「人とその妻はふたりとも裸であったが、恥ずかしいとは思わなかった」 —— 35年前の卒業論文〜創世記2章25節

最近、facebook を通して、聖書解釈に関しての様々な対話を重ねています。その中で、35年前に自分が素朴に持っていた疑問が、今、ホットな議論になっていることに気づかされています。それは、第一に私たちが持つ痛みの感覚としての「恥」の意識です。創世記では、アダムとエバが禁断の木の実をとって食べる前の調和が、「人とその妻はふたりとも裸であったが、(互いに)恥ずかしいとは思わなかった」と、エデンの園での調和として描かれています。しかし彼らが神に逆らったことで互いの信頼関係が崩され、そこからアダムがエバに責任を擦り付け、二人から生まれた最初の子が弟殺しになるというストーリーが描かれています。 “「人とその妻はふたりとも裸であったが、恥ずかしいとは思わなかった」 —— 35年前の卒業論文〜創世記2章25節” の続きを読む

当事者による国会活動——実現している主の救い〜ルカ4:16–21、イザヤ61:1

日頃のメッセージで、キリストによって既に始まっている「救い」に目を留めることの大切さを語らせていただいております。それは、今ここにある「新しい創造」と見ることができます。 “当事者による国会活動——実現している主の救い〜ルカ4:16–21、イザヤ61:1” の続きを読む

真のリバイバルを待ち望む——信仰箇条の見直し

今週月曜日、火曜日と日本福音自由教会協議会総会が久しぶりに対面で開かれました。そこで、本当に多くの方々から、当教会のホームページをご覧いただいているとのおことばをいただきました。その中でも、アズベリーリバイバルの記事に教えられたとのお話しをいただきましたが、同時に、それが日本であまり話題になっていないことを悲しむ反応もありました。 “真のリバイバルを待ち望む——信仰箇条の見直し” の続きを読む

若い時の気づきの大切さ —— 「私は福音を恥としません」〜ローマ1:16

今朝、34年以上前に書いた神学校での卒業論文を見直していました Facebook での友人が、米国の神学校で聖書における「恥」の研究をして、それを発表しているというところから、自分の昔からの課題に改めて目を向けました。 “若い時の気づきの大切さ —— 「私は福音を恥としません」〜ローマ1:16” の続きを読む

大川隆法氏の死去 —— 「神である主の霊がわたしの上にある」〜イザヤ61章1節

「幸福の科学」の総裁 大川隆法氏が昨日3月2日に66歳で亡くなられたと報じられました。1986年に設立された宗教団体が数十年のうちに数十万人の信徒を獲得していますが、彼の霊言と言われるものを何らかの形で見聞きした人の数は一千万人を超えていると、この教団は言っているようです。確かに、一般の書店でも、彼の本は目立つところに数多く置かれていることがありました。一方、伝統的なキリスト教は日本では信者数を減らし続けているのが現実で、ひょっとしたら、活動的な信者数は、「幸福の科学」と大差ないのかもしれません。 “大川隆法氏の死去 —— 「神である主の霊がわたしの上にある」〜イザヤ61章1節” の続きを読む

キリストにある愛の交わり —— 「千年王国」に関する理解の違いを超えて〜黙示録20章から

最近、米国で、ケンタッキー州のアズベリー大学から始まったリバイバルの動きが、全米各地に広がっています。本当にすばらしいことです。この数年間、米国では政治の問題を巡って、キリスト教会の中にも激しい意見の対立が生まれていました。本音で自分の意見を言えなような雰囲気があったとも聞きます。しかし、多くの人々にとっての本当に大きな課題は、もっと身近な、自分自身の将来に対する不安や、家族内の対立、自分を受け入れることができないという自己嫌悪感のようなものであったようです。キリストの福音はまさに、そのような身近な課題に語りかけ、あのような大きな動きになって行きました。 “キリストにある愛の交わり —— 「千年王国」に関する理解の違いを超えて〜黙示録20章から” の続きを読む

拙著「心が傷つきやすい人への福音」再版〜詩篇109篇21、22節

今まで多くの方々の相談に乗りながら、一番切実な悩みは、身近な人との人間関係にあるような気がします。そのようなとき、自分の正直な気持ちを創造主なる神に訴えながら、自分のことに関しては、以下のように祈ることができるなら、とっても気が楽になるのではないでしょうか “拙著「心が傷つきやすい人への福音」再版〜詩篇109篇21、22節” の続きを読む