ヨハネ15章9〜25節「イエスの友とされ、互いに愛し合う」

2016年10月30日

多くの信仰者は、「私はイエス様を信じて、このように変えられました」と、自分が結ぶことができた「実」の現実から、イエスのすばらしさを証ししようとします。しかし、これはイエスご自身よりも自分に目を向けるという信仰の落とし穴にはまる危険があります。

「実」に関しては、徐々に当初のような結果が見えなくなるのは当然の成り行きですから、「私が昔のような実を結べなくなったのは、ぶどうの木であるイエスへのつながり方が悪いのでは・・」と、ますます自分に目が向かいます。それは、怠惰な人ではなく、ハドソン・テーラーのような偉大な信仰者と称される人が陥った罠でもありました。

彼はその時期の葛藤を、「私は、祈り、苦しみ、断食し、努力し、決意をし、もっと忠実に聖書を読み、黙想するために、より多くの時間を求めた。しかし、すべては無駄だった。毎日、ほとんど毎時間、罪の自覚に私は押し付けられていた・・主は真実に強くあられるが、私は弱い。根や幹に豊かな栄養があることは十分知っているが、実際にそれをどのようにして私の小さな枝に受けることができるかが問題だったのだ」と記しています。

しかし、信仰とは、目に見える現実を超えて、神の愛の中に憩うことに他なりません。

彼は37歳になったある時を境にして、キリストに生きていただくという解放感に満たされました。

彼は、「ぶどうの木と枝のことを考える時、祝福の聖霊は何とすばらしい光を私の魂に注ぎこまれたことだろう・・・私は、私が主のからだの一部分であることを知ったのだ!・・・よみがえり、昇天された救い主と真実に一体であること、キリストの枝であるのは、何とすばらしいことか!・・・キリストが富んでおられ、私が貧しいということがありえようか。頭が十分に養われているのに、からだが飢えているということがありえようか」と記しています。

自分の目が、自分自身からイエスに向かうことに真の救いがあるのです。

ところで、友情は古代に称揚されたが、今は軽んじられていると言われます。夫婦愛がなければ私たちは生まれなかったでしょうし、家族愛がなければ私たちは育ちませんでした。

ですからこの世は夫婦愛や家族愛に大きな価値を認めますが、友情は忘れられがちです。しかし、友情のない人生は、何と貧弱なことでしょう。イエスは「ぶどうの木」のたとえの後に、「友の関係」に焦点を当てられました。

1.「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました」

イエスは、「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい」(9節)と言われますが、これは多くの人の福音理解に反するかもしれません。多くの人は、「父なる神はイエスを私たちの身代わりに苦しめたが、イエスは御父を愛し続けた」と考え、私たちにもそのような従順が求められていると思いがちかもしれません。

確かに、御父はイエスを十字架の苦しみの中に送り込もうとしておられるのですが、イエスは、まず、「父がわたしを愛された」ということを思い起こさせます。それは、御父がイエスに幸福を与えたというよりも、御父がイエスを信頼し、ご自身のみこころを分ち合い、すべてをお任せになったという現実を指します。ここでの「愛」とは、その「信頼」を意味します。

そしてイエスが御父に倣って弟子たちを「愛した」とは、弟子たちを「友」と呼び、イエスが御父からすべてを任してもらったように、イエスが弟子たちにご自身の働きを任せたことを意味します。

イエスは、「わたしの愛の中にとどまりなさい」と言われ、10節では、「わたしの戒めを守る」ようにと言い換えられます。それは「規則を守る」というのではなく、イエスのことばを徹底的に尊重し、思い巡らすことを意味します。またそれは、イエスご自身が御父の「戒めを守って」、御父の「愛の中にとどまっている」のと同じだというのです。

そして、続けて11節では、「わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたの喜びが満たされるためです」と言われます。イエスがご自分の十字架を前に、「わたしの喜び」と言われるのは何とも不思議ですが、それはご自身が、十字架を通しても、御父の愛の中に守られているという自覚から生まれることです。

イエスは「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです」(12節)と、今ここで、たまたま一緒に集っている礼拝者の交わりに向かって、「互いに」と語っておられます。

主は、最後の晩餐で弟子たちの前に跪いて彼らの足を洗い、「あなたがたも互いに足を洗い合うべきです」(13:14)と言われ、また、「もしあなたがたの互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです」(13:35)と約束されました。

私たちはイエスのすばらしさを知って欲しいと願いますが、それは抽象的な概念ではなく、目に見える信者どうしの交わりとして具体的に証しされるというのです。

人によっては「それなら私は、もっと愛するに価する人々が集る教会でこの命令を実践したい」などと思うかもしれません。しかし、聖書の愛を表すギリシャ語の「アガペー」に最も近い日本語は「尊敬」であり、尊敬に価しない者を尊敬することこそが神の愛です。

日本では、主君のためにいのちを捨てることができた人がいたかも知れませんが、イエスは、「人がその友のためにいのちを捨てるという、これより大きな愛は持っていません」(13節)と、欠けだらけの信仰の友を、自分の主君であるかのように尊敬することを命じたものです。

2.「わたしはあなたがたを友と呼びました」

ところでイエスは、「友のためにいのちを捨てる」ことのすばらしさを語りながら、「わたしがあなたがたに命じることを・・行なうなら、あなたがたはわたしの友です」(14節)と条件付きとも思われる祝福を約束されました。

悲しいことに、第一次大戦時の英国では、この13、14節が繰り返し多くの集会でメッセージされ、歌われて、若者たちがドイツとの戦争の前線に駆り出されて行ったとのことです。

しかし、これは、「あなたが友のためにいのちを捨てる覚悟を持たないならば、イエスの友になることはできない」という意味ではありません。ここの文脈では、イエスがまずご自分の弟子たちを「友」と呼びつつ、ご自身がその「友のためにいのちを捨てるということを明らかにし、改めて、弟子たちに、「わたしはもはやあなたがたをしもべとは呼びません。しもべは主人のすることを知らないからです。わたしはあなたを友と呼びました」(15節)と言っておられます。

これは指導者が、部下を「しもべ」扱いしながら、命がけで戦うように命じることではなく、部下を「友」と呼びつつ、自分のいのちを犠牲にし、その姿に倣った人を、「あなたは真実に私の友だ」と称賛するという文脈です。

これは、「いのちをかける」覚悟のない、命令するだけの指導者が使う言葉ではありません。しかも、主が弟子たちを「友」と呼ばれたのは、何よりもご自分がなさろうとすることを弟子たちに予めお語りになったことを前提としています。

しかもイエスは、この弟子たちがご自分を否認したり、逃げ出すことを分かっていながら、彼らを「友」と呼ばれました。それは彼らにご自身の命令を実行する力をも与えようとしておられたからです。

私たちは人を愛することにおいてもあまりにも自意識過剰になりがちです。もし、「私は、自分のいのちを犠牲にすることも厭わないほどに、友を愛している」と誇る人がいるなら危険です。それは、ちょうどペテロがイエスの受難予告を聞いて、「主よ・・・あなたのためにはいのちも捨てます」(13:37)と豪語したのと同じです。それは英雄気取りになっているに過ぎず、イエスご自身の痛みにはまったく心が向いていません。

自分のいのちを捨てるほどに友を愛するとは、たとえば、ビクトル・ユーゴの名作、「レ・ミゼラブル(ああ、無情)」に描かれたジャン・バルジャンのように、目の前の人を次々と助ける中で、自分の身を危険にさらし続けるような生き方です。

ジャンは姉家族のためにパンを一個盗んで19年間も監獄生活を強いられ、釈放されても前科者の烙印のもとに生涯を過ごすように定められていました。

ジャンは釈放されて教会に一晩世話になりながら、銀の食器を盗み、警察に捕らえられて教会に連れて来られます。その司教ミリエルは、「あなたにはこの燭台も差し上げていたのに、忘れて行ったのかな・・・この銀の器は正直な人間になるために使うのだとあなたは私に約束した」と言います。

そしてジャンに、「あなたはもう悪のものではない、善のものです。私が贖うのはあなたの魂です。私はあなたの魂を暗黒な思想や破滅の精神から引き出して、それを神にささげます」と言います。

ミリエルはジャンを「友として信頼」してくれたのです。ジャンはそれに応え、ある発明により実業家になり、市長にまでなりますが、そこで子持ちの寡婦ファンティーヌが職場からいびり出されるのを見過ごしてしまいます。彼女はその後、娼婦にまで身を落とし、病気になって死に瀕します。

ジャンは自分の配慮が足りなかったことを心から悔いながら、その最期を看取り、その娘コゼットを引き取って育てると約束します。

コゼットは美しく成長し、マリユスという青年に出会い相思相愛になりますが、彼は革命運動に身を賭して死にそうになります。ジャンは命がけで彼を助けながら、自分が消え去ることで二人を結婚させようとします。

最後にジャンは瀕死の中でコゼットに見いだされ、天に召されようとしながら、その生涯の告白を、「これは憎むことから解放され、おまえを育てることで、愛することを学ばせてもらった男の記録」と呼びます。

そしてそのミュージカルの最後では、真理とは、「to love another person is to see the face of God(他の人を愛するとは、神の御顔を見ることだ)」と歌われます。

イエスのみこころに従って友を愛する者は、そこでこの世のあらゆる見返りを超えた、三位一体の神ご自身の愛に抱擁されている幸いを体験するのです。愛すること自体の中に神のかたちとしてのいのちの喜びがあるのです。

私たちは、創造主であるキリストから見たら「しもべ」以下の存在かも知れませんが、イエスは、「父から聞いたことをみな、あなたがたに知らせた」(15節)と言われたように私たちを「信頼」し、御父と御子との特別な愛の関係に、招き入れてくださいました。

私たちは、単に服従すべき命令だけを受ける兵隊のような存在ではなく、イエスの喜びも痛みも共有させていただける「友」とされました。そして、イエスはそのような友の関係を、一緒に神を礼拝している人々との間で築くことを命じられたのです。

3.「わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命し・・・」

一般の友情は互いに相手を選び合う自由が前提のように思われますが、イエスは、「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び・・・任命したのです」(16節)と言われました。その「選び」には、働きへの「任命」が伴い、そこには「行って実を結び・・実が残るため」という結果が期待されています。

神の「選び」ということばは「救い」よりは、地上の働きへの「任命」という目的に関して用いられています。そうでないと、「あの人は選ばれないのですか・・・」という不公平への不満が生まれます。これは、国務大臣に選ばれるのが、その人自身への恩賞などではあってはならないのと同じです。

クリスチャンは、「私は救われて天国行きを保証された」と喜ぶこと以上に、「私はこの地に神の国を広げるご計画のためにイエスによって任命された」という自覚を大切にすべきです。「私ばかりが、なぜ苦しまなければならないのか?」と問う代わりに、「主よ。私の使命は何ですか?」と問う必要があります。

しかも、私たちの働きの「実」は、イエスがそれぞれの個性を生かし、それぞれを通してご自身の計画を実現してくださった結果なのですから、互いに比べられるようなものではありません。

それはまた、「あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです」(16節)とあるように、祈りが聞かれることの幸いは、この世に遣わされ、イエスの代理として生きようとする中でこそ味わうことができるものです。

それは決して、自分の願望が何でもかなえられるというのではなく、あなたが神から与えられた使命を全うできるように、神が助けてくださるという意味です。苦しみを担うことと、神の子とされた喜びを味わうことには切り離せない関係があります。

イエスはこの後再び、「あなたがたが互いに愛し合うこと、これが、わたしのあなたがたに与える戒めです」(17節)と繰り返されます。そこには「互い」の交わりに対して「あなたがたがお互いを選んだのではなく、わたしが、お互いのためにあなたを選んだのだ」というメッセージが隠されています(C.S.ルイス「四つの愛」)。私たちが自分の出生の時と場所などを選べなかったように、人と人との出会いの背後には隠れたホスト役がいたと信じるべきです。

友情は、互いのうちに美点を見出す識別力への報酬ではなく、神がご自身の被造物の美しさを見せるための道具です。友情は広がるものであり、それを通して、イエスは愛の交わりを創造し続けておられます。愛の交わりのホスト役はイエスご自身なのです。

4.「それで 世はあなたがたを憎むのです」

ところで、互いの間の愛が増し加わるとともに、「世があなたがたを憎む」(18,19節)という現実が生まれます。これは、「キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます」(Ⅱテモテ3:12)と言われる信仰者の勲章です。一方、サタンから「あいつは攻撃する価値もない」と見られるのは恥です。

イエスは「世はあなたがたよりもわたしを先に憎んだことを知っておきなさい」(18節)と言われました。世がイエスを憎むのはなぜでしょうか?十字架は、信者にとって神の愛のしるしですが、不信者には「お前は、神が御子を犠牲にしなければならないほどに、罪深い!」という断罪に聞こえます。

パリサイ人たちは真面目な努力家なのに、イエスは彼らの誇りを真っ向から否定しました。また、世の人々も、真面目な信仰者が「私は罪人のかしらです」(Ⅰテモテ1:15)と証しすることに誇りを砕かれます。

イエスは弟子たちに「あなたがたは世のものではなく、かえってわたしが世からあなたがたを選び出したのです。それで世はあなたがたを憎むのです」(19節)と言われました。ですから、私たちが憎まれるのは、自分たちの落ち度や欠点のゆえである以前に、主ご自身の「選び」の結果です

主の弟子となった者は何よりも価値観が変えられます。たとえば、日本の社会では、村社会の暗黙のルールのようなものがあり、ときに、神の善悪の基準を超えて、村社会への忠誠が求められます。私たちがイエスを自分の人生の主として心から信じているならば、そのルールと衝突するのは当然と言えましょう。

その上でイエスは、弟子たちがイエスの御名のゆえに迫害されるのは当然であると話しながら、イエスが御父のみこころをユダヤ人たちにお話しされたことを受け入れないことに関し、「その罪について弁解の余地はありません。わたしを憎んでいる者は、わたしの父をも憎んでいるのです」(22,23節)と言われます。

当時のユダヤ人たちは自分たちにとって都合の良い「神の国」の実現を待ち望んでいました。それは、ローマ帝国の代わりに自分たちが支配権をふるうことができる国でした。

しかも彼らは、自分たちの立場やプライドが守られることばかりを望み、私たちの救いのためにご自身を犠牲にする神と御子の愛を知ろうとはしませんでした。彼らは自分の見たいものばかりを見ようとしていたのです。

そして、25節で「彼らは理由なしにわたしを憎んだ」ということばが引用され、キリストご自身が受けた憎しみは、詩篇69篇4節などに記された預言の成就だと言われました。これは、私たち自身にも適用されることであり、いわれのない非難を受けて胸を痛めるときの大きな慰めになります。

ただ、人によっては、「私が非難を受けるのは、人の期待を裏切り続けた結果で、自業自得なのです」と思うかも知れません。しかし、あなたが自分の罪を認めイエスにすがったその瞬間から、あなたの心の痛みはイエスとの交わりの機会となるのです。

もう自分を責め続けてはなりません。自分を否定する人は、必ず、他の人を否定するからです。主ご自身がいわれのない憎しみを受けました。まして過去に傷を抱えている者が憎しみを受けるのは当然です。私たちは、もはや人の期待の奴隷になる必要はないのです。

真の友とは、あなたの最悪の部分を知っていながら、なお尊敬してくれる人です。それは、イエスが私たちに対して持ってくださる姿勢です。ただそのような交わりは、多くの忍耐と犠牲を経て与えられるものです。ほんの少しずつ心を開く中から、「この人とは共感し合えるかも知れない」という出会いが生まれます。

この一対一の心の交わりを徐々に築き、そこに他の人を招き入れるのです。心の奥底にある「うめき」を共有できる交わりを築けるなら私たちの人生はずっと豊かになります。

イエスは、「互いに」と強調され、あなたが愛すべき友を選んでくださいました。しかも、「互いに愛し合う」力をもくださり、性急な結果をお求めにはなりません。イエスにある希望に満たされ、一歩一歩、進んでみましょう。