明日の礼拝ではマタイ20章1–16節の「ぶどう園の労働者のたとえ」からお話ししますが、これを現代の日本で課題になっている同一労働同一賃金の理想からすると、とんでもない不条理とも言えます。 “ぶどう園の労働者のたとえ〜マタイ20章1–16節” の続きを読む
マタイ19章16〜30節「イエスの麗しさに魅せられて従う」
イエスは山上の説教で、「だれも二人の主人に仕えることはできません……あなたがたは神と富とに仕えることはできません」と言われました (マタイ6:24)。 “マタイ19章16〜30節「イエスの麗しさに魅せられて従う」” の続きを読む
マタイ19章10〜22節「イエスの招きを受け入れられる幸い」
多くの女性はルツ記のストーリーに感動します。しかし、女性の人権の観点から考えると、これはとんでもない話とも言えます。物語の核心は、没落したエリメレクの家の再興のために、ユダヤ人から軽蔑されていたモアブの女が自分の身を、親戚の家に差し出すという話です。 “マタイ19章10〜22節「イエスの招きを受け入れられる幸い」” の続きを読む
マタイ19章1〜9節「結婚の聖別」
フィンランドで25年間国会議員務めてきたラサネン女史は、マタイ19章をもとに「結婚は一人の男性と一人の女性の間のものである」と述べ続けていることで、LGBTQ の方々を差別する「民族的扇動」を行っていると、最長六年間の禁固刑に相当するという告発がなされ、キリスト教会が一斉に反発していると報じられています。 “マタイ19章1〜9節「結婚の聖別」” の続きを読む
マタイ18章21〜35節「自分の兄弟を心から赦す?」
9月号の「百万人の福音」の表紙が、「すべてを赦さなくてはいけないのですか?」という不思議な表現になっています。依頼されてそこに聖書の説き明かしの記事を書かせていただきました。ただ、その冒頭に、「私たちが『さばく』とか『赦す』というとき、無意識のうちに自分を神の立場に置いているのかもしれません」と、ことばの使い方を聖書から見直す必要があるということから書き出しました。 “マタイ18章21〜35節「自分の兄弟を心から赦す?」” の続きを読む
マタイ18章10〜20節「目の前の一人にどのように向き合うのか」
私たちは日々、新型コロナの感染者数の記録更新とオリンピックのメダリストの物語の両方に一喜一憂しています。どれほどオリンピック開催に反対していた人でも、メダルを獲得した人の物語に感動し、喜ぶことができます。それは「神のかたち」に創造された人間の心の目が、統計数字よりも一人ひとりの人生に目が向かうものだからです。 “マタイ18章10〜20節「目の前の一人にどのように向き合うのか」” の続きを読む
マタイ17章22節~18章9節「人をつまずかせる者とは?」
しばしば信仰者は、「この社会で尊敬されることが、証しになる」と誤解します。そして、反対に、人々から軽蔑されると、「人をつまずかせてしまった」と、さらに自分を責めてしまい、「私のような者がクリスチャンであるとわかると、みんなのつまずきとなる」とまで思う人がいます。 “マタイ17章22節~18章9節「人をつまずかせる者とは?」” の続きを読む
マタイ17章14〜21節「山をも動かす信仰とは?」
人は誰しも毎日を楽しく、気力にあふれて目の前の課題に取り組みながら、「生きていて良かった!」という感動を味わいたいと思っています。書店ではそのための様々な方法 (How to) を書いた本が平積みにされていますが、すべてがそれで解決できるなら、神を求める必要などなくなってしまうことでしょう。 “マタイ17章14〜21節「山をも動かす信仰とは?」” の続きを読む
マタイ17章1〜13節「イエスを変容させた光の中を歩む」
人はこの地の歩みの中で必然的に自分の醜さを示されます。しかし、「あなたの光のうちに 私たちは光を見る」(詩篇36:9) と記されるように、私たちの罪を照らし出す光のうちに、私たちを変容させるキリストの光を見ることができます。 “マタイ17章1〜13節「イエスを変容させた光の中を歩む」” の続きを読む
マタイ16章21〜28節「自分の十字架を負って、イエスに従う自由」
この時代は、何においても最短の時間で問題を解決することが求められます。何かをするにしても、「それが何の役に立つのか」と自問自答することがあります。しかし、それでは、「神がこの世界の問題を解決するためにご自身の御子を十字架にかける必要があった」などという奥義は分かり得ません。 “マタイ16章21〜28節「自分の十字架を負って、イエスに従う自由」” の続きを読む