アイザック・ウォッツ作「栄えの主イエスの」(讃美歌142番)〜詩篇73:25–28

私たちの教会ではイエスの十字架の苦しみを覚える聖金曜日には、バッハのマタイ受難曲に登場するドイツの讃美歌の会衆賛美とマタイ福音書の朗読を聞くことを交互に入れながら黙想の時を持っています(今年も4月2日午後7時~8時に開きます)。

しかし、その最後に、例外的に英国起源の以下の讃美歌を歌うと、そのメロディーの馴染みやすさとともに、キリストの受難が心に迫ってきます。グレゴリオ聖歌由来のメロディーが、なんと歌いやすいのだろうと感動します。

しかも、この英語の原詩は、美しい韻とリズムで、多くの人の心に響いてきました。

もともと、 はガラテヤ6章14、15節をテキストにこの歌詞を書いています。それは1707年のことですが、当時は、讃美歌に「私」という代名詞を入れることはほとんどなかったとのことです。会衆賛美では「私たち」という共同体の意識が大切だからです。しかし、ウォッツは「私」個人の霊的な黙想を尊重しました。

そして使徒パウロ自身もここでは「私」個人の信仰告白を大切に、次のように記しています

肉において外見を良くしたい者たちが、ただ、キリストの十字架のゆえに自分たちが迫害されないようにと、あなたがたに割礼を強いています……しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが、決してあってはなりません。この十字架につけられて、世は私に対して死に、私も世に対して死にました。割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではありません。大事なのは新しい創造です

(ガラテヤ6:12、14、15)

なお、ここで「十字架を誇りとする」というのは、驚くべき逆説です。十字架とは、「辱め」のシンボルで、それは「誇り」と正反対のものだからです。

しかし、パウロは自分自身がキリストとともに十字架につけられて死んでいるという不思議な確信のうちに生きています。分かりやすく言うと、完全に世の価値観を超越してしまったというのです。

そのことがここでは、「世は私に対して死に、私も世に対して死にました」という告白なのです。

多くの人はこの世の人々の期待に応えようとして、実は、自分の心の奥底にある、「神のかたち」として創造された人間が持つ本来の願望を、押し殺して生きています。それによって結果的に自分らしさを失っているのです。

しかも、当教会のヴィジョン「新しい創造を ここで喜び シャロームを待ち望む」での「新しい創造」ということばがこの聖句の核心部分でもあります。

私たちはキリストとともに死ぬことによって、本当に意味で「自由」を味わうことができるのです。そこに「新しい創造」があります。

以下の4番目の歌詞は、あまりにも生々しくて、省かれて歌われることが多いのですが、実は、これこそウォッツの歌詞の核心部分と言えます。

残念ながら、以下のビデオでも4番の歌詞が省かれて歌われていますが、とっても良い歌い方なので、あえてご紹介させていただきます。英語との対訳を載せていますので味わっていただければ幸いです。

讃美歌142番 原詞

  1. When I survey the wond’rous Cross
    あの驚くべき十字架に私が思いを馳せるとき
    On which the Prince of Glory dy’d,
    その上で、栄光の主は死んでくださったのだが、
    My richest Gain I count but Loss,
    私の最も豊かな利益も、損と見なさざるを得ない。
    And pour Contempt on all my Pride.
    さらに私のすべての誇りを侮蔑するしかない。
  2. Forbid it, Lord, that I should boast,
    主よ、私が誇りにすることを禁じてください
    Save in the Death of Christ my God:
    私の神であるキリストの死以外のことを。
    All the vain things that charm me most,
    この心を惹きつけて止まないすべての空しいものを
    I sacrifice them to his Blood.
    主の血潮に犠牲としてお献げしますから。
  3. See from his Head, his Hands, his Feet,
    見なさい。主の御頭(かしら)、御手、御足から
    Sorrow and Love flow mingled down!
    悲しみと愛が混ざり合って流れ落ちるのを。
    Did ever such Love and Sorrow meet?
    そのような愛と悲しみが出会ったことがあったか
    Or Thorns compose so rich a Crown?
    また、茨(いばら)がこのような尊い冠となったことがあったか。
  4. His dying Crimson, like a Robe,
    死にゆく主の赤い血潮は礼服のように
    Spreads o’er his Body on the Tree;
    木の上の主のみからだに広がっている。
    Then am I dead to all the Globe,
    それで私は世に対して死んでいる。
    And all the Globe is dead to me.
    また世のすべては私に対して死んでいる。
  5. Were the whole Realm of Nature mine,
    たとい全世界が私のものであったとしても
    That were a Present far too small;
    それは主への贈り物として小さすぎる。
    Love so amazing, so divine,
    このように驚くべき聖なる愛は、
    Demands my Soul, my Life, my All.
    私のたましいと生涯のすべての応答を求める

なお、この歌詞とともに以下の詩篇73篇25-28節を味わっていただければ幸いです。主との交わり自体が私たちにとっての最高の宝であることが美しく描かれています。

あなたのほかに

天では 私にだれがいるでしょう。

地では 私は誰をも望みません

この身も心も尽き果てるでしょう。

しかし 神は私の心の岩

とこしえに 私が受ける割り当ての地。

見よ。 あなたから遠く離れている者は滅びます

あなたに背き 不実を行う者を

あなたはみな滅ぼされます

しかし 私にとって

神のみそばにいることが 幸せです

私は 神である主 (ヤハウェ) を私の避け所とし

あなたのすべてのみわざを語り告げます