江戸時代の踏絵を用いた徹底的なキリシタン弾圧以来、多くの日本人はそのトラウマに支配されているのかも知れません。学生時代、福音を聞きながら、「でも、クリスチャンになったら、何か悪いことが起こるかも・・」と不安でした。しかし、アメリカに留学中、「クリスチャンであるとは、喜びに満ち溢れることなのだ!」と、目が開かれました。当時、自然体で美しく輝いている方を知らなかったからです。 “ヨハネ17章9〜26節「彼らが全うされて一つとなるため」” の続きを読む
ヨハネ16章25節〜17章8節「わたしはすでに世に勝ったのです」
最近日本でもブームになっている「サピエンス全史」という本があります。進化論的説明を絶対化することには賛成できませんが、ホモ・サピエンスと呼ばれる人類が、驚くほどひ弱であるにも関わらずこの地の支配者となれたのは、ときにフィクションとも呼ばれる「想像上の現実」を大集団で共有して協力し合うことができたからであるという解説には感心しました。 “ヨハネ16章25節〜17章8節「わたしはすでに世に勝ったのです」” の続きを読む
ヨハネ15章26節〜16章24節「悲しみは喜びに変わります」
キリストの十字架と復活によって、「新しい創造」が起きました。どんなに世界が暗くても、そこで私たちは希望を見出し、悲しみのただ中でさえ、喜ぶことができます。それは、人生の不条理を悲しみ、うらみ、あきらめ、自己憐憫に浸る日本の演歌の世界とは異なります。 “ヨハネ15章26節〜16章24節「悲しみは喜びに変わります」” の続きを読む
ヨハネ15章9〜25節「イエスの友とされ、互いに愛し合う」
多くの信仰者は、「私はイエス様を信じて、このように変えられました」と、自分が結ぶことができた「実」の現実から、イエスのすばらしさを証ししようとします。しかし、これはイエスご自身よりも自分に目を向けるという信仰の落とし穴にはまる危険があります。 “ヨハネ15章9〜25節「イエスの友とされ、互いに愛し合う」” の続きを読む
ヨハネ15章1〜11節「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です」
あなたは「私なんか・・・」などと、自分で自分に限界を設けたり、自分の信仰を恥じたりして、ぶどうの枝でありながら、木からの養分を差し止めようとしてはいないでしょうか? “ヨハネ15章1〜11節「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です」” の続きを読む
ヨハネ14章15〜31節「もうひとりの助け主」
去る月曜日、盲導犬に引かれた方が地下鉄のホームから落ちて亡くなられました。その方は今年3月に当教会の受苦日音楽礼拝に奥様と共に出席してくださった方です。奥様は私の神学校の同期です。私はそのとき、赤城山キャンプで奉仕中でした。そして、亡くなられたのが彼だと知ったのは昨日です。 “ヨハネ14章15〜31節「もうひとりの助け主」” の続きを読む
ヨハネ13章36節〜14章14節「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです」
イエスは、「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです」と言われましたが、これはときに、他の宗教を否定する独善的な主張と受け止められることがあります。私もそのように誤解していたことがあります。 “ヨハネ13章36節〜14章14節「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです」” の続きを読む
ヨハネ13章21〜35節「互いに愛し合いなさい」
海外の外国人中心の教会から日本の教会に入ってきて戸惑うことがあります。それは家族のようにファーストネームや愛称で呼び合う関係から、急に、距離を置いたような呼びかけ合いになることです。 “ヨハネ13章21〜35節「互いに愛し合いなさい」” の続きを読む
ヨハネ13章1〜20節「究極の愛ー弟子の足を洗うー」
現代の聖餐式の起源は最後の晩餐ですが、イエスはこの時、弟子たちの足をも洗われながら、「あなたがたも互いに足を洗い合うべきです」と命じられました。それを根拠に受難週の木曜日に「洗足の儀式」を守る教会もあります。 “ヨハネ13章1〜20節「究極の愛ー弟子の足を洗うー」” の続きを読む
ヨハネ12章27〜50節「世をさばくためではなく、救うために」
米国の大統領は世界最強の存在ですが、不思議にも、何らかの依存症の傾向を持つ人がその座についています。しかし、隠されもせず、強がりを押し通すことがないことが、あの国の魅力とも言えましょう。 “ヨハネ12章27〜50節「世をさばくためではなく、救うために」” の続きを読む