マタイ17章22節~18章9節「人をつまずかせる者とは?」

2021年7月4日

しばしば信仰者は、「この社会で尊敬されることが、証しになる」と誤解します。そして、反対に、人々から軽蔑されると、「人をつまずかせてしまった」と、さらに自分を責めてしまい、「私のような者がクリスチャンであるとわかると、みんなのつまずきとなる」とまで思う人がいます。

しかし、私たちの主は、人々から嘲られ、罵りを受けられた人です。人の評価ほど当てにならないものはありません。人をつまずかせる最大の原因は、その人の傲慢さです。「イエスにすがることなく生きて行ける」と思う人こそが、最大の「つまずきの石」となっているのではないでしょうか。信仰とは、「主にすがること」に他ならないからです。

1.「神殿税を集める人たち……をつまずかせないために」

17章22、23節では、「彼らがガリラヤに集まっていたとき、イエスは言われた。『人の子は、人々の手に渡されようとしています。人々は彼を殺します。しかし、彼は三日目によみがえらされます』。すると彼らは悲しんだ」と記されます。

これは16章21節に続く二回目の受難復活予告ですが、「人々の手に渡される」という表現に、後のユダの裏切りが示唆されているとも理解できます。どちらにしても一回目の予告と合わせると、イエスがエルサレム神殿を牛耳っている宗教指導者たちの手によって殺されるということを言っているということは、弟子たちにもよく理解できたことでしょう。

それに続き、「彼らがカペナウムに着いたとき、二ドラクマ(神殿税)を集める人たちがペテロに近寄って来た」と描かれます (24節)。原文では「神殿税」の代わりに「二ドラクマ」と記されます。

これは出エジプト記30章11–16節に描かれた「たましいの償い金(共同訳:命の贖い金)」で、その理由が「彼らにわざわいが起きないようにするため」、使用目的が「会見の天幕の用に充てる」と記されていました。これは人頭税のようなもので富む者も貧しい者も一律に半シェケル」と決められていました。この半シェケルは二日分の労賃に相当する二デナリ、あるいは二ドラクマと同じでした。

これは負担にならない金額にも思えますが、当時のユダヤ人は高額な税金をローマ帝国に支払っていたばかりか、律法の規定で収入の十分の一は祭司やレビ人のものとされました。それらをまとめると途方もない金額になり、人々の生活を圧迫し続けていました。

神の御子のイエスが「たましいの贖い金」を払う必要はありません。ましてエルサレム神殿の維持管理のためのお金は、イエスを殺そうとしていた宗教指導者の働きを全面的に認め、応援するという意味もありましたから、イエスにはこれを支払う理由がないことは明らかです。

イエスは後に当時の神殿を指して、それが「祈りの家」から「強盗の巣」へと変えられていると非難しました (21:13)。

なお、ネヘミヤ記10章32節によるとバビロン捕囚からの帰還の民が神殿を再建し、エルサレムの城壁を築きなおした時、総督ネヘミヤと祭司エズラを代表とする民のリーダーたちは、「私たちは、自分たちの神の宮での礼拝のために、毎年シェケルの三分の一を献げる義務を自らに課す」と約束しました。

ところがイエスの時代のサドカイ人たちは、この神殿税は祭司たちに課される必要はないという議論をするようになり、神殿礼拝に参加できない散らされたユダヤ人から神殿税が集められる一方、神殿に仕える祭司たちはそれを支払うことから免除されるという不思議な構図ができあがっていたようです。

とにかくここで、神殿税を集める人がペテロに向かって、「あなたがたの先生は二ドラクマ(神殿税)を納めないのですか」と言ったことに対し、ペテロは考えもせずに、とっさに「はい(納めます)」と言ったというのです (24、25節)。それは、ペテロは昔からの習慣と思い込みで、神殿税を納めることはすべてのユダヤ人にとって聖なる義務」であると確信していたからだと思われます。

それに対し、ペテロが「家に入ると、イエスの方から先にこう言われた」(25節) と描かれます。これはその会話を聞いていたイエスが、ペテロの思い込みを正すために言われた言葉です。

その内容が、「あなたはどう思いますか、シモン、地上の王たちはだれから貢(みつ)ぎや税を取りますか、自分の子たちからですか、それとも、ほかの人たちからですか」と描かれます (25節)。

それに対しペテロはすぐに、「ほかの人たちからです」と答えますが、それに応じてイエスは、明確に、「ですから、子たちにはその義務がないのです」と言われます (26節)。

神殿の祭司たちさえ納めることが免除されている「神殿税」を、神の御子であるイエスに払う義務がないのは当然であるとも言えますが、ペテロはそのようなことを考えたこともなかったことでしょう。

しかし、そのようにすべての人が「支払って当然」と思うお金を支払わないためには、イエスが「神の子である」ということを証明する必要が生まれます。しかし、それは支配者たちの反撃を予定より早く引き寄せることになります。

イエスは十字架にかけられる前に成し遂げるべき多くの働きがありました。神の時でもないのに些細なことで人々の反発を招くなら、イエスが伝えようとした「神の国の福音」を見えなくさせます。

それでイエスは不思議なことを命じられます。その際、「しかし、あの人たちをつまずかせないために」と言われながら、「湖に行って釣り糸を垂れ、最初に釣れた魚を取りなさい。その口を開けるとステタル銀貨一枚が見つかります。それを取って、わたしとあなたの分として納めなさい」と命じます (27節)。

ステタル銀貨一枚の価値は一シェケルと同じ、四ドラクマに相当しますから、ちょうど二人分の神殿税に相当します。

今もガリラヤ湖を訪ねる方は、ほぼ必ず「聖ペテロの魚」というのを食べることになります。これはティラピアまたはイズミダイとも呼ばれる淡水魚で、味が少し鯛(たい)に似ているとも言われます。もともと、どの魚だったかは定かではありませんが、ガリラヤ湖の代表的な魚だったのだと思われます。

多くの人々は、この物語でのイエスの不思議な力に感動するか、それとも「そんなことあり得ない」と疑問を呈すことになりがちです。

しかし、ここで何よりも大切な要点は、イエスはご自分の負担で神殿税を支払いはしなかったということです。神殿税を正面から拒否するのでもなく、また反対に、言われる通りに支払うというのでもなく、第三の道を開いたということです。これは私たちの生活にも大きな示唆を与えます。

私たちが目の前にことで、この問題と正面から戦うべきか、それとも、今は、言われるとおりに従うべきかと選択を迫られるとき、イエスが第三の道を示してくださるということがあります。

しかも、ここでイエスは「神殿税を集める人たち」を指して、「あの人たちをつまずかせないために」と言われました。これはたとえばオリンピックの開催に反対するために、運動選手に向かって「反対を宣言してほしい」と促すこと、原発事故の責任を東京電力の一般職員に問うこと、またNHKの受信料の問題を、受信料を集めている人に問うようなことを止めさせることに似ています。

政治権力者と戦うべきことを決定権のない目の前の人に問いただすことは、社会的弱者を攻撃することに通じます。残念ながら多くの人々は、権力者たちへの怒りを、目の前の何の決定権もない人に向けがちです。そこには自分に対する攻撃力を持たない人に怒りを向けて自分の気持ちを満足させるという卑怯な自己保身があります。

2.「この子どものように自分を低くする人が、天の御国で一番偉い」

18章1節からは20章の終わりまで続くイエスの第四の説教で、キリストの共同体に関する教えと呼ばれます。ただ、その最初で、「そのとき、弟子たちがイエスのところに来て言った」(18:1) と記されるように、イエスが神殿税にからんで「神の子」としてのご自身の権威を示したことと深く関係します。

マルコの並行記事によると、弟子たちはカペナウムに向かって歩いていた間に、「来る途中、だれが一番偉いかと論じ合っていた」と描かれています (9:34)。そのような会話を前提にして、弟子たちはイエスに、「だれがいったい一番偉いのですか、天の御国においては」と尋ねます。

私たちから見ると、イエスがご自身の受難を予告しておられるときに、どうしてそのような愚かな議論ができるのかと不思議に思いますが、その時代に生きていたら同じような関心を持ったことでしょう。

なぜなら、イエスのメッセージの中心は、「天の御国が近づいた」(4:17) というもので、それは弟子たちにとってダビデ王国が再興されることが間近に迫っていることとしか思えませんでした。彼らはだれがどの大臣の席に就くかを考えていたのです。

ただそこで、イエスは彼らの身勝手な会話を強く非難する代わりに、「イエスは一人の子どもを呼び寄せ、彼らの真ん中に立たせます」(18:2)、その上で、「まことに、あなたがたに言います。向きを変えて子どもたちのようになるのでないならば、決して天の御国に入ることはありません」と言われました (18:3)。

ここでの「子ども」とは「幼子」と訳されることがあり、7歳以下ぐらいの子だと思われます。これは弟子たちにとって奇想天外なことばでした。彼らは自分たちが天の御国に入ることは当然のことと思い、そこでの大臣の座を期待していたのに、イエスに従うことに対する報酬を否定する可能性ばかりか、当時の社会で何の役にも立たないと思われていて「一人の子ども」を真ん中に立たせて、「向きを変えて、子どもたちのようになる」というこということを命じられたからです。

これは決して、「子どものように純粋に、素直に、無垢に、柔軟に、創造的になりましょう……」という勧めではありません。当時の人々は子どもにそのような資質を認めることはほとんどなく、足手まといな未熟な人間と見るのが一般的でした。

ですからここでは、「だれでもこの子どものように自分を低くする人が」と記します。つまり、「子ども」とは「低い」存在でしかないのです。そして、そのように「自分を低くする人が、天の御国で一番偉い」と言われます (18:4)。

ここには驚くべき逆説が描かれています。弟子たちは、「天の御国において、いったいだれが一番偉いか(偉大な者であるか)」議論したあげく、イエスにまで尋ねました。それはある意味で必要に迫られてのことだったかもしれません。

私たちは協力関係を築こうとするときに、リーダーシップをだれが取るかを決めておくかが大切になります。イエスはご自分が殺されることの二度にわたって述べています。その後の体制を決めておかないと、アレクサンドロス大王が世界帝国を建てながら、その後内部で争って、ローマ帝国に滅ぼされたようなことになりかねません(紀元前323年、大王の病死、紀元前301年四王国への分裂確定、紀元前64年セレウコス朝シリア滅亡、紀元前63年エルサレム陥落、紀元前30年女王クレオパトラの自殺でプトレマイオス朝エジプトの滅亡)。

それに対してイエスは、権威者を明確にする代わりに、それぞれが子どものように、だれかの助けに頼らなければ生きて行けないということを明確にすることが大切だと言われたのです。それはこの世の王国では決して通じない原理です。自分の無力さ、愚かさを、判断力の足りなさを明らかにするなら、他の人は不安になって、そのような人に従うことはできなくなります。しかし、それを通してこそ、真の権威者が天の父なる神であることが明らかにされるとも言えます。

天の御国」とは天の父なる神の権威と支配が、徹底的に明らかにされることを意味します。それは本来、キリスト教会の原則であるべきです。しかし、地上の教会は、しばしば聖霊の働きに期待するよりは、組織的な役割分担や指導体制を明確にすることで問題を処理できると考えがちです。

使徒パウロは、自分の使徒としての権威を損なわせるような「肉体のとげ」を与えられて、それが取り除けられるように必死に祈った時、復活のイエスから、「わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである」(Ⅱコリント12:9) と言われました。

神の力」が「弱さのうちに完全に現れる」のであるならば、天の御国の支配原理は、この世で有能な者が力を発揮するという原理から解放される必要があります。しかし、それでもキリストの共同体が機能するのは、そこに聖霊の働きがあって、聖霊ご自身が人々の心を動かし、互いの間に和解と共通のビジョンを与えてくださるからです。

組織や規約を否定するわけではありませんが、聖霊の自由な働きへの期待をもっと持つべきでしょう。

3.「わざわいなのは、つまずきを来させる媒体になってしまうこと」

さらにイエスは、「だれでもこのような子どもの一人を、わたしの名のゆえに受け入れる人は、わたしを受け入れるのです」と言われます (18:5)。「受け入れる」とは、目の前の無力な子どもを、客人として歓迎し、もてなすことを意味します。

人は自分に益をもたらす者を懸命にもてなしますが、イエスは何の見返りも期待できない子どもを「もてなす」ことを命じたのです。ですからイエスは、「わたしの名のゆえに受け入れる人は」と言われ、「子どもを受け入れる」ことを、ご自身に仕える働きと結び付けられました。

6節はそれとセットのことで、「わたしを信じるこの小さい者たちの一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首にかけられて、海の深みに沈められるほうがよいのです」と恐ろしいことを言われました。

先の「子どもを受け入れる」ことが、ここでは「小さい者たちの一人を受け入れる」という話へと進んで行きます。しかも、ここでは「受け入れる」ことの正反対に、「つまずかせる者」となってしまうことに対する恐ろしいさばきへと話題が進みます。それは、せっかくイエスにすがって来た者やすがろうとする者の行く道を邪魔することへの警告です。

特にこれは当時のパリサイ人に適用できます。彼らは自分たちの基準によってイエスを徹底的に否定しました。ですから、ここで「海に沈められるほうがよい」と言われる人は、イエスを救い主と信じた人を、その信仰から引き離そうとする人を指します。

ときに私たちは、人の期待を裏切った時に、つまずきを与えてしまったのではないかと心配するかもしれませんが、それとは無関係です。たとえば、「それでもあなたはクリスチャンなの……」と言われたら、「はい、私はあなたの期待を裏切るような弱い者だからこそ、イエスにすがっているのです」と答えるならば、それこそが最高の証しになります。

それを前提に7節は、「わざわいです、つまずきを与えるこの世は。つまずきが来ることは避けられませんが、わざわいなのは、つまずきを来させる媒体になってしまうことです」と記されています。

サタンは人々をイエスから引き離そうとして、いろんな人を動かします。私たちはサタンの手先とされないように注意を払う必要があります。そしてそのような文脈の中で、イエスは、「もし、あなたの手か足があなたをつまずかせるなら、それを切って捨てなさい。片手片足でいのちに入るほうが、両手両足そろったままで、永遠の火に投げ込まれるよりよいのです。またもし、あなたの目があなたをつまずかせるなら、それをえぐり出して捨てなさい。片目でいのちに入るほうが、両目そろったままゲヘナの火に投げ込まれるよりよいのです」(18:8、9) と言われました。

ここで「いのちに入る」ということばは、燃えるゲヘナに投げ込まれることと対比されています。これは確かに、死後、神のさばきを受けて、天国と地獄に分けられるとも理解できますが、「いのちに入る」とは、死後のことを語ったという前に、今ここですでに実現し初め、完成に向かっていることです。

いのち」とは、何よりも、今ここでの父なる神と御子イエス・キリストとの交わりに中にあります。そして、ゲヘナとは、神を礼拝することを拒絶した者の行く場所です (イザヤ66:24)。

なお、「つまずかせる」とは、「罪を犯させる」というより、「邪魔をする」という意味が中心にあります。つまり、「私の手が、万引きに走らせるから」とか、「私の手が暴力に駆り立てるから」などというよりは、先に「わたしを信じるこの小さい者たちの一人をつまずかせる」とあったように、私たちの手や足や目が、私たちがイエスを信じることの障害になるのなら、それを捨てるようにという勧めであることがわかります。

多くの人が誤解しがちですが、これは些細な過ちであっても、罪を犯すと、天国に入れてもらえずに、地獄に落とされるという話ではないと思われます。かえって、立派すぎる手や足や目を持っている方が、人を傲慢にし、神を忘れさせる可能性があります。

たとえば、日本語で「かみわざ」と呼ばれる技術があります。その超人的な技術や能力が、人々から賞賛されるばかりか、神のようにあがめられることがあるなら、それこそが何よりの「つまずき」となる可能性があります。

申命記8章17、18節では、あなたの生活が祝福された時、「『私の力、私の手の力がこの富を築き上げたのだ』と言わないように気をつけなさい。あなたの神、(ヤハウェ) を心に据えなさいと警告されています。ですから、罪の誘惑に負けやすい無力な手や目は、あなたを謙遜にし、イエスのもとに導く原動力にもなり得るということを覚えるべきでしょう。

たとえば、三世紀の初めにキリスト教哲学者として名声を博した という人がいます。彼は様々な厳しい迫害に耐えた人で、イエスが「情欲を抱いて女を見る者はだれでも、心の中ですでに姦淫を犯したのです……もし右の手があなたをつまずかせるなら切って捨てなさい」(5:28-30) と言われたことをまさに文字通りに受け止め、性の誘惑に抗するために自分で自分の男性器を切り取った言われるほどの強い意志の人でした。

しかしその結果、あまりにも心が自由になり、聖書の教えと新プラトン主義の教えを混ぜ物にしました。そして死後数百年たって、偽りの教えを広めた教師として公に断罪されました。

彼は、誘惑の種を自分でなくすことで、自分の弱さにうめきながら、ひたすらイエスにすがるという信仰の基本から外れてしまったのではないでしょうか。霊的に傲慢になりすぎたのではないでしょうか。

私は昔、「イエス様を信じて、平安と喜びに満たされる」ことが証しになると思っていました。しかし、「舟の右側」の証しに書きましたが、「不安を抱えながら、イエスと出会い続ける」ことこそが、イエスに人を結び付けることだと分かりました。

そして最近は、自分の心の傷つきやすさ、敏感さに改めて不自由さを感じるようになっていました。実はそのような弱さも、無意識のうちに「人をつまずかせる」ものであるかのように感じ、強がっていた面があったことを思い知らされました。

しかし、ダビデは自分の愚かさや失敗を正直に証しすることで「背く者たちに……あなたの道を教えます」(詩篇51:13) ということができたのです。