マインドフルネス〜詩篇62篇

最近、「マインドフルネス (mindfulness)」と呼ばれる瞑想法が流行っています。ウィキペディアでは以下のような解説がありました:

「これは仏教の経典で使われている古代インドの言語の「サティ (sati)」という言葉の英語訳としてあてられたもので、「心をとどめておくこと」あるいは「気づき」などと訳されます。英語には、「気づかう」「心配りをする」という意味の「マインドフル (mindful)」という形容詞があります。マインドフルネスの概念では、マインドフルとは「『良い・悪い』などの価値判断をすることなく、完全に『今この瞬間』に注意を向けている心の状態」を指します。」

このマインドフルネスは、今や、ビジネスや医療の世界でも用いられるようになっています。しかし、「今、ここに (here & now)」に心を集中することは三千年前のダビデの詩篇の大切なテーマでもあります。静まりの技術等を仏教的な瞑想から学ぶことができたとしても、クリスチャンとして決して忘れてはならないのは、どのお方の前で心を鎮めるのかということです。

今から20年前、友人の牧師とともにスイスのラサでハンズ・ビュルキ先生が導く二週間の小さな黙想のセミナーに参加させていただきました。そこで繰り返し味わったのが以下の詩篇です。

以下は詩篇62篇の抜粋私訳です

ただ神に向かって、私のたましいは沈黙している。

この方から 私の救いが来る。

この方だけが 私の岩、救い、また砦の塔。

私は決して 揺るがされない。

……

ただ神に向かって、私のたましいよ、沈黙せよ。

この方から 私の望みが来るからだ。

この方だけが 私の岩、救い、また砦の塔。

私は揺るがされない。

私の救いと私の栄光は 神のもとにある。

私の力の岩と避け所は 神のうちにある。

民よ。いかなるときにも、この方に信頼せよ。

あなたがたの心を御前に注ぎ出せ。 神は私たちの避け所。

今回は、「沈黙の祈り」という、昔大切にされ、今は忘れられがちな祈りに目を向けますが、その際、私たちは、「神に向かって……」という沈黙の方向を忘れてはなりません。それは救いの時期も方法も「神の自由」に委ねることです。

振り返ってみると、私は何よりも失敗することを恐れて生きてきました。そのため人の行動を予測し、管理したいような思いがあり、予想外の事態に腹を立てることがありました。その態度は、神にも向けられていたような気がします。そのため、神から示された道も、また意外な恵みも数多く見逃してきたような気がします。あなたはどうでしょう?

「ただ神に向かって、私のたましいは沈黙している」(1節) とダビデは告白しています。彼があれほど大きな神の祝福を体験できた鍵は、何よりも、人間的な打算を超えて、神に期待し続けたことにありました。しかも彼は、人間的な意味での成功と思えることも、すべてが神のみわざであることを認めていました。

この「沈黙」ということばは、「黙って……待ち望む」と、意訳されることもあります。それは、「信頼」と「沈黙」は、表裏一体のもので、信頼のないところに沈黙は生まれないからです。

その心の状態は、「まことに私は、自分のたましいを和らげ、静めました。乳離れした子が母親の前にいるように、私のたましいは乳離れした子のように御前におります」(詩篇131:2) という告白としても表現できます。母親に必要を満たされた幼児は、目の前に母親がいること自体を喜んで、嵐の中でも安らいでいられるからです。

ですから神の御前に沈黙できるということは、神への最高の愛の表現と言えましょう。それなのに、私たちの場合は、神の前でどれだけ沈黙できているでしょうか。

預言者イザヤは「悪者どもは、荒れ狂う海のようだ。静まることができず、水が海草と泥を吐き出すからである」(57:20) と記しています。これは私たちの心の状態に似ていないでしょうか。口先では「私は神に信頼している!」と言いながら、行動では、人の目を恐れ、人間的な力や富を頼りにして生きてはいないでしょうか。その心の分裂状態が、沈黙の中で顕わにされます。

ですから、以前、私は、沈黙が恐怖で、敵意さへ感じたことがありました。心の底に押し殺していた不安や憎しみ、欲望が吹き出て、収集がつかなくなるように感じたからです。それを避けるため、心と身体を休みなく動かし続けてきたのかもしれません。しかし、マイナスの感情は、押し殺しても、腹の底に確かにあり、それが私を動かし続けたのです。その結果、些細なことにエネルギーを傾け、周りの人々までも振り回してきたことがあるような気がします。

しかし、徐々に、沈黙することが苦痛ではなくなりました。それは、一時的な混乱を通り越しさえするなら、沈黙を通して、神への信頼が、たましいの奥底に根を張ることができるという期待が実感できるようになってきたからです。そして、そこから、もはや口先だけの信仰ではなく、神に焦点を合わせた行動が生まれるようになるという希望が見えてきました。

その際、「ただ神に向かって……」という沈黙の方向性こそが鍵になります。羅針盤の針が常に北極を指すように、「私はいつも、目の前に主 (ヤーウェ) を置く」(詩篇16:10) のです。心の目を、世の富や権力、人の評価などにではなく、ただ神に集中します。なぜなら「私の救い」は、この世の人や物の背後におられる「この方から……来る」からです。

私たちは、しばしば、解決の「方法」にばかり目が向って、神がどのような方であるかを忘れてはいないでしょうか。聖書を読んで不思議に感じるのは、神の奇跡は毎回ユニークで、同じことの繰り返しがないということです。しかも、ひとつひとつの不思議な神のみわざには、驚くほど多くの人の生き方自体を変える力がありました。

神の御前に静まりながら、自分の人生を神の救いの大きな物語の一部としてとらえ直してみてはいかがでしょう。二度と体験したくないと思えるような悲劇さえ、より大きな救いの喜びの物語の一部とされます。実際、ダビデは不当な苦しみを受け続けましたが、それを通して多くの詩篇が生み出され、苦しむ人々に今も消えることのない希望を与えて続けています。

ところが、私たちは「この方だけが私の岩、救い、また砦の塔。私は決して揺るがされない」(2節) と告白しても、すぐにまわりの状況に心が揺すぶられます。ダビデ自身も自分を攻撃する人々のことに心が奪われました。

それでダビデは、自分の「たましい」に、「沈黙せよ」と命じる必要がありました (5節)。その際、一節の「沈黙」は名詞でしたが、ここは動詞形で、多くの翻訳は命令形と解釈しています。

「たましい」はいつも何かに固着しようとしますから、黙っていると勝手な方向に走り出してしまいます。ですから、様々な思いが湧き起こっても、川の流れを見るように右から左に次々とただ流しながら、「ただ神に向かって……沈黙せよ」と、自分のたましいに穏やかに優しく語りかけることが大切だと思われます。

その際、分散した心を神に向ける鍵の言葉を持っていると助けになると言われます。それは、たとえば、「主よ!」のひとことでも良いですし、「主よ。あわれんでください」と繰り返すことでも結構です。自分にあったパターンがあることでしょう。

そしてここでは、一節にあった「私の救い」ということばの代わりに、「私の望み」(5節) が、「この方から……来る」と告白されています。それは、この沈黙の中で、たましいは、自分の願望からしだいに自由になり、神から与えられる「望み」を、「私の望み」とするように変えられるからです。

マリヤは御使いから受胎告知を受けたとき、「どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように」(ルカ1:38) と祈りました。それは、「神の望み」を、「私の望み」とすることでした。

私は自分の願望に縛られ続けてきたように思います。そして、しばしば、この世的な成功体験は、その構えをかえって強化させることになります。しかし、期待が強過ぎると、その通りにならない現実の中で失望し、疲れることも多くなります。しかも、自分の期待に縛られていると、その枠を外れたところに注がれている数多くの神の恵みに気づくことができなくなります。

そして不満ばかりに目が向かうと、神からの恵みに心がますます鈍感になり、感謝の代わりに不満が鬱積するという悪循環に陥ります。しかし、沈黙の祈りはそれを逆転させ、日常生活の中に驚くほど多くの神の恵みのみわざを発見させる助けになるように思われます。

ダビデは、そのような体験を踏まえて、「民よ。いかなるときにも、この方に信頼せよ」(8節) と勧めています。しかも、その上で、「あなたがたの心を、御前に注ぎ出せ」と、一見、沈黙の反対とも思えることを勧めています。それは心の内側にある様々な混乱した思いを「私たちの避け所」である「神」に、正直に打ち明けることです。

神への沈黙は、感情に蓋をすることではありません。実際、「注ぎ出す」とは、「空(から)にする」とも訳される言葉で、沈黙とは矛盾することではありません。

私たちは、湧きあがった不安や怒りや悲しみを、優しく受けとめた上で、たとえば「主よ。私は不安です……」と言いつつ、その気持ちを主にささげることができます。すると、感情の嵐は、しだいに落ち着くものです。このことは次のようなことと同じではないでしょうか。

人が、目の前のハエを追い払おうと必死になるならかえってハエは暴れます。しかし、がまんして無視し続けるなら、ハエはやがて、静かに立ち去ります。

私たちは常に神に向かって生きるべきです。その始まりは、神の御前に心を注ぎ出し「空(から)」にすることです。黙想の目的は、霊的な恍惚状態を体験することではありません。

光は、ちりに反射することで見られるのですから、心のちりに驚く必要はありません。こころを透明に、空にすることで、「キリストの心」(Ⅰコリント2:16) が、「土の器」を通して生きることが可能になります。そのきっかけが神の前に沈黙することです。

そしてその「実」は、しばしば黙想の中ではなく、日常生活に知らないうちに表わされます。ですから、黙想の「実」が見えないことに失望する必要はありません。

以下はマーガレット・リッツアによる詩篇62篇の曲です。