疑い深いトマスの信仰告白〜ヨハネ20章24–29節

復活の主を賛美します。

十二弟子の一人のトマスは、しばしば、「疑い深いトマス」と言われます。しかし、ヨハネ福音書が描くトマスの三回の記事に共通するのは、彼は自分の疑問を真っ向からイエス様や弟子たちにぶつけて、イエス様から信仰の神髄を引き出す、最高の導き手、パイオニア的な信仰者でもあります。詩篇の中には、主に対する自分の疑いや不安を正直に祈ることばが満ちています。疑いの告白から、真の賛美が生まれています。 “疑い深いトマスの信仰告白〜ヨハネ20章24–29節” の続きを読む

映画「生きる living」—— 自分の心と目に聞く歩み〜伝道者11:9

大昔に流行った黒澤明監督の「生きる」をリメークした英国映画が上映されています。ノーベル賞作家の日系英国人カズオ・イシグロさんの脚本による映画です。余命半年を宣告された市役所勤務の紳士が、本当に意味で「生きる喜び」を再発見するというドラマです。基本的なあらすじは黒澤明監督と同じと言われます。 “映画「生きる living」—— 自分の心と目に聞く歩み〜伝道者11:9” の続きを読む

「人とその妻はふたりとも裸であったが、恥ずかしいとは思わなかった」 —— 35年前の卒業論文〜創世記2章25節

最近、facebook を通して、聖書解釈に関しての様々な対話を重ねています。その中で、35年前に自分が素朴に持っていた疑問が、今、ホットな議論になっていることに気づかされています。それは、第一に私たちが持つ痛みの感覚としての「恥」の意識です。創世記では、アダムとエバが禁断の木の実をとって食べる前の調和が、「人とその妻はふたりとも裸であったが、(互いに)恥ずかしいとは思わなかった」と、エデンの園での調和として描かれています。しかし彼らが神に逆らったことで互いの信頼関係が崩され、そこからアダムがエバに責任を擦り付け、二人から生まれた最初の子が弟殺しになるというストーリーが描かれています。 “「人とその妻はふたりとも裸であったが、恥ずかしいとは思わなかった」 —— 35年前の卒業論文〜創世記2章25節” の続きを読む

当事者による国会活動——実現している主の救い〜ルカ4:16–21、イザヤ61:1

日頃のメッセージで、キリストによって既に始まっている「救い」に目を留めることの大切さを語らせていただいております。それは、今ここにある「新しい創造」と見ることができます。 “当事者による国会活動——実現している主の救い〜ルカ4:16–21、イザヤ61:1” の続きを読む

真のリバイバルを待ち望む——信仰箇条の見直し

今週月曜日、火曜日と日本福音自由教会協議会総会が久しぶりに対面で開かれました。そこで、本当に多くの方々から、当教会のホームページをご覧いただいているとのおことばをいただきました。その中でも、アズベリーリバイバルの記事に教えられたとのお話しをいただきましたが、同時に、それが日本であまり話題になっていないことを悲しむ反応もありました。 “真のリバイバルを待ち望む——信仰箇条の見直し” の続きを読む