福音自由の信仰箇条の11条では、「主イエス・キリストご自身による……再臨」を「祝福に満ちた望み」(テトス2:13) と定義し、「信者の個人的生活と信仰に重大な意義を持つ」と解説しています。 “マタイ24章36〜44節「人の子の到来はさばきと救いのとき」” の続きを読む
マタイ24章23〜35節「人の子の栄光の現れ」
残念ながら多くの方々は旧約聖書のイスラエルのという国の大枠の物語を理解しないまま、「イエスが救い主である」と理解しようとしますが、それでは「救い」の意味は理解できません。そこでは、個人というよりも社会全体の「救い」が課題になっています。 “マタイ24章23〜35節「人の子の栄光の現れ」” の続きを読む
マタイ24章9〜22節「愛が冷える中での愛の種蒔き」
イエスは世の終わりについての預言を語りますが、それは当時の政治状況を背景にしています。たとえば紀元37年にローマ帝国第三代皇帝としてガイオス・カリグラが即位しますが、彼は自分が神として称えられることを望み、ついにはエルサレム神殿の中に自分の像を建てさせようと、ペテローニオスを将軍とする軍隊を派遣します。 “マタイ24章9〜22節「愛が冷える中での愛の種蒔き」” の続きを読む
マタイ23章37節~24章8節「産みの苦しみの始まり」
多くの人々は様々な困難に直面しながら、それが速やかに終わることを期待します。それがときに、余りにも安易な、短絡的な問題の解決を望んで、問題をさらに大きくするという過ちにつながります。 “マタイ23章37節~24章8節「産みの苦しみの始まり」” の続きを読む
マタイ23章16〜36節「偽善につながる生活規定」
キリスト教はユダヤ教やイスラム教とルーツが同じですが、根本的に違うのは、目に見える生活規定が驚くほど少ないということです。ある意味で非常に分かりにくく、達成感も得られ難い「教え」とも言えます。 “マタイ23章16〜36節「偽善につながる生活規定」” の続きを読む
マタイ23章1〜15節「モーセの座に着き、天の御国を閉ざす者」
ダビデは「主 (ヤハウェ) の教え(トーラー:律法)は完全で たましい生き返らせ……蜜よりも 蜂の巣のしたたりよりも 甘い」と歌いました。 “マタイ23章1〜15節「モーセの座に着き、天の御国を閉ざす者」” の続きを読む
マタイ22章34〜46節「あなたにとっての救い主とは、どのような方か」
イエスの時代のパリサイ人たちは、神の御教えを細かく分けて丁寧に研究し、毎日の生活の中で、何が神の御心に叶うことなのか、何が反することなのかを明確にして行きました。それは、もう二度と「主 (ヤハウェ) の怒りを引き起こし」、自分たちが「約束の地」から散らされることがないためでした。 “マタイ22章34〜46節「あなたにとっての救い主とは、どのような方か」” の続きを読む
マタイ22章23〜33節「復活こそ、希望の源」
多くのクリスチャンは、イエスの十字架の贖いによって「罪が赦され」、神との交わりが回復し、このままの私が「神の子」とされたという福音を喜んでいます。それは福音の核心です。 “マタイ22章23〜33節「復活こそ、希望の源」” の続きを読む
マタイ22章15〜22節「あれか、これか、を超えた神の視点」
私たちの世界ではしばしば、明確な対立軸を作りながら人々の心をまとめて権力を掌握し、変革を成し遂げるという手法が用いられます。しかし、根底に争いと憎しみを駆り立てる論理があることは次の問題を生み出す種となります。 “マタイ22章15〜22節「あれか、これか、を超えた神の視点」” の続きを読む
マタイ22章1〜14節「招かれ、選ばれる歩み」
ウクライナのゼレンスキー大統領のオンライン演説が多くの国々の国会で受け入れられているというのは、まさに前代未聞の奇跡とも言えましょう。それは、彼がいつ暗殺されても不思議ではない危険な状態に自分の身を置きながら、ウクライナ国民全体の救いを求めて語っているという、その背景を皆が知っているからです。 “マタイ22章1〜14節「招かれ、選ばれる歩み」” の続きを読む