセド)はとこしえまで続くから」と繰り返されます。

つまり、主に感謝すべき理由は、何よりも、その主がご自身の契約(約束)を永遠に守り続けられることにあり、それこそが「主は善い方である」ということの意味なのです。

19、20節では「義の門よ 私のために開け……正しい者たちはここから入る」と記されますが、「義」も「正しい者」も原文では同じことばから派生しています。「義の門」とは、神殿の門を指しますが、それは「神の正しさ」を現す「門」であり、文脈から明らかなように、神に信頼し、神にすがる者を歓迎する入り口です。

イエスの時代のパリサイ人は、正しい人の代表のように見えましたが、イエスの目には「神様、罪人の私をあわれんでください」と胸をたたいて祈った取税人こそが「正しい人」でした (ルカ18:13、14)。

そして、神の正しさ(義)とは、ご自身の前にへりくだって、日々、主のあわれみにより頼みながら、生きている者を「受け入れ」、決して見捨てないことに現わされています。そこに「主の恵み(ヘセド)」の永遠性が現わされています。

22、23節の「家を建てる者たちが捨てた石」での「石(エベン)」とはイエスが神の「子(ベン)」であることの比喩で、ご自身が当時の宗教指導者によって捨てられることを指します。

しかし、神は、捨てられた「石」である御子を死人の中から復活させ、「神の国」の「要の石」としてくださいました。イエスはこの詩篇のことばを引用しつつ、ご自身を信じない者への厳しいさばきをも預言しておられます (マタイ21:42-44)。

25節の「ああ主 (ヤハウェ) よ」から始まる「どうか救ってください」という祈りは、原文で「ホシアナ」と記され、それが後に「ホサナ!」という賛美の叫びになります。イエスが十字架にかけられる五日前にエルサレムに入城されたとき、人々はこの25、26節のみことばを用いて、イエスをダビデの子としてたたえたのです (マタイ21:8、9)。

「主は私たちに光を与えられた」(27節) という表現は、主の新しい「祝福」の時代の到来を意味します。それは神のご支配(国)が目に見える形で現れることを指します。イエスの時代の人々は、ダビデ王国の再興を待ち望んでいました。

それは主がダビデに「あなたの王座はとこしえまでも堅く立つ」(Ⅱサムエル7:16) と約束してくださったからです。

しかし、それは今、「イエスを主」と告白する神の民の共同体(教会)として実現し、同時に、そこから発せられる福音が、世界を変え続けています。しかもそれは、神がアブラハムに「地のすべての部族はあなたによって祝福される」(創12:3) と契約を結んだことの成就でもあります。それこそ神の契約の愛(ヘセド)の永遠性の現れです。


祈り

主よ、あなたの「恵み(ヘセド)」こそが、この世界の歴史を完成へと導いておられることを感謝します。あなたはご自身に信頼する者を守り通し、永遠の祝福へと入れてくださいます。そのあなたの契約の愛にいつでもどこでも信頼させてください。

以下は詩篇118篇の英語の歌と神のみわざの映像です