民数記33章51節〜36章「境界線 (バウンダリー) を守る生き方」

2016年8月7日

子供が他の子供と争うときに発する最初のことばは、「これは私のもの!」なのかもしれません。以前は、これは第一反抗期などと、否定的に見られてきましたが、最近は、自我形成期として積極的に捉えるようになってきています。

それは、「神のかたち」に創造された者が、自分の責任範囲を明確に意識し出す大切な時期であるとも言われます。それは各個人の境界線が形成される時期とも言えましょう。

人や仕事との適度な距離感を保てない人が増えていますが、それぞれの責任領域を明確にする「境界線(バウンダリー)」を確かめることは極めて有効です。愛の交わりは、「甘え」の共依存関係ではなく、互いが主体的に責任を担い合う関係です。

本日の箇所のテーマは約束の地、また分配された相続地の「境界線」です。そこから、家族や仕事に関わる「主のみこころ」とは何かが見えてきます。

1.カナンの境界線(バウンダリー)と私達の境界線

イスラエルの民は、食べ物にも水にも事欠く荒野の40年の生活を通して、神に信頼することを学び、人間的には中東最強の民族へと成長しました。

それは、私たちの信仰生活でも、この世のすべてを脇において、たったひとりで神の前に静まる霊的な荒野の体験が必要であることを指し示します。

ただし、約束の地では、偶像礼拝の文化の影響を受ける危険が待ち受けます。それで主は彼らに、「ヨルダンを渡ってカナンの地にはいるときには、その地の住民をことごとくあなたがたの前から追い払い、彼らの石像をすべて粉砕し、彼らの鋳造をすべて粉砕し、彼らの高き所をみな、こぼた(破壊し)なければならない」(33:51,52)と命じました。

その地の住民の性的退廃等の驚くべき不道徳は偶像礼拝と密接に結びついていました。神はイスラエルをその誘惑から守るため、「境界線」を設けられたのです。

イスラム教の過激派のタリバンやISが、古代遺跡の偶像を破壊する様子が報じられたことがありますが、彼らはここから生まれた教えに従っていたつもりなのでしょう。しかし、ここでは、偶像を破壊するべき土地の範囲と、それをなすべき時が明確に指定されていました。

決して、自分たちが世界中のいたるところに出て行って、そこを武力で占領し、その地から偶像を絶やすようにとは命じられていません。

しかも主は、「もしその地の住民をあなたがたの前から追い払わなければ、あなたがたが残しておく者たちは、あなたがたの目のとげとなり、わき腹のいばらとなり、彼らはあなたがたの住むその土地であなたがたを悩ますようになる。そしてわたしは、彼らに対してしようと計ったとおりをあなたがたにしよう」(33:55、56)と言われました。

つまり、その地の住民をカナンから追い払い、彼らとの「境界線」を明確にするのでなければ主ご自身がイスラエルをやがてその地から追い出すと警告されたのです。

神は、カナンの地を、失われた「エデンの園」のようにしたいと願っておられました。神が定めた「境界線」は、現在のイスラエルと同じ程度の面積が、北東部にも広がり、現在のレバノンとシリア(首都:ダマスコ)を含む広大なものでしたが、後に彼らはカナンの人々との共存を優先し、それを占領することに失敗します。

34章1節から13節では、「境界線」ということばが繰り返されますが、私達の生活でも、決してゆずってはならない「境界線、また愛と言う名のもとに超えてはならない互いの「境界線があります。

興味深いことに、エゼキエル36章35節には、イスラエルの民が神に逆らって約束の地から追い出され、その地が廃墟となった後、神の恵みによって再び回復される時の姿に関して、「荒れ果てていたこの国は、エデンの園のようになった」と言われると表現されていました。

また、神の民に与えられる祝福が、イザヤ58章11節では、「主(ヤハウェ)は絶えずあなたを導いて、焼けつく土地でも、あなたの思いを満たし、あなたの骨を強くする。あなたは潤された園のようになり、水の枯れない源のようになる」と描かれていました。

神は、本来、そのような「エデンの園」の祝福を約束の地に実現するためにこそ、神の民に律法を与え、周辺諸国の偶像礼拝の文化に呑み込まれないようにと警告してくださっていたのです。

多くの人々が自分のアイデンティティーを確立できない原因に、この「境界線」のあいまいさがあると言われます。日本には外国の様々なものを取り入れ、それを古来の文化と融合して行く恐ろしいほどの同化力があります。そして多くのキリスト者がそれに飲み込まれ、生きた信仰を失って行きました。

私たちは、この世と「壁」を作るのではなく、皮膚のように呼吸可能な「境界線」を保ち、聖書信仰と相容れないものは毅然として退けながらも、この世の経済的、文化的な成果を受け入れ生かす必要があります。

これとレビ記19章2節にある「あなたがたの神、主(ヤハウェ)であるわたしが聖であるから、あなたがたも聖なる者とならなければならない」とは密接な関係があります。ただそこでもこの世との徹底的な分離以前に、神の領域に招かれた者として、この世と調和せずに、神のご性質に倣うというのが中心点です。

パウロはそれを、「愛されている子どもらしく、神にならう者となりなさい」(エペソ5:1)と表現しました。

2.殺人の血を贖う者

35章1-8節ではレビ人への土地の分配が記されています。彼らは本来、土地の分配は受けられないはずなのですが、それでも最低限の家と家畜の放牧地が必要です。ここに記されているひとつの町と放牧地のひろさは、たったの880メートル四方に過ぎません。それら48の町が他の十二部族の土地の間に点在するようになるのです。

そして特に、そのうちの六つは「のがれの町」(35:6)として指定されました。

16節から18節まで三種類の凶器を例にあげながら意図的な「殺人者は必ず殺されなければならない」と三度繰り返されています。その上で特に、「血の復讐をする者は、自分でその殺人者を殺しても良い。彼と出会ったときに、彼を殺しても良い」(35:19)と記され、しかも誤解のないように同じ言葉が繰り返されます(35:21)。

これはまるで江戸時代の日本の仇討ちの掟のようです。この原則は現在のアラブの部族社会で生きており、コーランでは「正当な理由がない限り、人を殺してはならない。それはアラーが禁じたもうたこと。不当に殺された者は、その相続人に、われらは権利を認めておいた」(第17章33)と、殺された者の近親者に報復の権利を認めていますが、その原点がここにあるように思えます。

しかし、イエスご自身は、「復讐してはならない・・あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい」(レビ記19:18)を何よりも大切にされました。では民数記とレビ記には矛盾があるのでしょうか?

実は、「血の復讐をする者」とは、原文では「血を贖う者」と記されています。この規程の目的は、この章の結論で、「血は土地を汚す・・その土地を贖うには、その土地に血を流させた者の血による以外はない(殺人者の血を流さずに、土地を贖うことはできない)」(35:33)とあるように、神から委ねられた相続地を聖く保つ責任が、土地の相続者に委ねられたということです。恨みを晴らすことを容認するためではありません

たとえばルツ記では、ルツは、自分が嫁いだナオミの夫エリメレク家の土地を、ボアズの妻になることによって「買い戻し」てもらうことを願いました。そこではボアズが「買い戻しの権利のある親類」として位置付けられます。ボアズはルツを娶り、子を生むことによってエリメレクの家を再興し、その子孫からイスラエルの王ダビデが生まれることになる道を開きました。

その父の家の相続地の買戻しと、殺人によって汚された地を、買い戻しの権利のある親族が贖うということは、神から委ねられた土地を贖うという観点では同じことなのです。決して、復讐の正当化ではなく、神の土地を聖く保つ責任の問題なのです。

しかも、この段階では、イスラエルは部族の集合体に過ぎず、国家的な警察力がないため、これが一時的に許容されたとも考えられます。しばしば、報復の可能性こそが、家族や親族を敵の攻撃から守る最大の抑止力になることも事実ではないでしょうか。

するとこの原則は、イエスが夫たちに、命をかけて自分の妻を愛するように教えられたこと(エペソ5:25)と矛盾しません。家族の「境界線」とは、互いを守るために命をかける責任範囲にあります。それがあることは、多くの人にとって何よりの安心の源です。

そして私たちは、その家族の境界線を、血筋を越えた、「キリストのからだ」である「教会」に広げます。

ところで、明確な過失であれ、律法には、殺人の罪を贖う方法はありません。それで、明らかな殺意がなかった場合は、「復讐する者(原文:贖う者)から、その殺人者を守るための別の「境界線」が設けられました。それが「のがれの町」です(35:11,25)。彼は大祭司が死ぬまでその町から出ることが許されません。

もしその「境界(boundaries)から出て」報復されても、それは当人自身の責任とされました(35:26,27)。予期できなかった殺人の罪は、予期できない大祭司の死によってのみ贖われることができるのです。

そして、今、キリストは、私たちの大祭司として、殺人者の血からこの土地を贖うために十字架にかかられました。最初の人アダムが神に逆らって自分を神としたとき、神は彼に、「土地は、あなたのゆえにのろわれてしまった」(創世記3:17)と言われました。そしてパウロは、ローマ人への手紙8章21節で、キリストの十字架の贖いがもたらす救いを、「被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由に入れられます」と述べています。

イエスの十字架の贖いのみわざが地球全体の救いにつながるという視点を私たちは忘れがちではないでしょうか。それが「新しい天と新しい地」となるのです。

主が十字架にかかられたとき、殺人者バラバが解放され、いっしょに十字架にかけられた強盗のひとりがその悔い改めによって、イエスから「あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます」(ルカ23:43)という約束をいただきました。まさにイエスの血は、旧約で贖うことができないすべての罪を贖うものだったのです。

ですから、もはや、神の家族の境界線の内側を聖く保つために、復讐の血を流す必要はありません。既に私たちの交わりは、神の御霊が宿る「神の神殿」だからです(Ⅰコリント3:16)。私たちが互いに命がけで守るべきなのは、肉体的な命ではなく、キリストへの信仰という霊的な「いのち」なのです。

3.土地と家族の一体性

イスラエルの民は、カナンという具体的な土地の上で、神の民としての目に見える繁栄を享受し、全世界に対して主(ヤハウェ)の栄光を証しするはずでした。

ですから、主が殺人の罪に関して言われたことの結論は、「あなたがたは、自分たちの住む土地、すなわち、わたし自身がそのうちに宿る土地を汚してはならない。主(ヤハウェ)であるわたしが、イスラエル人の真ん中に宿るからである」(35:34)というものでした。つまり、「土地」こそが目に見える祝福の基盤でした。

しかも、土地の真の所有者は主(ヤハウェ)ご自身であり、彼らの責任は、主から預けられた土地を、誠実に管理し、それを子孫に受け継ぐことでした。

先の27章1-11節では、ヨセフの子マナセ族のツェロフハデの娘たちが、自分たちの父に、「男の子がなかったからといって、なぜ私たちの父の名がその氏族の間から削られるのでしょうか」(4節)と訴え、娘たちへの相続が例外的に認められました。父の名を残すことと土地を受け継ぐことが同じ意味を持つものと見られたのです。

だからこそレビ記25章では、貧しさのために土地を失ったり、奴隷となった人々が、50年毎のヨベルの年に「自分の先祖の所有地に帰ることができる」と強調され、土地と家族の一体性の回復が命じられています。

戦後の日本は、戦前の反動もあって、家族のまとまりという意識が弱く、そこに聖書を誤解したような個人主義の考え方が影響を与えているのかもしれません。しかし、本来、聖書では、父の名のもとに家族が一つのまとまりとして機能するという面を忘れてはなりません。少なくともユダヤ人は、今も昔も、社会の最小単位を、個人ではなく、家族として捉えると言われています。

これを前提に、36章では、男系のいない「ツェロフハデの相続地」(36:2)が娘たちに分配されても、それが彼女たちの結婚に伴い他の部族の所有に移らないようにという訴えが、同じマナセ族のギルアデの氏族から出されました。

結婚は新しい家族の創造ですから、ツェロフハデの娘たちが、他の部族の人と結婚するなら、土地の所有権が他の部族の夫の名で登録される可能性がありました。本来は、彼女たちに男子が生まれたら、夫の名ではなく、ツェロフハデの名によって、マナセ族の土地として受け継がれるとも解釈できたはずです。

ただ、夫を中心とした家族の一体性の観点からは、結婚によって彼女たちの土地は夫の名のもとに移動され、それが「ヨベルの年」の相続地の確認によって(36:4)、もとのマナセ族に戻る代わりに所有権の移転が確定するということになり得ます。

とにかく、このような問いかけに対して、主は、「イスラエル人の相続地は、一つの部族から他の部族に移してはならない。イスラエル人は、おのおのその父祖の部族の相続地を堅く守らなければならないからである」(36:7)と命じられます。ここに部族と土地の一体性が強調されています。

そして、それをもとに結婚に関しても、「イスラエル人の部族のうち、相続地を受け継ぐ娘はみな、その父の部族に属する氏族のひとりにとつがなければならない」と命じられます。そして、改めて、「こうして相続地は、一つの部族から他の部族に移してはならない・・・おのおのその相続地を堅く守らなければならない」(36:8,9)と命じられることになりました。

昔からどの国でも、土地の所有権の移動が認められることで、土地が商品のように売買され、大地主と小作にわかれ、人が人を支配する階級制度ができました。

神は、イスラエルの民がご自身の前でみな同じ立場に立ち、互いを兄弟として、同じ父なる神を礼拝する信仰共同体を作ろうとされたのです。

この原則は、現代にも適用されます。それぞれの仕事は、土地と同じように神様から管理を委ねられたものであり、そこから生まれる収入は、神の前での責任を果たしたことへの報酬です。神がイスラエルの民の間の平等を望まれたように、私たちは仕事において、人の奴隷になってはなりません

また土地の上に家族が築かれたように、仕事を家族全体の課題と見るべきではないでしょうか。確かに、現代の社会では、旧来の夫婦の分業のパターンは稀になって来ています。しかし、それでも夫または妻の仕事は、広い意味で、神がひとつの家族に与えてくださった共同の責任であると考えることもできるのではないでしょうか。

互いの仕事への無用な口出しは危険ですが、家族の精神的な支えが過小評価されてはなりません。たとえば夫の仕事を妻が尊敬しないことが子供の社会適応の障害となっている場合もあります。父親に誇りを感じさせられる母親は、子育ての最も大切な責任を果たしているとも言えます。

改めて、聖書が描く「家族」とは何かと、考え直す必要があります。また同時に「キリストのからだ」としての教会も、礼拝者それぞれの仕事に誇りを覚えさせ、支え、この地の働きに遣わしている家族なのです。

主がイスラエルに土地を割り当て「境界線」を定められたのは、「主は荒野で、獣のほえる荒地で彼を見つけ、これをいだき、世話をして、ご自分のひとみのように、これを守られた」(申命記32:8-10)からでした。

私たちも「神のひとみ」のように尊い存在であるからこそ、それぞれに果たすべき責任の「境界線」が与えられています。それは仕事であり、肉の家族であり、神の家族です。私たちは、個人と個人との関係ばかりか、家族や教会という「共同体」としての「境界線」を見直すようにと、聖書から問われています。

自由教会の群れでは、個々人の良心の自由、各個教会の自治が何よりも尊重されます。それは、各個人、各家族、教会として各々の決めるべきことの責任が明確になっていることを意味します。

それは、人の心の中に土足で踏み込まないこと、他の家族の教育方針や生き方に立ち入らないことをも意味します。もちろん、助けを求められた時には、ときに境界線を越えて入り込む必要もありましょうが、それぞれの自主性を損なうような介入は、厳に慎むべきでしょう

日本的な村社会の中では、過剰な残業や頻繁な人事異動による転勤など、それぞれの家族の自立性をあまりにも軽視してきた面があります。

一方で、従来の福音派の教会が、「聖さ」という面をこの世の偶像礼拝の文化からの断絶にばかりに目を留めてきたことへの反省も生まれています。

伝道者の書の解説の拙著「正しすぎてはならない」が、福音派の教会で好意的に受け入れられたことには内心驚かされています。それだけ、聖さを守る「境界線」の捉え方が変わって来たのだと思われます。人間的な戒めでこの世との分離をはかるのではなく、「聖さ」の創造主である聖霊のみわざに信頼して、大胆に世に出て行くことが求められています。

イエスの時代まで、神の民を偶像礼拝の異教徒から分離して、「聖さ」を保つために最も効果を発揮したのは食物律法でした。それによってユダヤ人は異邦人とともに食事をすることが不可能になっていました。

しかし、ペテロが、ローマの百人隊長の家に招かれ、躊躇していた時、主は彼に、「神がきよめた物を、きよくないと言ってはならない」(使徒10:15)と答え、「境界線」の概念を変えてくださいました。

今、私たちがこの教会で、ともに礼拝し、ともに食事をいただくこの交わりは、かけがえのないものです。ここにも「境界線」がありますが、それは外部の人を次々と受け入れながらも、「キリストのからだ」という、この世とは区別される「聖さ」を保つ交わりです。

そしてそれは、現代の「のがれ町」でもあります。聖霊の導きによって、互いのために祈り合うことで、この「境界線」が健全に保たれるのです。