ヨハネ13章21〜35節「互いに愛し合いなさい」

2016年5月29日

海外の外国人中心の教会から日本の教会に入ってきて戸惑うことがあります。それは家族のようにファーストネームや愛称で呼び合う関係から、急に、距離を置いたような呼びかけ合いになることです。

たとえばドイツ語では教会の交わりで互いをDuで呼び合いますが(フランス語ではTu)、神に祈るときにも「Du」ですのでこれを「おまえ」と訳するのは不正確です。一方、仕事関係では、上司が部下に命令する時にも「Sie」(あなた、仏語はVous)と、丁寧というより距離感を保つ呼びかけをします。

日本では親しい牧師仲間でも、互いを「・・先生」と呼び合いますが、それは上下関係を互いに意識しないための知恵とも言えます。

日本語の難しさは(韓国語も同じですが)、上下関係によって言葉を使い分けることにあります。たとえば、英語のブラザーを日本語に訳する際に、「兄」か「弟」のどちらかということは決定的に重要で、そこには役割の違いさえもイメージされます。

日本では上下関係の明確な小さな村社会の集合として共同体ができますから、そこで上下関係を超えた会話にしようとすると、どうしても丁寧な表現を選ばざるを得なくなるのかと思います。

日本の教会において年齢や社会的な立場の違いを超えた「神の家族」としての交わりを築く際には、まさに言葉の使い方から、文化を超える必要があるのかも知れません。「神の家族」として「互いに愛し合う」ということをどのように日常会話の中に生かすのかにも神の知恵が求められています。

1.「イスカリオテのユダが受けていた名誉ある立場」

ヨハネは、聖餐式の元となるパンと杯の代わりに、イエスがユダを含めた十二弟子すべての前にひざまずいてその足を洗う姿を描いています。そこでイエスは、「あなたがたも互いに足を洗い合うべき(負い目がある)です・・・それを行なうときに、あなたがたは祝福されるのです」(14,17節)と言われました。

同時に、「祝福」を受けることができない人について、「わたしは、あなたがた全部の者について言っているのではありません」(18節)と言われます。それはイスカリオテのユダを指します。

つまり、私たちには、互いの足を洗い合って「祝福」を体験するか、ユダに習って「のろい」を受けるかの選択を迫られているとも言えます。

さらにイエスは、「わたしは、わたしが選んだ者を知っています」(18節)と言われます。それはイエスが、ユダのうちに住む罪人の代表者のような心を見抜きながら、その足を洗い、最後まで誠実を尽くし、悔い改めのチャンスをお与えになったことに現されます。ユダにはイエスの話しの意味がよく分かったはずです。

それにしても、手塩にかけて育ててきた弟子のひとりが裏切るというのは、耐え難い苦しみでしたから、イエスは「霊の激動を感じ」(21節)られ、「まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたのうちのひとりが、わたしを裏切ります」と言われます。これをマタイ(26:21)もマルコ(14:18)もまったく同じギリシャ語で記録し、「まことに」が一語少ないほか完全に一致しています。

それが語られたのは、みなが食事をしている時でしたが、弟子の誰にとっても忘れられないほどの衝撃のことばだった証拠です。

なお、「裏切る」とは厳密には、「引き渡す」(新改訳脚注参照)と書いてあります。このとき、金を既に受け取っていた当のユダは、イエスが自分の計画を既に知っておられることに驚いたはずです。

彼はこの時に悔い改めのチャンスがありましたが、しらばっくれていました。そして、その際の様子が、「弟子たちは、だれのことを言われたのか、わからずに当惑して、互いに顔を見合わせていた」(22節)と描かれますが、このときの弟子たちの当惑と、それを知られまいとするユダの気持ちを思い巡らしてみましょう。

23-26節でヨハネは、このときの食事の席順がわかるような記し方をしています。そこからとっても興味深い事実が浮かび上がります。まず、「イエスが愛しておられた者が、イエスの右側で席に着いていた」(23節)と描かれます。これはヨハネのことですが、彼の席は、原文では新改訳の脚注にあるように「御胸のそばでからだを横にしていた」と記されています。

当時は左ひじをテーブルにつき、横に寝そべるように足を伸ばし、右手で食事を取るのが一般的でした。つまり、ヨハネはイエスの右側にいたので、その頭がイエスの胸のそばになるのです。

しかも、席はU字型が一般的で、その真ん中の頭にホストであるイエスが座っていますから、パン切れを浸して与えられるなら、ユダはイエスの左側の主賓席にいたことになります。

離れた向かい側に座っていたと思われるペテロはヨハネに、裏切り者が誰なのかをイエスにそっと尋ね、自分に知らせるように合図をしたのだと思われます。それでヨハネはイエスに率直に、「主よ。それはだれですか」と尋ねます。

それに対しイエスは、「それはわたしがパン切れを浸して与える者です」と答えます。ただ、このことばは、ヨハネにしか聞こえていなかったのではないでしょうか。

「それからイエスは、パン切れを浸し、取って、イスカリオテ・シモンの子ユダにお与えになった」(26節)と描かれています。ただしイエスは、この時点で、他の弟子たちの前で、ユダを追い込もうとしておられるわけではありません。確かにこの意味を、ヨハネは分かってはいても、他の人には、会計係のユダが特別なもてなしを受けているように見えたことでしょう。

ただ、ユダはイエスのサインがよくわかっていましたが(マタイ26:23-25)、皆の手前、それを平然と受けたと思われます。そのときのことが、「彼がパン切れを受け取ると、そのとき、サタンが彼に入った」(27節)と描かれます。

それはユダがサタンの犠牲者になったという意味ではなく、イエスの警告をよく知りながら、自分からイエスの愛を軽蔑してサタンに身を任せた結果でした。ユダは、イエスの警告の意味をよく知りながら、敢えて、サタンに心を開いたのです。

ユダも最初からイエスを裏切るつもりで弟子に加わってきたわけではないでしょうが、与えられた名誉ある立場を、私腹を肥やすために利用してしまいました。ベタニヤのマリヤがナルドの香油をイエスに塗ったとき、ユダが彼女の行為を非難しましたが、それは彼がお金に執着していたためでした。

ヨハネは「彼が貧しい人々のことを心にかけていたからではなく、彼は盗人であって、金入れを預かっていたが、その中に収められたものを、いつも盗んでいたからである」(12:6)と描いています。

そして、イエスがマリヤの行為を賞賛し、一方でユダをたしなめたことは、彼に裏切りを決意させる最終的なきっかけとなったのかもしれません。それは、イエスがもはや、ユダにこの世の富と権力を約束する方ではないことを明確にしたことでした。

ユダは自分の期待が裏切られたことに怒りを燃やしたのではないでしょうか。彼は、自分の願望に縛られた結果として、自分こそイエスから裏切られたと思って、イエスを裏切ったとも解釈できます。

2.「今こそ人の子は栄光を受けました」

そのときイエスはユダに、「あなたがしようとしていることを、今すぐしなさい」(27節)と言われました。それはユダに悔い改めの余地が見えないので、彼の裏切りにご自分の身を任せ、翌日金曜日、ご自身が過越のいけにえとなるためでした。

なおこの時点では、「イエスが何のためにユダにそのように言われたのか知っている者は、だれもいなかった」(28節)と記されています。それぞれ、主はユダに過越の祭りの入用の物の買い物を命じたとか、貧しい人々への施しを命じたとか理解する人もいたとのことです(29節)。

つまり、イエスはまだユダの裏切りを他の弟子たちの目の前から隠しておられたのです。ここにイエスのユダに対する愛が現されていると言えましょう。

その一方で、その後のことが、「ユダは、パン切れを受けるとすぐ、外に出て行った。すでに夜であった」(30節)と記されますが、これは象徴的なことばです。ヨハネは、「光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した。その行いが悪かったからである。悪いことをする者は光を憎み・・」(3:19,20)と記していますが、ユダはそんな人々の代表者でした。

彼は特別な悪人というよりは、自分の欲望の奴隷になっている世の人々のひとりです。つまり、私たちの身の回りに多くのユダがおり、私たちの心の内側にもユダの心が住んでいます

ユダは自分の願望を満足させてくれる救い主を求めていました。私たちもかつてそうだったかも知れません。苦しみたくてイエスのもとに来る人はいないでしょうから・・・。

また同時に、ユダは当時のユダヤ人全体の代表者と呼ぶこともできます。「ユダヤ人」とは本来、イスラエル民族の中のユダ族の人々という意味だったからです。しかし、それはイエスを十字架に架けた責任はユダヤ人にあると、彼らを軽蔑するという意味ではありません。反対に、この世的に最も神に近いと見られる民が、神の御子を裏切るという逆説が描かれているとも言えましょう。

しかし、イエスに出会ってからも自分のことばかりを求めているなら、それはユダと同じかもしれません。私たちはイエスによって遣わされるために弟子となるのです。この世的には損な生き方であっても、そこでこそ、「主はあなたの心の願いをかなえてくださる」(詩篇37:4)という真実を体験できます。

私たちは自分の奥底にある「心の願いを知っているでしょうか?それは失われたエデンの園の祝福、「愛の交わり」です。お金を愛したユダは孤独に苛まれ、たったひとりで暗闇に飛び出して、首をつって死にました。しかし、私たちは、互いの足を洗い合い、イエスの弟子としての豊かな愛の交わりのうちに生かされるのです。

ところで、「ユダが出ていったとき」(31節)とは、イエスにとって最も辛いときでした。特別な十二弟子の一人がご自身を裏切るというのですから・・・。

しかし、イエスは不思議にも、「今こそ人の子は栄光を受けました」(31節)と言われました。それはユダの裏切りによって、ご自身の十字架刑が確定したことを悟られたからです。人は皆、この地に使命をもって生まれましたが、栄光を受けるとは、その使命が果たされる時ではないでしょうか。

イエスはまさに十字架にかかるために人として生まれたので、この人間的には最も悲惨な時が、栄光を受ける時と呼ばれるのです。しかも、それは父なる神にとっても、罪によって腐敗した世界を新しくするという意味で、「神は人の子によって栄光を受ける」(31節)と言われるのでした。

その上で、この同じことばが繰り返されながら、「神が、人の子によって栄光をお受けになったのであれば、神も、ご自身によって人の子に栄光をお与えになります。しかも、ただちにお与えになります」(32節)と述べられます。これは、任せきることによって救われるという関係を表します。

サーカスの空中ブランコで空中を飛ぶ人は、ブランコを手放したら、自分の腕をただ伸ばして、つかまえてくれる人の強い手が、落下から自分を引き上げてくれるのを待ちます。そこでは、「飛ぶ人は決して、つかまえてくれる人の手を自分からつかんではいけない。完全に信頼して待つのだ」(当事者の証し)という原則が守られます。

イエスは神のみこころに従ってご自身のいのちを捨てられました。それは神への最高の信頼の表現でした。神はそれにすぐにお答えになり、イエスを三日目に死人の中からよみがえらせます。それが「神も、ご自身によって人の子に栄光をお与えになります」(32節)というみことばの意味です。

ここにはイエスと父なる神との信頼関係、愛の交わりが記されています。私たちは、自分の身が人に左右されることを恐れ、いつも獲得することばかりを望み、失うことを恐れています。しかし、イエスが最も神の子らしくあられたのは、この地で得たすべてのもの、弟子さえも失い、ご自身のいのちを御父にお任せになったときでした。

3.「あなたがたに新しい戒めを与えましょう」

イエスはこれまでユダヤ人たちに二度にわたって、「わたしが行くところへは、あなたがたは来ることはできません」と言われました(7:33,34、8:21)。それを今、愛する弟子たちにも適用され、「子どもたちよ。わたしはいましばらくの間、あなたがたといっしょにいます。あなたがたはわたしを捜すでしょう。そして、『わたしが行く所へは、あなたがたは来ることはできない』とユダヤ人たちに言ったように、今はあなたがたにも言うのです」(33節)と言われました。

それは、イエスが十字架を通してご自身の父なる神のもとに行くことを指しています。これまではイエスがいつも一緒にいて、パンがなければパンを与え、病んだときには癒してくださいましたが、今は彼らのもとを離れようとしておられます。それを前提としてイエスは、まるで遺言のように、「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい」(34節)と言われました。

「互いに愛し合いなさい」とは、別に新しい戒めではありません。ここでの新しさとは、「わたしがあなたがたを愛したように」という点にあります。それは、何よりも、奴隷の姿になられて弟子たちの足を洗ったことに現されています。まさに上下関係を逆転させるような関わり方です。それは弟子たちが自分たちの愚かなプライドに縛られて、誰も進んで奴隷の働きをできなかったからでした。

それどころか彼らは、「この中でだれが一番偉いだろうか」という議論をしていました(ルカ22:24)。人を助けることは自分の名誉心を満足させることができますが、自分を裏切ると分かっているような人の前にひざまずくことはできません。

しかもイエスは、ユダが自分を売り渡すと分かっておられながら、彼の足をも洗い、最後の晩餐の席で彼をご自分のすぐ横の名誉ある場に座らせたのです。

日本では、枠からはみ出た人間を徹底的に辱めながら、村社会に忠誠を誓わせようとしますが、イエスはまったく逆の愛し方を見せてくださいました。

愛を意味するギリシャ語のアガペーに最も近い日本語は「尊敬」です。尊敬に値しない人を、「わたしの目には、あなたは高価で尊い(イザヤ43:4)と言うのが愛の本質です

私たちは心の中で人を軽蔑しながら、その人を助けることによって「私には愛がある」などと自負したいという思いがないでしょうか。人の痛みを聞きながら、「そんなことで悩むほうがおかしい・・・」などと、その人の悩み自体を軽蔑して、「ほんとうにあなたはしょうがない人だ・・・」などと言いながら助けるということがないでしょうか。それは、愛ではありません。

イエスは、その上で、「もしあなたがたの互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです」(35節)と言われました。

私たちはどこかで、「キリストの弟子」と認めてもらえるということを、誰からも尊敬される人格者になることと誤解しているかもしれません。しかし、主は私たちの「互いの間に愛がある」ことこそが、何よりも最大の伝道になると言われたのです。

イエスは今、弟子たちの前から姿を消そうとしています。今、私たちは、「イエスは私たちの交わりの真ん中におられるのです」などと、信仰の真理を語ったとしても、だれもイエスご自身を見せることができません。しかし、私たちが互いに愛し合っているなら、世の人々はその愛を導いておられる方を感じることができます。

たとえば、夫婦の場合、ある人に愛があるかどうかは、伴侶との関係に歴然と現されます。多くの人は、依存関係は築いても、真に尊敬する関係は築けてはいません。そこでは、互いにどれだけ相手の気持ちを聞くことができているかが問われます。

キリストにある夫婦愛のすばらしさは、説明されるものではなく、だれが見ても分かります。そしてそのような家庭に招かれたものは誰でも自分が歓迎されていると感じることができます。教会もまさにそれと同じです。開かれた愛の交わりを築くことこそが伝道の中心です。

イエスはイスカリオテのユダの裏切りの思いをご存知で最後の悔い改めの機会を与えられました。ユダはその愛を軽蔑するように、サタンに心を開きました。その後で、イエスは弟子たちに向かって、「互いに愛し合う」という交わり自体が、イエスが主であることを最も力強く証しすると言われました。

私たちはどこかで、伝道と兄弟愛を切り離して考える傾向があるかもしれませんが、イエスはそれを一体のものとして提示されました。なぜなら、私たちの互いの間の愛こそが、来るべき「新しい天と新しい地」の「祝福を目に見える形で現すものだからです。互いの間の愛が見られない共同体の伝道ほどむなしいものはありません。

日本的な交わりでは、「お前と俺」とか、あだ名で呼び合う関係があっても、教会では意外に互いの距離感を大切にする丁寧な言葉使いがなされます。

しかし、たとい会社の同僚の方が親密な関係があったと思えることがあったとしても、教会の交わりは、日本的な上下関係や排他性を超えようと格闘しているという面にこそ目を向けるべきでしょう。私たちは罪人の集まりであり、この社会では互いに友人とならないような異なった背景から集められてきています。

しかも日本語自体が小さな村社会、縦社会の影響の上に成り立っています。私たちは日本的な村社会の価値観を超えた愛の交わりをどのように築いて行くことができるか、その知恵が求められているのです。

その秘訣は、何よりも互いに自分の弱さを隠すことなく、また、妙に立ち入りすぎることなく、互いの真の必要を見極めて祈り合うことです。それは時間がかかることですが、そこに人間的な共感を超えた「御霊のうめき」(ローマ8:26)があるなら「神の家族」としての交わりが生まれます。