ヨハネ14章15〜31節「もうひとりの助け主」

2016年8月21日

去る月曜日、盲導犬に引かれた方が地下鉄のホームから落ちて亡くなられました。その方は今年3月に当教会の受苦日音楽礼拝に奥様と共に出席してくださった方です。奥様は私の神学校の同期です。私はそのとき、赤城山キャンプで奉仕中でした。そして、亡くなられたのが彼だと知ったのは昨日です。

今までの歩みをずっと聞いていただけに、茫然自失の気持ちです。何で、多くの人が行き交う地下鉄の駅でこのような悲劇が起きるのか、私たち都会で生きる者の孤独を思わざるを得ません。何と視覚障害者の37%もの方がホームから転落したことがあるという恐ろしい調査もあるというのです。

そこにいた人々を責めるというよりも、それを四日間余りも知らずに過ごす自分を責めてしまいました。メールを送ったら、すぐに「温かいことばをありがとう・・」とすぐに返事をもらい、泣くしかありませんでした。4人のお子さんたちとの今後の歩みを思いながら、どのように寄り添って差し上げられるか祈っています。

私たちの目の前には、不条理なことが満ち満ちています。その中で、「神がおられるなら、どうしてこんな悲劇が・・」と思わざるを得ないことも度々です。

しかし、私たちはどんなときにも、互いの気持ちに寄り添い合い、互いのために祈ることができます。目の前の自分の課題を必死にこなしながら、余裕を失っていること自体が、この世の何よりの悲劇です。聖霊のみわざはそこに変化を生み出します。

1.「もうひとりの助け主」

十二弟子のひとりのピリポは、「主よ。私たちに父を見せて下さい。そうしたら満足します」(14:8)と言いました。主の身近にいるという特権の中で、何という贅沢を願うのでしょう。しかも、イエスは翌日十字架への道を歩もうとしておられるのにも関わらず、彼には自分のことしか見えていないかのようです。

主はそれに対し、「ピリポ」と個人的に語りかけながら、「こんなに長い間あなたがたといっしょにいるのに、あなたはわたしを知らなかったのですか」とご自身の悲しみを表現しながら、「わたしを見た者は、父を見たのです」と驚くべきことを断言されました(9節)。

私たちはそれを、「御父と御子とはまったく同じ、神としての本質をお持ちだから・・・」という説明をしがちですが、イエスは単純に「わたしが父におり、父がわたしにおられることをあなたは信じないのですか」と問いかけられます(10節)。そしてその意味を、「わたしがあなたがたに言うことばは・・・わたしのうちにおられる父が、ご自分のわざをしておられるのです」と言われました。

つまり、イエスのうちに父なる神の心が住んでおられ、それによってイエスは御父の御心を語れるのであり、それは同時に、イエスご自身の働きというよりは、父なる神の働きであるというのです。

そこでは、御父と御子とはそれぞれ別の存在でありながら、同時に、互いの思いを徹底的に分ち合っているので、ひとつの思いとして私たちに語りかけることができるという愛の交わりが見られます。

これを神学的には、相互内在(mutual indwelling)と呼びます。それは、御父と御子が融合して一つになることではなく、愛において一つになっておられることを意味します。

これを人間の家族関係でたとえることには非常に注意を要しますが、たとえば、子供の目の前にお父さんが見えなくても、お母さんのうちにいるお父さんを見て満足できるようなことに似ているかもしれません。それは両親が互いの独自性を尊重し、しかも同時にすべてを分ち合い、夫婦一体の愛で子供を愛しているときに見られるものです。

現実に、そのような理想的な夫婦はなかなかありませんが、私たちはこの地で、何よりも、互いに愛し合うことを通して、三位一体の神の愛を証しするように召されていることを忘れてはなりません。

イエスはもう一度同じ言葉を用いつつ、「わたしが父におり、父がわたしにおられるとわたしが言うのを信じなさい」と言われながら、さらに「さもなければ、わざによって信じなさい・・わたしを信じる者は、わたしの行うわざを行ない、またそれよりもさらに大きいわざを行ないます」と言われました(11節)。

つまり、「イエスを知る」という信仰の核心は、御父とイエスとの親密な交わりを知ることにあるのですが、それは単なる知識によってではなく、行動によって納得できると言うのです。それは、私たちがイエスの御名によって父なる神に大胆に求めつつ、神の愛をこの地で現そうとするときに見られるものです。

たとえば、マザー・テレサによって始まった「神の愛の宣教者会」は、イエスが地上の短い生涯で直接にお助けになられたより、はるかに多くの人々に食べ物を届けることができています。ただし、それは、決して、彼女たちの人間的な働きではなく、目に見えないイエスが彼女たちのうちに生きておられることの結果なのです。

そしてそれは、私たちのうちにおられるイエスがなしてくださる別の大きな働きともなり得るのです。私たちは、自分自身ではなく、私たちのうちにおられるイエスを見ていただけるように働くように召されています。どちらにしても、これは私たちが自分の殻を破って冒険しない限り見られないことでもあります。

その上でイエスは、「もしあなたがたがわたしを愛するなら・・わたしの戒めを守るはずです」(15節)と言われました。「わたしの戒め」とは、中心的には「わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(13:34)という命令を指します(15:12、17参照)。

それはイエスご自身が、上着を脱ぎ、手ぬぐいを腰にまとって、弟子たちの前にひざまずき、その足を洗った姿に表わされています。その時イエスは、「あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです」(13:14)と言われました。イエスの戒めの核心は、何よりも、目に見える兄弟姉妹が互いに仕え合うことにあるのです。

今、イエスは彼らの目の前から離れるにあたり、「わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたとともにおられるためです」(16節)と約束されました。

「助け主」とは、聖霊のことですが、その方はイエスと同等の「もうひとりの助け主」と呼ばれます。ですからイエスがおられなくても心配はありません。

しかもその方は、イエスのように十字架にかかり天に昇られるのではなく「いつまでもあなたがたと、ともにおられる」というのです。これは、イエスのうちに父なる神が住んでおられ、イエスが父なる神のみわざを行ったと同じことが、イエスと私たちの間に起こることを意味します。

御父と御子の愛の交わりが、イエスと私たちの関係に現され、それは何よりも、イエスを主と告白する者たちの愛の交わりとして現されるのです。

そして、「その方は、真理の御霊」と呼ばれ、イエスご自身が「わたしは・・真理です」(6節)と言っておられたのと同じ働きをしてくださいます。ただ、世がイエスを受け入れず、知りもしなかったように、世の人々は御霊に対しても同じ態度を取りますが、弟子たちには、「あなたがたはその方を知っています」(17節)と言われます。実は、彼らがイエスを知ることができるのは、御霊の内住の結果だからです。

しかも、イエスは、「その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられる」(17節)と言われました。これは、「一人一人のうちに・・」という以前に、「私たちの交わりのただ中におられる」ことを意味します。

多くの人々の心のうちには、母親の胸から出ようとしない幼児のように、何もせずに世話を受けていたい甘えの気持ちがあります。しかし、この世には多くの傷ついた人々がおり、教会には悩み苦しむ人々が送られてきます。もし、私たちがそれらに対し傍観者的な態度を取り続けるなら、神が遣わして下さった「助け主」の働きを実感することはできません。

イエスにつき従った群集だけが五千人のパンの奇跡を見ることができ、マリヤとともに泣いた人こそがラザロの復活に感動できました。同様に、イエスに習って他の人の前にひざまき、互いに愛し合おうとする人こそが、「もうひとりの助け主」のみわざを体験できるのです。

私たちはどこかで自分の狭い殻を破る必要があり、それができます。私たちはイエスをこの目で見、触れることはできませんが、イエスと同じ方がうちに住んでくださっているのですから。

2.「あなたがたがわたしにおり、わたしがあなたがたにおる」

イエスは十字架を目の当たりにして「わたしはあなたがたを捨てて孤児にはしません。わたしはあなたがたのところに戻ってくるのです」(18節)と言われました。これは弟子たちにとって、復活後にご自身の栄光の姿を現すことを意味し、そのことが続けて、「いましばらくで世はもうわたしを見なくなります。しかし、あなたがたはわたしを見ます」(19節)と表現されています。

その上で、イエスはさらに、「わたしが生きるので、あなた方も生きる」(19節)と言われました。これはイエスの復活が私たち自身の復活に結びつくからです。復活信仰とは、単なる知識ではなく、日々の私たちの生活に現されるものです。

イエスは続けて、「その日には、わたしが父におることが・・あなたがたにわかる」(20節)と言われました。イエスはご自身のいのちが御父のうちに守られていることを確信しているからこそ、いのちを投げ出すことができたのですが、それが明らかになるのです。

そればかりかイエスは、「あなたがたがわたしにおり」ということがわかると言われました。これは、私たちの「いのち」がイエスご自身によって守られていることを意味します。イエスの十字架が自分の罪のためであったと信じる者は、すでに「新しい天と新しい地のいのち」を生き始めています。それは肉体的な死を乗り越えた「永遠のいのち」です。

同時に、イエスは、「わたしがあなたがたにおる」ことがわかるとも言われました。十字架に架けられたローマ帝国の犯罪人を、救い主と信じられること自体が、イエスの霊が私たちのうちに住んでおられることの最大のしるしです。つまり、御父と御子との相互内在の神秘が、イエスと私たちの間にも成立するのです。

パウロはコリントの人々に向けて「私はあなたがたを、清純な処女として、ひとりの人の花嫁に定め、キリストにささげることにした」(Ⅱコリント11:2)と言っていますが、イエスと私たちの関係は恋愛関係にも似ています。それは互いに、「あなたは私の命より大切です。寝ても覚めても、私はあなたのことばかりを思っています」と言い合うような関係です。

その愛の真実さは、たとえば、その人の些細な言葉を覚えていて、誕生日にその人の願い通りのものを贈ることができるようなことに現されます。

それと同じように、イエスへの愛は、イエスのことばをどれだけ真実に受けとめ実行しているかに現されます。そのことが、「わたしの戒めを保ち、それを守る人は、私を愛する人です」(21節)と表現されます。

これは、私たちが日々イエスの命令を実行することができるということ以前に、イエスの御教えに注目し続けることを意味します。「守る」の中心的な意味は、「注目する」ことにあるからです。

それは旧約、新約を通じて同じです。私たちがイエスの教えを行動で現すことができないのは、イエスのことばを日々、十分に思い巡らしてはおらず、イエスのことばが私たちの心を動かすには至っていないからです。

しかも、イエスは、「わたしを愛する人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自身を彼に現します」(21節)と保証してくださいました。

イエスを愛する人は、自分の身を守ることに気を使う必要はありません。自分の「いのち」が、天地万物の創造主によって守られているという真理に憩うことができるからです。そこに真の自由があります。その神秘を星野富弘さんは次のように表現しました。

「いのちが一番大切だと思っていたころ、生きるのが苦しかった。

いのちより大切なものがあると知った日、生きているのが嬉しかった。」

3.「わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます」

この時、イスカリオテでないユダがイエスに、「主よ。あなたは、私たちにはご自身を現そうとしながら、世には現そうとなさらないのは、どういうわけですか」(22節)と尋ねました。それはイエスが十字架を前に弟子たちと隠れるように最後の晩餐を守っている中での言葉ですが、その無神経さに呆れるほどです。

イエスはそれに正面から答える代わりに、「だれでもわたしを愛する人は・・」(23節)と今までのことばを繰り返します。信仰の核心はイエスへの愛だからです。

主は、天から万人にご自身の真理を示すということよりも、愛し愛される相互の関係で現そうとしておられます。多くの人々はイエスを知的に理解しようとしますが、それでは限界があります。それは、恋愛感情が説得で育たないのと同じようなものです。

しかもイエスは、「わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます」(23節)と約束されました。何と御父と御子とが一体となって、私たちとともに住んでくださるというのです。これは聖霊が彼らのうちに住まわれることを指しています。

聖霊は、御父の霊であるとともに、御子イエスの霊でもあられるからです。それこそ、三位一体の神秘をあらわすことばです。

さらにイエスは、「わたしを愛さない人は、わたしのことばを守りません」(24節)と言われますが、ここでも「守る」とは何よりも「注目する」ことを意味します。私たちはだれでも、心から尊敬する人と出会ったときに個人的に語りかけられたことばは、いつまでも覚えているものです。それと同じように、イエスへの愛は、主のみことばをどれだけ心に刻まれているかに現されます。

しかも、イエスはさらに、「このことをわたしは、あなたがたといっしょにいる間に・・話しました」(25節)と言われますが、それは彼らが今後はイエスのことばを直接には聞けなくなることを示唆します。

私たちは、「弟子たちは、直接にイエス様のことばを聴くことができて羨ましい」とも思いますが、彼らが聴くことができたのはごく短期間に過ぎず、しかも、そのときはまったく意味を理解できていませんでした。私たちとあまり変わりがないのです。

しかし、イエスが彼らの目の前から見えなくなっても、「助け主」が、イエスの御名によって、父なる神ご自身から直接に遣わされます。そして、「聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせて下さいます」(26節)と言われます。

イエスは既に弟子たちに十分教えましたが、彼らは理解できませんでした。それはまるで水の中に入らずに泳ぎ方を教えているようなものだったからです。しかし、彼らが実際に海でおぼれそうになる時、聖霊ご自身が、まるでイエスが傍らにおられるように、彼らに教え、思い起こさせてくれるのです。

イエスは、「わたしは、あなたがたに平安を残します・・わたしの平安は・・世が与えるのと違います」(27節)と言われました。世の平安は、問題がない状態を意味しがちですが、イエスの平安は、何よりもご自身の十字架で見られたものです。

同じように私たちはその平安を人生の嵐のただ中で体験することができます。だからこそイエスは、ここで、「あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません」(27節)と言われました。それは、心の不安定な私たちを攻める言葉ではなく、「父なる神とイエスご自身が、あなたとともにいて、あなたを守り続けるから、心配しなくても大丈夫だよ・・・」という意味です。

そしてイエスは、今までのことばを要約するように、「わたしは去って行き、また、あなたがたのところに来る」(28節)と言われます。これはご自身の十字架と復活を指します。

しかし、弟子たちは、とうてい、イエスが十字架に架かり、復活し、父なる神のもとに行かれることを喜ぶことができるはずはありません。それは人間の目には、イエスの働きが中途半端なまま閉じられることを意味するからです。

しかし、イエスのみわざは、ご自身の弟子たち、また私たちを通して続いて行くのです。そのために私たちに、「助け主」「真理の御霊」である聖霊が与えられているのです。そして、その恵みは、弟子たちには、イエスが目の前からいなくなったときに初めて、心の底から理解できることでした。

私たちも、自分の小さな世界を守ることばかりに汲々としているときには、この恵みは体験できないことでしょう。

イエスはこれらの後、「わたしは、もう、あなたがたに多くを話すまい。この世を支配する者が来るからです」(30節)と言われました。それはイエスを十字架に架けることができるローマ帝国の権力であり、それを動かすサタンの力です。

全世界は父なる神のご支配の中にあることは確かなのですが、同時に、サタンには私たちを誘惑し、災いをもたらすことが許されています。そして、人々がこの世の権力やお金の力に惑わされているという現実自体がサタンの支配を現します。皮肉にも、自分の富と権力を誇り、神もサタンの力も信じない人こそ、サタンの支配下にあるのです。

しかし、イエスは、「彼はわたしに対して何もすることができません」と付け加えます。なぜならイエスは、ご自分の意志で十字架に向かっておられるからです。

そのことをイエスは改めて、「わたしが・・・父の命じられているとおりを行なっていることを世が知る」と言われました。今や、十字架は、刑罰のしるしではなく、愛のシンボルになっていますが、それは父のみこころを「世が知る」ようになった結果です。十字架は、敗北者のしるしではなくなりました。

そして同じように、私たちもこの世でサタンの攻撃にさらされますが、彼は私たちの「いのち」を奪うことはできません。

私たちに求められていることは、ただ、自分が肉の力ではサタンの支配権に対抗できないことを知って、ただただ、「主よ、あわれんでください。私にあなたの力を示してください」と、神にすがることだけです。信仰とは、自分の徹底的な弱さを心から認めて、主にすがることに他なりません。

イエスは最後に、「立ちなさい。さあ、ここから行くのです」(31節)と言われましたが、それはイエスが権力者に捕らえられることを指します。

私たちもこの世の支配者との戦いに派遣されます。しかし、恐れることはありません。イエスと同じ「もうひとりの助け主」であられる聖霊がともにいてくださるからです。

私たちが今ここで、ともにイエスを礼拝しているのは、御霊が私たちを教え、イエスのことばを思い起こさせて下さった結果です。あなたが自分自身の惨めさを味わい、その中でみことばによって慰めを受けたという体験を、軽く受け取ってはなりません。それこそが、「もうひとりの助け主」のみわざでした。

私たちはイエスへの愛のゆえにそのことばに従います。そこで傷ついたとしても、そのただ中で、御霊のみわざによりイエスの平安を体験できるのです。

聖霊は今、私たち一人一人を「小さなイエス」として受け入れて世に遣わし、神の国をこの地に広げてくださいます。主のヴィジョンをともに味わいましょう。