申命記1章〜4章8節「このような神を持つ偉大な国民」

2016年8月28日

自分をシンデレラやピーターパンのように思うと「現実に失望」します。一方、「自分に失望」する人は、困難を前に立ちすくみます。

他宗教の経典と比較すると分かりますが、聖書は、正しい生き方を示す規範である以前に、神の民の波乱万丈に満ちた興味尽きない歴史の物語です。そこには神の御教えを受けた神の民が、とんでもない罪を犯したり、不従順のために途方もない遠回りをした失敗の記録が詳しく描かれています。

しかし、神はそんな民を繰り返し赦し、忍耐の限りを尽くして導いてくださいました。

神の民の物語は、自分の物語でもありますが、その全体を通して、神の救いの物語があります。そこで語られたみことばは、時空を超えて現代人の心の奥底に語りかけます。

その神の物語の中に自分の人生の物語を位置づけると、神の優しい眼差しから見た自分の姿が見え、希望と勇気が湧きます。

1.「神は侮られるような方ではありません」

申命記というタイトルはギリシャ語七十人訳の「再述された律法」に由来しますが、へブル語では、冒頭の「これはことばである」が書名になっており、「モーセが……イスラエルのすべての民に」、ヨルダン川の東、死海の北東のモアブの地で述べた長い告別説教と位置づけられます。

出エジプト記から民数記では「主(ヤハウェ)はモーセに仰せられた」と繰り返されますが、この書ではモーセが神から委ねられた権威をもとに「私が命じる」と、大胆に今まで語られた主の命令を熱く説教します。彼らは約四十年前にシナイ山で律法を受けましたが、当時の成人男性はみな死に絶え、モーセも約束の地を目の前に死ぬことが明らかだったからです。

それに続く、「ホレブから、セイル山を経てカデシュ・バルネアに至るのには十一日の道のりである」(1:2私訳)という表現に、本来だったらエジプトを出た第二年目に約束の地に入っていたはずなのに、今は「第四十年目の第十一月」(1:3)なったという痛みの思いが込められます。彼らは、シナイ山から十一日間で約束の地の手前に来るはずが、38年間もかかった後の「第十一月」になったのです。

彼らはホレブ(シナイ山)に約一年間滞在しました(出エジプト19:1、民数記10:11)。それは、彼らが「祭司の王国、聖なる国民となる」ための御教え(トーラー)を受けとり、また神の臨在のしるしである「契約の箱」を中心とした幕屋を建てるための期間でしたが、それも延長されたためです。

彼らはその間、モーセがなかなかシナイ山から降りてこないことに不安になり、金の子牛を作って拝み、神の激しい怒りを受けて滅ぼされそうになります。しかし、モーセの必死の執り成しにより、神は彼らを赦し、二回目の「十のことば」を記した「石の板」を授けてくださいました。契約の箱には、その石の板が入れられ、その後の旅路のことが、「イスラエル全家の者は旅路にある間、昼は主(ヤハウェ)の雲が幕屋の上に、夜は雲の中に火があるのを、いつも見ていた」(出エジプト40:38)と描かれていました。

新約の時代は、主の御教えは神の霊によって、「石の板にではなく、人の心の板に書かれた」(Ⅱコリント3:3、エレミヤ31:31-34)と記され、このキリスト者の交わりこそが、「神の神殿であり、神の御霊が……宿っておられる」(Ⅰコリント3:16)と定義されます。新約時代の私たちは、この神の民の共同体に属することで、昼も夜も、主の雲によって導かれるという歩みをします。

その後の主のご計画は、本来、彼らをまっすぐ北上させ、カデシュ・バルネアを通って「エモリ人の山地」に導き入れ、「その近隣のすべての地」を支配させるばかりか、レバノンを経て大河ユーフラテスに至る広大な地を短期間に支配させるものでした(1:7)。

その際、主は、「見よ。わたしはその地をあなた方の手に渡している。行け、その地を所有せよ。これは、主(ヤハウェ)があなたがたの先祖アブラハム、イサク、ヤコブに誓って、彼らとその後の子孫に与えると言われた地である」(1:8)と仰せられました。

聖書の物語の核心は、神は、人の不従順にも関わらず、ご自身の約束を必ず実現されるという神の誠実さの証しです。この約束は、私たちにとって「新しい天と新しい地」をキリストと共に支配することに結びつきます。

その際モーセは、「私だけでは……重荷を負うことはできない」(1:9)と言い、重荷を分かち合える多くのリーダーを立てますが、この地では一つの問題の解決は必ず次の問題の始まりを意味します

彼はカデシュ・バルネアで、「あなたの神、主(ヤハウェ)は、この地をあなたの手に渡されている。上れ。占領せよ……恐れてはならない。おののいてはならない」(1:21)と述べました。それは、前進さえするなら、勝利は確実という意味です。ところが、十二人の各部族のリーダーが派遣され、約束の地を探索させると、彼らはそこに巨人族のアナク人を見たと言い、人々を怯えさせます。

それで彼らは、「主(ヤハウェ)は私たちを憎んでおられるので……エジプトの地から連れ出してエモリ人の手に渡し……根絶やしにしようとしておられる」(1:27)などと、神の愛を憎しみとして解釈しました。

それに対しモーセは、「あなたがたの神、主(ヤハウェ)が……戦われる……荒野では……全道中、人がその子を抱くように、あなたの神、主(ヤハウェ)が、あなたを抱かれたのを見ているのだ」とその恵みを思い起こさせます(1:30,31)。それはエジプトの王に示した十の災いや、紅海を二つに分けて民を通らせ、その後にエジプト軍を海の底に沈めたこと、また天からマナを降らせ、岩から水を湧き出させたことに現されていました。

そしてここでモーセは、主の圧倒的な導きを再び、「主は……先に立って行かれ、夜は火のうち、昼は雲のうちにあって……道を示される」(1:33)と改めて描きました。

私たちも目の前の恐怖に圧倒され、愛の神を、意地悪な神と言いたくなることがあるかもしれません。しかし、そんな時モーセのように、神のみわざを思い起こさせることが何より大切です。

主はこの忘恩に対し、「この悪い世代のこれらの者のうちには、わたしが、あなたがたの先祖たちに与えると誓ったあの良い地を見る者は、ひとりもいない(カレブとヨシュアは例外)」(1:35)と「さばき」を下され、彼らはその後38年間もの間、当てもなく荒野をさまよう羽目になりました。

そればかりか何とモーセまでもが、「メリバの水」の事件において、彼らの不信仰に対して感情的な言動で反応してしまい、主を民の前で「聖なる者としなかった」という理由で、主の怒りを受け(民20:2-13)、「あなたも、そこに、入れない」(1:37)と宣告されました。

この地での人生では、誠実な人がいつも報われるわけではありません。あのモーセでさえ、人々の身勝手に振り回され、不当な苦しみを受けざるを得なかったのです。

罪の赦し」とは、過去の失敗が消えるという意味ではありません。人は、この地において自分ばかりか、他人の罪の結果までをも刈り取りをせざるを得ないことがあるのです。私たちは、「思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります」(ガラテヤ6:7)とのみことばを常に心にとめるべきです。

ただし、それでも、罪の赦しは決定的な意味を持ちます。主は、罪の結果の刈り取りをする者と共に歩み、ゴールも保障されているからです。そして、彼らは、この40年間の荒野の生活を通して、主に信頼することを学び、驚くほどに成長できたのです。

2.「あなたがたのために戦われるのはあなたがたの神、主(ヤハウェ)である」

1章46節では、神のさばきとしてイスラエルの民は、約束の地の南の入り口、ネゲブの南のカデシュ・バルネアに「長い間……とどまった」と描かれ、2章1節では「私たちは向きを変え……葦の海への道を荒野に向かって旅立って、その後、長らくセイルの山のまわりを回っていた」と記されます。

セイル山は、死海からアカバ湾にいたる大地溝帯の東にある広大な山岳地帯全体を指し、そこはエサウの子孫のエドム人の領土でしたから、彼らが「セイル山のまわりを回る」ことはできなかったはずで、「ふちに沿っていた」と訳した方が良いかもしれません。とにかくイスラエルの民の38年間の歩みは謎に満ちています。

ただここでの要点は、イスラエルが38年間エドムの西側をさ迷っていたことが、どれだけ「エサウの子孫(エドム)にとって脅威であったかを思い起こさせることにあります。神は、一度は民を北に向かわせますが民数記20章14-21節にあるように、エドムは領土の通過を許しませんでした。それで彼らはアカバ湾の入り口のエツヨン・ゲベルまで南下して(2:8)、エドムの地を南から大きく迂回して、ヨルダン川の東に向かうことになります。

そしてそのようにした理由が、「彼らに争いをしかけてはならない。わたしは彼らの地を、足の裏で踏むほども、あなたがたには与えない」(2:5)と言われたと記されます。

またその北北東に位置する「モアブ人」に関しても、「彼らに戦いをしかけて(敵対して)はならない……わたしはロトの子孫に……所有地として与えたからである」(2:9)と言われました。

そして、13、14節では、「今、立ってゼレデ川を渡れ」と命じられ、「カデシュ・バルネアを出てからゼレデ川を渡るまでの期間は38年間であった。それまでに、その世代の戦士たちはみな、宿営の中から絶えてしまった」と描かれます。

また19節では改めて、モアブばかりか、同じロトの子孫の「アモン人」に「争いをしかけてはならない。ロトの子孫に……所有地として与えているからである」と記されます。

彼らはイスラエルの敵となり得る民でしたが、主は彼らとの平和を望んでおられるのです。それは、主がかつてアブラハムに、「あなたを祝福する者をわたしは祝福し」(創世記12:3)と約束されましたが、ロトは彼にとっての大切な親族だったからです。

しかし、主はその後、「立ち上がれ……アルノン川を渡れ。見よ。わたしはヘシュボンの王エモリ人シホンとその国とを、あなたの手に渡す。占領し始めよ。彼と戦いを交えよ。きょうから、わたしは全天下の国々の民に、あなたのことでおびえと恐れを臨ませる。彼らはあなたのうわさを聞いて震え……わななこう」(2:24,25)と仰せられます。この瞬間に、逃亡奴隷の集団が中東最強の民に変えられました

ただ、モーセはシホンに最初は和平を申し込みます。しかし、主はシホンの「心をかたくなにされ」(2:30)、彼をイスラエルの「手に渡され……ひとりの生存者も残さなかった」(2:33,34)という聖絶がなされます。

続いて3章では、「バシャンの王オグ」との戦いが描かれます。そこではバシャンの中心地エデレイでの戦いに際し、主(ヤハウェ)は、「彼を恐れてはならない。わたしは、彼と、そのすべての民と、その地とを、あなたの手に渡している」(3:2)と言われ、結果的に60の町をも含むがガリラヤ湖北東部からヨルダン川東の広大な地を支配することになります。

これは、彼らが以前恐れていた巨人族の代表のような王に対する勝利でした。そのことが象徴的に、「見よ。彼の寝台は鉄の寝台……その長さは、規準のキュビトで九キュビト、その幅は四キュビトである(長さ4m、幅1.8m)」(3:11)と述べられています。

これらの地はマナセの半部族とガド族、ルベン族に分配されましたが、彼らの戦士たちも全イスラエルと共にヨルダン川を渡ってカナンの国々と戦うように命じられます(3:18)。

そしてモーセはヨシュアに、「あなたは……主(ヤハウェ)が、これらのふたりの王になさったことをその目で見た」(3:21)と言って、この二つの戦いが、ヨルダン川を渡ってからの戦いの模範になることを示します。そして、「彼らを恐れてはならない。あなたがたのために戦われるのはあなたがたの神、主(ヤハウェ)であるからだ」(3:22)と命じました。

その後、モーセは主に改めて、「あなたの偉大さと……力強い御手とを……示し始められました……どうか、私に……ヨルダンの向こうにある良い地……およびレバノンを見させてください」と懇願します(3:23-25)。彼は今までの苦労が報われ始めたことを感動してこう願ったのでしょうが、主は断固として拒絶されました。このことを彼は、「しかし主(ヤハウェ)は、あなたがたのために私を怒り……」(3:26)と言いますが、そこには深い悔しさや悲しみが込められています。

その際、主は彼に「ピスガの頂に登って……その目でよく見よ」(4:27)と言われ、後の働きをユシュアに任せるように言われます。

私たちのこの地での働きも、「これから……」というところで閉じられることがあります。しかし、後継者が先導者の痛みを理解することは働きの継続にとって何よりも大切なことです。人は、人の成功からではなく失敗からより多くを学ぶからです。

これらを通して、主ご自身が土地の真の支配者であり、アブラハムへの約束に真実に守られることが示されます。イスラエルの責任は、その主に信頼し、主の力と真実を証しすることでした。

確かに、主は、彼らを用いてエモリ人の罪を裁かれたのですが、これから約七百年後、イスラエルの「咎が満ち」(創15:16)た時は、主は驚くほど野蛮なバビロン帝国を用いて彼らの国を滅ぼします。つまり、神が敬虔な民を用いてこの世の悪を滅ぼす?という「聖戦の思想」を聖書から引き出すことはできません。

事実、その六百年後のイエスに関しては、「キリストも……あなたがたに模範を残されました。キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました」(Ⅰペテロ2:21-23)という正反対の模範が述べられます。

そして当時も今も共通するのは、「恐れてはならない。あなたがたのために戦われるのはあなたがたの神、主(ヤハウェ)であるから」(3:22)という原則です。自分よりも強大な敵に立ち向かうことも、右の頬を打たれて左の頬を差し出すことも、圧倒的な敵や困難に背を向けないという点では同じことなのです。主が共にいてくださるからこそ、私たちは困難に立ち向かうことができます。

3.「このような神を持つ偉大な国民が、いったい、どこにあるだろう」

モーセはこれらを振り返って、「今、イスラエルよ。あなたがたが行うように私の教えるおきてと定めとを聞きなさい。そうすれば、あなたがたは生き、あなたがたの父祖の神、主(ヤハウェ)が、あなたがたに与えようとしておられる地を所有することができる」(4:1)と結びます。

「おきて」とは本来、石に刻まれ変えられないようにされた布告ですが、ときに「処方箋」のような意味で用いられることもあります。それは自分勝手な解釈で使い方を変えてはいけないものです。

また、「定め」の中心的な意味は「治める」とか「さばく」ことで、日々の生き方、振る舞い方につながるものです。それらは決して、人に制裁を加えるための基準ではなく、私たちがこの地で、日々、安心して幸せに過ごすことができるための決まり事や振る舞い方を意味します。

たとえばある家庭に厳しい門限のルールがあったとしても、その背後には、親の一貫した愛情があるものです。その不自由さが問題なのではなく、親の意図が通じなくなっていることこそが問題にされなければなりませんし、それは子供が自分の勝手な判断で変えてはならないものです。何よりも、ここでは、「そうすれば……生き……地を所有することができる」という神の約束に目を留めるべきです。

続けて、その「ことばに、つけ加えてはならない。また減らしてはならない……あなたがたの神、主(ヤハウェ)の命令を、守ら(注目し)なければならない」と命じられます。サタンは、神のみことばを気づかれないように歪めることで、人を破滅に追いやるからです。みことばは文脈から解釈し、うる覚えではなく、聖書を開いて引用する必要があります。

その上でモーセは特に、「バアル・ペオルに従った者はみな、あなたの神、主(ヤハウェ)があなたのうちから根絶やしにされた。しかし、あなたがたの神、主(ヤハウェ)にすがってきたあなたがたはみな、きょう、生きている」(4:3,4)という、死ぬか生きるかの対比を示します。

信仰の核心とは、自分の知恵や力の限界を認めて、「主にすがる」ことです。世の人々は、目に見えない神に「すがる」信仰を軽蔑します。しかし、全知全能の主により頼む恵みは、結果で明らかになります。

5、6節ではモーセが改めて、主が命じられた「おきてとさだめ」を、約束の地において、「守り行いなさい」と命じますが、その結果が同時に、「そうすれば、それは国々の民に、あなたがたの知恵と悟りを示すことになり」と途方もない祝福が約束されます。

そして、彼らが主に従うことで、「国々の民」はイスラエルを、「この偉大な国民は、確かに知恵のある、悟りのある民だ」(4:6)と尊敬するようになるというのです。

これは、主の御教え(トーラー)が与えられた目的を、主が出エジプト19章5,6節で、かつて「あなたがたはすべての国々の民の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。あなたがたはわたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる」と言われたことが成就するという意味です。

そして、「まことに、私たちの神、主(ヤハウエ)は、私たちが呼ばわるとき、いつも、近くにおられるこのような神を持つ偉大な国民が、どこにあるだろうか。また、きょう、私があなたがたの前に与えようとしている、このみおしえのすべてのように、正しいおきてと定めとを持っている偉大な国民が、いったい、どこにあるだろう」(4:7,8)と述べられます。

私たちも偉大な民と呼ばれます。それは、人間的な力や知恵ではなく、偉大な神に祈ることができ、偉大な神のみ教えを受けているからです。私たちは自分のアイデンティティーを個人ではなく、天地万物の創造主との関係の中で見直す必要があります。

主の「おきてと定め」というは決して難しいものではありません。私自身、証券会社の社員として過ごした十年間、自己嫌悪に陥るような仕事をしたことも、「お前はそれでもクリスチャンか」となじられたこともあります。しかし、教会の礼拝を意図的に休んだ記憶はありません。時には、仕事よりも礼拝を優先しました。それは、決して自慢できることではなく、「主にすがる」ことなしに課せられた責任を全うする自身が無かったからです。

そして、不思議に、私が苦難の中で主を「呼ばわるとき、いつも近くにおられ」ということは証しできます。また、周りの未信者の方は、私を嘲ったとしても、私の信じる「聖書」を軽蔑する人はほとんどいませんでした。

今、神とイスラエルの間に交わされた約束が、異邦人を含むすべてのキリスト者に実現しています。私たちも、イスラエルの民が受けた約束を自分のものとさせていただけたからです。

ペテロはそのことを、「あなたがたは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です」(Ⅰペテロ2:9)と記しています。そしてその目的が、「あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを」、全世界に「証しする」ためであると記されます。

それは、神のすばらしさをことばで宣伝するというよりも、主のみことばに従う民の群れのすばらしさを通して、世に証しするという意味です。それは、私たちがイエスの命令に従って、「互いに愛し合う」ことを通して実現されます。

私たちの人生でも、主の約束を信じられなくて遠回りしてしまったということがあるかもしれません。しかし、それを通して信仰が養われたという面もあることでしょう。また、この世の様々な不条理を怒りながら、「言ってはならないこと、やってはならないこと」をしたという後悔があるかもしれません。目の前の敵や困難に背を向け逃亡したことを恥じているかもしれません。

しかし、ひとりひとり、そこでイエスと出会って、再び、このように礼拝の交わりに加わることができました。そこに神の救いの物語があります。

私たちも、日々様々な困難に直面しますが、祝福の秘訣は、「祈り」と「みことば」です。詩篇は、私たちの祈りを導く書ですが、その最初に「幸いな人」は、「主の教えを喜びとし、昼も夜もその教えを口ずさむ(思い巡らす)」と記されます。

三千数百年前のモーセの説教は、まさに今の時代に生きています。はるか昔の見知らぬ民の物語に私たちの人生を重ねて見るとき、あなたも「幸いな人」になれるのです。