マタイ19章1〜9節「結婚の聖別」

2021年8月29日

フィンランドで25年間国会議員務めてきたラサネン女史は、マタイ19章をもとに「結婚は一人の男性と一人の女性の間のものである」と述べ続けていることで、LGBTQ の方々を差別する「民族的扇動」を行っていると、最長六年間の禁固刑に相当するという告発がなされ、キリスト教会が一斉に反発していると報じられています。

一方、イスラム教諸国では LGBTQ の方々の権利など、議論の余地がありません。現在のタリバン政権下ではすぐに死刑にされる可能性がありましょう。

キリスト教の結婚式で必ず用いられる今回の箇所は、実は、どのような理由があれば、夫は妻を離別して良いかという女性蔑視の議論の中でのイエスの答えの記述です。文脈を理解すると、その原則の永遠性が確認されます。

聖書の教えは常に社会的弱者を保護する趣旨がありますが、それが差別に利用されることがありました。私たちは何が良く何が悪いかの判断を、もっと原点に立ち返って考える必要があります。それは神の愛です。

1.人には許されているでしょうか、何か理由があればその妻を離縁することが

18章1節から20章の終わりまではイエスの第四の説教で、キリストの共同体に関する教えと呼ばれます。ただ、19章1節は大きな転換点を指します。それまでのイエスの説教はガリラヤを中心にしたものですが。ここからはユダヤを中心としたものへと変わります。

その始まりの記述が、「イエスはこれらの話しを終えると、ガリラヤを去り、ヨルダンの川向うを経て(?)ユダヤ地方に入られた」です。ただ、ここは「ヨルダン川の向こう側のユダヤ地方に行かれた」(協会共同訳)と訳す方が一般的かと思われます。

それはヨルダン川東側のペレヤと呼ばれる地方を指すと思われ、そこもガリラヤと並んでヘロデ・アンティパスの支配地でした。ただ住民のほとんどがユダヤ人であり、ヨルダン川の西側のユダヤ地方と密接な関係にあったため、そこも「川向こうのユダヤ」と呼ばれたのだと思われます。

とにかくそこはユダヤの律法学者やパリサイ人の影響力が強い地域でした。そしてここでも、「すると大勢の群衆がついて来た。そしてイエスは、その場で彼らを癒された」(2節) と、群衆が集まるようすとイエスの癒しのみわざが描かれます。ただし、イエスの癒しのみわざは基本的に、彼が預言された救い主であることのしるしでもありました。

そこに、「パリサイ人たちがみもとに来ました。イエスを試みるために、『人には許されているでしょうか(律法にかなっているでしょうか)、何か理由があればその妻を離縁することが』と言いながら」と描かれます。

質問の目的はイエスを「試みる」ことで、それは当時の大きな政治問題に絡んでのことでした。当時のガリラヤとペレヤの支配者は、ヘロデ大王の息子のヘロデ・アンティパスでした。14章3、4節では「バプテスマのヨハネ」の首がはねられた経緯が、「実は、以前このヘロデは、自分の兄弟ピリポの妻ヘロディアのことでヨハネを捕らえて縛り、牢に入れていた。ヨハネが彼に、『あなたが彼女を自分のものにすることは律法にかなっていない』と言い続けたからであった」(3、4節) と記されていました。

それ以前にこのヘロデは、ローマ皇帝の勧めに従って隣国のアラビヤ王アレタスの娘を妻としていましたが、あるときローマに行く途中に腹違いの兄弟ピリポのもとを訪ね、彼の妻ヘロディアと恋に落ちます。ヘロディアは、ヘロデがアレタスの娘を追い出すことを条件に、ピリポとの間に生まれた娘サロメを引き連れて、再婚することを約束します。

それでヘロデはアレタスの娘を離縁しようとしますが、それを察した彼女は先手を打って家を出て、父のアラビア王アレタスにヘロデの非道さを訴えます。それが原因で、ヘロデはアレタスから攻撃を受け、散々な敗北を喫しますが、ローマ皇帝に取り入って助けてもらい、危機を乗り越えることができました。

とにかく、その際、ヘロデが前の妻を離縁する正当な理由がなかったことと、兄弟の妻を奪い取ることは、明らかに律法に反していたのですが (レビ20:21)、誰もが沈黙していました。

とにかくイエスの答え方次第では、イエスをバプテスマのヨハネと同じように、国主ヘロデを批判する者として訴えることができるとパリサイ人は考えたのでしょう。しかも、人々はヘロデの不道徳な再婚を批判していましたし、それが律法に反することは明らかでしたから、イエスの返事によってはイエスを偽教師として訴えるか、また反対に、政権批判者として訴えるか、どちらの可能性もありました。

それに対してイエスは、「あなたがたは読んだことがないのですか。創造者ははじめの時から『男と女に彼らを創造され』ました。そして、『それゆえ、人(男)は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体(一つの肉体)となるのである』と言われました。ですから、彼らはもはやふたりではなく一体(一つの肉体)なのです。そういうわけで、神が結び合わせたものを、人(男)が引き離してはなりません」と記されています (4–6節)。

興味深いのは、イエスは夫が妻を離縁できる正統な理由に関して論じる代わりに、結婚が創造の秩序であることを簡潔に述べられたことです。神は人類の創造を一組の夫婦から始めましたが、私たちの結婚はすべて、神の創造の原点に立ち返ることなのです。そこでは男と女が切り離すことができない一つの肉体として見られていました。

しかも、結婚はすべて両性の合意によって成り立っているようでありながら、それは「神が結び合わせたもの」であるというのです。ですから、「(男)(妻を)引き離す」ことは神の創造のみわざへの反抗と見られます。

これは何とも不思議な論理です。多くの日本人の感覚では、親子の関係こそすべての始まりですが、聖書は、世界の始まりは一組の夫婦であって、結婚とはその最初の状態にさかのぼることだと言っています。結婚は、まさに神の創造のみわざの神秘なのです。

なお、当時の女性には法的な人格権が認められていませんでした。娘の結婚相手を決める権威は父に属し、結婚した後は、妻の人格権は夫に属しました。ですから、特殊な例外はあっても、妻の側から夫に離婚を請求することはできませんでしたが、夫が妻を離縁できる理由は多々ありました。

ところがイエスはそのような議論に立ち入ることなく、すべての結婚は神の創造の秩序に立ち返ることであり、離婚について論じることは創造主への反抗であると恐ろしい断言をなされました。

ですから現代の結婚式では、二人が互いに夫または妻としての責任を生涯果たし続けますと誓った後に、司式者が、「……さんと……さんは 神と教会との前において神聖なる夫婦の誓約をいたしました。ゆえに、父と子と聖霊の御名によって、この二人が夫婦であることを宣言します」と言われます。

ただそれで終わらずに、イエスの厳しいことばを引用し、「神が結び合わせたものを 人が引き離してはなりません」と勧告されます。

2.それではなぜモーセは命じたのですか、離縁状を渡すようにと……

そこで、パリサイ人たちはイエスに、「それではなぜモーセは命じたのですか、離縁状を渡すようにと、そして、彼女を去らせるようにと」と尋ねました。これは申命記24章1–4節の解釈を巡ってのことで、そこには次のように記されますが、あまりにも最初の文章が長いので、途中で切られて誤解が生まれます。

  1. 人が妻をめとり夫となった後で、もし、妻に何か恥ずべきことを見つけたために気に入らなくなり、離縁状を書いてその女の手に渡し、彼女を家から去らせ(協会共同訳:『去らせることがきる。』、新改訳第二版『去らせなければならない。』)
  2. そして彼女が家を出て行って、ほかの人の妻となり、
  3. さらに次の夫も彼女を嫌い、離縁状を書いて彼女の手に渡し、彼女を家から去らせた場合、あるいは、彼女を妻とした、あとの夫が死んだ場合には、
  4. 彼女を去らせた初めの夫は、彼女が汚された後に、再び彼女を自分の妻とすることはできない。

それは、主 (ヤハウェ) の前に忌み嫌うべきことだからである。あなたの神、主 (ヤハウェ) が相続地としてあなたに与えようとしておられる地に、罪をもたらしてはならない

原文は1–4節まで続く驚くほど長い文章で、命令形が登場するのは、4節の「初めの夫は……再び彼女を自分の妻とすることはできない」というところです。つまりこれは、一度離縁した妻を自分のもとに引き戻すことはできないという再再婚の禁止規定だったのです。

ところが当時の律法学者は、「妻に何か恥ずべきことを見つけた」夫は、「彼女に離縁状を書いて、渡さなければならないという権利と義務として読みました。「離縁状」の最大の目的は、再婚を許可するということにあったからです。

当時の女性に法的な責任能力は認められていませんでしたので、彼女は夫の所有物かのような立場しかなく、彼女の身の振り方はすべて夫が決める必要がありました。たとえすでに夫婦関係が破綻していたとしても、彼女が他の男性と親密な関係になるなら、「姦淫の罪」として、男も女も死刑になる可能性がありました。

日本では昔、夫が妻に「三行半(みくだりはん)を突き付ける」と言われました。そこには「今般双方勝手合を以て離縁に及び、然る上は其の元儀、何方に縁組み致し候とも、私方に二心無く、これにより離別一札くだんの如し」と三行半で記され、そこには「今後、誰と再婚をしようとも何の依存もありません」という意味がありました。

しかし、現実には、妻の側が夫の乱暴な支配に耐えられなくても逃げようがないという悲惨もありましたから、女性の駆け込み寺のようなものが必要になりました。1284年に北条時宗の妻だった覚山尼という方が開山した尼寺で、北鎌倉駅に近い東慶寺は、江戸時代には江戸幕府公認の「駆け込み寺」として有名になりました。

夫の虐待から逃れた女性が三年間ここに身を隠せば、夫から解放されることになっていました。さだまさしの「縁切寺」という歌で最近の人にも知られるようになりました。

今から三千年余り前のイスラエルでは、一夫多妻が認められていましたから、夫の虐待ばかりか、夫に徹底的に無視された女性が、奴隷のように怯えながら生きざるを得ないことがあり、この離縁状」は妻にとっての福音となるものでした。

モーセの趣旨は、妻を離別するなら、「もう二度と、もとの関係に戻ることはできない」という永遠の別れの覚悟を持つようにという命令でした。そこには一時の感情に振り回されて離縁状を書くことをたしなめる意味がありました。

つまり、モーセの離縁状は妻に反省を迫る脅しとはならず、相手が別の男性のものなることを許容するものだったのです。そこでは元の妻を恋しく思って自分のもとに戻そうと考えることは、主の世界を汚すことになるという厳しい警告が含まれていました。

とにかく申命記24章の教えは、本来、女性を守るために教えであったはずが、夫の勝手な判断を正当化する教えへと変えられたのです。そこでは、「何か恥ずべきこと」が発見された妻に、「離縁状を渡し」て、去らせることを「命じた」と、まったく逆の趣旨へと解釈が変えられていました。

そして当時のパリサイ人の間では、「何か恥ずべきこと」とは何を指すかということで神学議論が熱く戦わされており、それがヘロデ・アンティパスの離婚と再婚をどのように評価するかという政治問題にまで発展していました。

イエスは、そのような無益な神学論議に巻き込まれることを避けようと、天地創造の際の人間の創造と夫婦のあり方に人々の心の目を立ち返らせたと言えましょう。何ごとも原点に立ち返るべきなのです。

なお、旧約聖書の最後のマラキ書2章13–16節では、主が人からのささげ物を顧みなくなる理由が、「 (ヤハウェ) が、あなたとあなたの若いときの妻との証人であり、あなたがその妻を裏切ったからだ。彼女はあなたの伴侶であり、あなたの契約の妻であるのに。

神は人を一体に造られたのではないか。そこには霊の残りがある。その一体の人は何を求めるのか。神の子孫ではないか。

あなたがたは、自分の霊に注意せよ。あなたの若いときの妻を裏切ってはならない。『妻を憎んで離縁するなら、——イスラエルの神、主 (ヤハウェ) は言われる——暴虐がその者の衣をおおう。——万軍の主 (ヤハウェ) は言われる。』 あなたがたは自分の霊に注意せよ。裏切ってはならない」と記されます。

これは、神は夫婦を「一体の人」として造り、その関係の中にご自身の霊を与え、それを通し「神の子孫」を創造するというご計画を立てられたという意味だと思われます。

しかも、妻を裏切ることは、神が与えてくださった「」に反抗することと描かれています。16節は以前の新改訳では、「『わたしは、離婚を憎むと「イスラエルの神、主 (ヤハウェ) 」は仰せられる」と記されていました。

また続くことばは、フランシスコ会訳では、「それ(離婚)は外套のように暴虐で自分を覆うもの」と訳されており、離婚という行為が自分を取り巻く世界への暴虐であるという意味として理解できます。とにかく旧約の最後では、男性の身勝手が厳しく戒められていたのです。

3.だれでも、淫らな行い以外の理由で自分の妻を離縁し、別の女を妻とする者は……

とにかくイエスはパリサイ人たちの質問に、「モーセはあなたがたの心が頑ななので、あなたがたに妻を離縁することを許したのです。しかし、はじめの時からそうだったのではありません。あなたがたに言います。だれでも、淫らな行い以外の理由で自分の妻を離縁し、別の女を妻とする者は、姦淫を犯すことになるのです」(8、9節) と答えました。

イエスの最初の答えは、先に述べたように、すでに破綻した結婚関係から女性を救い出すという意味が含まれています。

ただ同時に、これは旧約で認められていた一夫多妻制は、本来、神の創造の秩序に反していたという意味としても理解できます。それは、戦乱に次ぐ戦乱という旧約の時代においては、どうしても若い男性が戦争で命を落とす可能性が高く、適齢期を迎える女性にパートナーがいないという状況への一時的な対応に過ぎませんでした。

とにかくイエスは、夫婦関係は神が創造した神秘的な秩序であり、一夫一婦の形こそ本来の姿だと言われたのです。

そして、イエスが「淫らな行い以外の理由」での離婚を禁じられたという背景には、先のモーセのことばでの「何か恥ずべきこと」を妻に発見した場合という解釈を巡っての論争があります。

使徒パウロは、パリサイ派の中でもすべてを厳格に解釈する に属していたと思われます。そして彼らは、「何か恥ずべきこと」の意味を、まさにイエスが言われたように「淫らな行い」を指すと考えました。なぜなら、その原語には「裸または男女の生殖器を現わす」という意味があったからです。

しかし結婚している妻の姦淫の罪は、死刑によって罰せられるはずとも言えますから、この「恥ずべきこと」を姦淫の罪に限定することには無理があるとも思えます。

しかも、モーセのことばでは何か恥ずべきことを見つけたために気に入らなくなり」と、「気に入らなくなる」という男性の心理が強調されているようにも思えます。

それで当時のパリサイ人の中の穏健派である は、「恥ずべきこと」の範囲を非常に広く解釈しました。

それは、「妻が彼の料理を台無しにしたときでさえ、離縁状を渡す理由になる」から始まり、「恥ずべき」とは「頭を覆わないで公的な場所に出かけたり、町をぶらぶらしてあらゆる男とおしゃべりしたりしてユダヤ法に違反する女性、夫の前で彼の両親をのろうことばを吐いた女性、また、家の中で話していることが隣人にまで聞こえてしまうような女性である」( 7:6) と解釈されました。

これに従えば、現代の多くの女性は夫から離縁される正当な理由があると思われることでしょう。紀元135年に殉教の死を遂げたユダヤ教最高の学者と呼ばれる は、「男は妻より好ましいと思える女性を見出した時には離縁できる」とまで言いました。しかし、これほど女性を軽んじた解釈があり得るでしょうか。

なお、「頭を覆わないで公的な場所にでかけて……ユダヤ法に反する」ということばを「イスラム法」と呼び変えると、最近話題のタリバンの女性蔑視が理解できます。彼らは二千年前の中東地域の社会慣習を不変のものと理解しているのです。

それは女性の人格権が認められていなかった当時としては、父親や夫に女性を守る責任を与え、家庭を大切にするという意味もあったでしょう。

しかし、イエスは一人のサマリヤの女を通してスカルの町の多くの男性たちをご自身のもとに招き寄せました。また復活の際には、マグダラのマリアに男性の弟子たちへのメッセージを伝えさせました。

実は、イエスがここで結婚を、創造の秩序に立ち返らせ、一組の男女が一体になるという神秘を説いたことは、女性の立場を決定的に高めるという意味を持ちました。イエスの福音こそ、全世界の女性の地位向上の原点だったのです。

最後に、イエスのことばを聞いた弟子たちの反応が驚きです。彼らは、「もし、夫と妻の関係がそのようなものなら、結婚しないほうがましです」(10節) と言いました。これは、イエスのことばは当時の男性たちにあまりにも不利に聞こえたという何よりの証拠です。

結婚してみなければ妻の日頃の振舞い方を知り得ませんが、やり直しの可能性を閉じられるのなら、それは何とも恐ろしい賭けとなります。しかし英語の Wedding の wed には賭けという意味があり、賭博も結婚もやり直しが効かないという点で同じなのです。

ところで、先に述べたようにイエスは、パリサイ派のシャンマイ派と同じことを言っているようでも、その解釈は全く違います。パリサイ人は申命記24章を夫が妻を離縁できる理由と考えたのに対し、イエスは申命記を先のマラキ書の文脈で解釈しているのです。それは夫の身勝手な理由による離縁を禁ずる教えでした。

イエスは、決して、妻の浮気が分かったら無条件に離縁してよいと言ったわけではありません。それは当時、離婚が強制的に成立するか、または石打ちの刑に処せられるべきことでした。

ですから、イエスが言われたことに趣旨は、現代の一般的な結婚の誓約のことばとしては「死が二人を分かつまで」、互いに節操を守り通すという意味になります。

また、現実には、離婚が避けられない場合もあります。それはイエスが「あなたがたの心が頑ななので」、モーセは「妻を離縁することを許した」という解釈に適用でできます。そしてモーセの律法は、本来、壊れてしまった結婚関係から女性の側を救い出すための教えでした。それは日本の女性の「駆け込み寺」のようなものと同じに解釈できます。

とにかくイエスは、徹底的に社会的弱者の味方でした。それが現代的には、聖書的な価値観を大切にするプロテスタントの伝統を大切にする諸国で LGBTQ の権利が擁護されるようになっていることとして現わされています。

ただ、時代はいつも振り子のように揺れ過ぎが起ります。LGBTQ の方々の権利を擁護するために、マタイ19章でイエスが聖書的な結婚について語ったことを、「時代遅れ」などと言ってはなりません。

マラキの記述にあるように、神は夫婦を「一体の人」として造り、その関係の中にご自身の霊を与え、それを通して「神の子孫」を創造するというご計画を立てられたのです。

もちろん、子が与えられない夫婦もあります。だからと言って、子どもの誕生と成長を夫婦関係から論じると、子どものいない家庭への差別となるなどと言われることはありません。

聖書が離婚を禁じているようでも、女性を守るための離婚の規定が必要になりました。そのように聖書には、白黒つけがたい教えもあります。常に理想的な結婚関係を大切にしながら、同時に、その枠にはまらない部分に優しく向き合うという姿勢が求められています。