マタイ22章34〜46節「あなたにとっての救い主とは、どのような方か」

2022年5月1日

イエスの時代のパリサイ人たちは、神の御教えを細かく分けて丁寧に研究し、毎日の生活の中で、何が神の御心に叶うことなのか、何が反することなのかを明確にして行きました。それは、もう二度と「主 (ヤハウェ) の怒りを引き起こし」、自分たちが「約束の地」から散らされることがないためでした。

彼らは、大切な神殿をバビロン帝国に破壊され、自分たちの父祖がバビロンに捕囚とされた歴史を思い起こしながら、律法を守ることに熱心になっていました。その熱い思いをネヘミヤ記に垣間見ることができます。

しかしその熱心さは徐々に、取税人や遊女のような罪人たち、異教の神々を信じる者への軽蔑と変わって行きました。神への熱心さが偏狭な争いを生み出し、神と隣人への愛という原点から離れてしまうことは、今も起こり得ることではないでしょうか。その鍵が「救い主(キリスト)」をどのように見るかということにあります。

1.「律法の中でどの戒めが一番重要ですか」

22章34、35節では「パリサイ人たちはイエスがサドカイ人たちを黙らせたと聞いて、一緒に集まった。そして、彼らのうちの一人、律法の専門家がイエスを試そうとして、尋ねた」と記されます。パリサイ人は、サドカイ人と犬猿の仲だったので、イエスが彼らを黙らせたことを喜ぶ一方で、イエスを訴える口実を捜すことに一生懸命でもありました。

少し後の歴史家ヨセフスは、「パリサイ人は、簡素な生活を営み……数々の戒めを守ることに重点を置き……もし律法のために死ぬ必要があれば、喜んで死ぬような者にこそ神は復活を許し、より良い生を与えると信じている」と、彼らの高潔な道徳律を高く評価しています。

そしてそのパリサイ人の一人の「律法の専門家」がイエスを「試そう」と、「先生、律法の中でどの戒めが一番重要ですか」と「尋ねた」というのです。それは、当時の律法学者が、モーセ五書の戒めを613の部分に分け、どれが大切かについて熱い議論をしていたからです。彼らはイエスの知識を試験したのです。

それに対して「イエスは彼に言われた。『あなたは心を尽くし、いのち(たましい)を尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』これが、重要な第一の戒めです」と記されています。

これは申命記6章4、5節からの引用で、そこには「聞け、イスラエルよ。主 (ヤハウェ) は私たちの神、主 (ヤハウェ) は唯一である。あなたは心を尽くし、いのち(たましい)を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主 (ヤハウェ) を愛しなさい」と記されていました。マルコの並行記事では、「聞け、イスラエルよ、主は私たちの神、主は唯一である」という最初の部分が記録されますが、ここでは「愛の命令」だけが記されます。

ユダヤ人は毎日、「聞きなさい(シェマー)イスラエル。主 (ヤハウェ) は私たちの神(アドナイ・エロヒヌ)。主 (ヤハウェ) は唯一である(アドナイ・エハッド)。あなたの神、主 (ヤハウェ) を愛しなさい(ヴェ・アハヴタ・エット・アドナイ・エロヘハ)、あなたの心(心情)を尽くし(ブコール・レヴァヴェハ)、あなたのいのち(たましい)を尽くし(ブコール・ナフシェハ)、あなたの力を尽くして(ブコール・メオデハ)」と暗証しています。

ここの「力を尽くし」とは「満ち満ちて、あふれるばかりに」という意味で、マタイでは「知性を尽くし」と訳され、マルコでは「知性を尽くし、力を尽くして」と訳され (12:30)、ルカでは「力を尽くし、知性を尽くして」とそれぞれ微妙な違いで訳されています (10:27)。

ですからこの命令は、自分の心、いのち、全存在を賭けて、何にも増して、あふれるばかりに「主を愛するという意味なのです。

紀元後135年、最高の律法学者として尊敬されていた「ラビ・アキバ」は、バル・コクバ(星の子:民数記24:17)と称する指導者によるローマ帝国からの独立運動に加担して殉教の死を遂げますが、彼は死の拷問を受けながら、朗々と「シェマー・イスラエル」と唱えつつ、にこやかに笑っていました。

ローマ兵は、「この老いぼれめが、こんな拷問にかかりながら笑うなんて……」と驚いて尋ねました。それに対して彼は、「私は一生ずっとこのシェマーの祈りを唱えてきた。だがいつもこの命令を実行できているかどうか不安だったのだ。今、私はここに自分のいのちを神にささげる一方で、期せずしてこうしてシェマーの祈りを唱える機会に恵まれ、神への信仰を全うできているのを自ら確認できたのだ。だからこんな嬉しいことはない。どうして笑わずにおれようか」と答え、それを語り終えると同時に、息絶えたとのことです。

「心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くして、あなたの神、主 (ヤハウェ) を愛する」とは、とてつもなく深い命令で、どこまで全身全霊を「尽くして」も、「達成できた」という安心が得られないと命令とも言えます。しかし、だからこそこの命令は、繰り返し、私たちを謙遜な信仰の原点に立ち返らせてくれます。

私たちは、この命令の前では、決して自分を正当化できなくなり、神の前に徹底的にへりくだるように召されるはずなのです。これは人間的な熱心さではなく、聖霊の働きで初めて全うできる命令です。

その点でパリサイ人たちは根源的な過ちを犯していました。確かに彼らも主への愛のゆえにいのちを賭けましたが、それは現代のアラブ人の自爆テロの心理に似ているかも知れません。

そこには、自分の愛の崇高さを訴える思いと同時に、人をさばく思いや怒りがあります。彼らは自分自身から自由になる必要がありました。

2.「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」

イエスは続けて、「第二の戒め、『あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい』も同じように重要です」と言われました (39節)。これはレビ記19章17、18節の最後の部分からの引用です。そこでは何よりも、憎しみや恨みとの対比において、「隣人愛」が説かれています。

そこに記された全文を正確に引用すると、「心の中で自分の兄弟を憎んではならない。同胞をよく戒めなければならない。そうすれば、彼のゆえに罪責を負うことはない。あなたは復讐してはならない。あなたの民の人々に恨みを抱いてはならない。あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。わたしは主 (ヤハウェ) である」と記されています。

そこでの「あなたの隣人」とは、「身内の者」や「あなたの国の人々」と理解することができましたが、イエスは、良きサマリヤ人のたとえで、通りがかりの人の「隣人になることを勧めました (ルカ10:29–37)。イエスは、隣人愛を、肉のままの人間にとって不可能なレベルまで引き上げたのです。

そして、ご自身、十字架にかけられながら、強盗の隣人となられたばかりか、自分を十字架にかけた人のために、「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです」(ルカ23:34) と祈られました。

ただ、レビ記19章の文脈では、まず「あなたがたは聖なる者でなければならない。あなたがたの神、主 (ヤハウェ) であるわたしが聖だからである」と命じられています (2節)。それは、人間的な常識を超えた神の基準に従って生きることの勧めです。

「聖」とはこの世界から隔絶した神の領域であり、その神の善悪の基準に従って生きることが命じられているのです。そして、神の聖さにならう具体例が様々に記されますが、その中で特に、隣人を愛することが、「収穫した後の落ち穂を集めてはならない……それらを貧しい人と在留者のために残しておかなければならない……日雇い人の賃金を朝まで自分のもとにとどめておいてはならない……目の見えない人の前につまずく物を置いてはならない……民の中で人を中傷してまわり、隣人のいのちを危険にさらすことがあってはならない……白髪の老人の前では起立し、老人を敬い……」などと、極めて具体的な勧めが記されながら、最後には「あなたがたとともにいる寄留者は……あなたはその人を自分自身のように愛さなければならない」(レビ19:34) と、隣人愛を在留異国人への愛として描いています。

在日韓国人としての差別に苦しんだ友人は、このレビ記の記述に深く慰められ、それを卒論のテーマにしました。良きサマリヤ人のたとえは、実は、レビ記の必然的な適用例だったのです。

それにしても、神の基準で隣人を愛することは、肉なる人間にとっては不可能にも思えます。それは、聖霊のみわざによって、神の愛が私たちのうちに根づくことで初めて可能になります。

そのためにはまず、私たちが自分の弱さや自己中心性を心から認め、自分の力や知恵に頼る代わりに、自分の心を神に明け渡して行く必要があります。そこで初めてイエスの御霊が私たちを造りかえてくださるのです。

イエスはここでさらに、「この二つの戒めに律法と預言者の全体がかかっているのです」と言われました (40節)。それは分厚く、事細かに見える聖書の教えをひとことで要約すると、「全身全霊で創造主を愛する」ことと「隣人を自分自身ように愛する」ことの二つになるという意味です。

マルコの並行記事では、イエスに尋ねた律法学者がこの応答に同意し、またイエスも彼に向かって、「あなたは神の国から遠くない」と言って (12:34)、その信仰を評価したと描かれています。

聖書の教えの中で何が一番重要であるかに関して、イエスとパリサイ人たちの間に完全な一致があったというのは、本当に驚くべきことです。

なお、多くの信仰者もこの二つの教えが聖書の核心だとは分かっているはずですが、そのもととなる箇所を開くことができる人は、あまり多くないのかもしれません。

しかし聖書は常に、もとの文脈から理解する必要があります。パリサイ人たちは細部にこだわりすぎ、本質を見失っていたとも言えましょう。

3.「ダビデがキリストを主と呼んでいるなら、どうしてキリストがダビデの子なのでしょう」

22章41節では、「パリサイ人たちが集まっていたとき、イエスは彼らにお尋ねになった」と描かれます。これは、イエスの側から、パリサイ人に彼らの聖書理解の不足を明らかにするような質問をするという意味です。ここでイエスは「試される」側から、「彼らの信仰を試す」という側に立っています。

その問いかけが、「あなたがたはキリストについて、何を思いますか。だれの息子ですか」というものでした。それに対し彼らは即座に「ダビデのです」と答えます。

それに対しさらにイエスは、どうしてそれでは、ダビデは御霊によってこの方を、(アドナイ:主人)と呼んでいるのでしょう、次のように言いながら」と、詩篇110篇のことばを引用し、「主 (ヤハウェ) は、私の主 (アドナイ) に言われた。あなたはわたしの右に着いていなさい。わたしがあなたの敵をあなたの足の下に置くまでは」と「言われました」。

ここでイエスは「ダビデは御霊によって、この方を主と呼んでいる」と言いながら、この詩篇を引用されました。これはダビデが自分でも理解できないことを、聖霊の導きの中で語ったという意味と思われます。

詩篇には人間的な感情表現が豊かに記されていますが、そこには、著者自身も理解できなかったような神の救いのご計画も記されています。それはキリストの復活預言として繰り返し引用される詩篇2篇などにも明らかです。

パリサイ人たちが、「キリスト」を「ダビデの子」と、何の疑問もなくすぐに呼ぶのは現代の私たちにとっては不思議に思えます。しかしそれは、当時の人々が、自分たちを外国の支配から解放してくれる新しい王、「ダビデの子」としての「救い主(ギリシャ語では「キリスト」)」を待ち望んでいたからです。

実際、エリコの二人の盲人はイエスが目の前を通り過ぎると聞いただけで、「私たちをあわれんでください。主よ、ダビデの子よ」と叫び続けました (20:30、31)。また、イエスをエルサレムに迎えた群衆も、「ホサナ、ダビデの子に」と叫びました (21:9)。

イエスは確かに新しい「神の国」を実現する「ダビデの子」であり、「キリスト」です。ただ、ペテロがイエスに向かって「あなたはキリストです。生ける神の御子です」と告白したとき、イエスは弟子たちに「ご自分がキリストであることをだれにも言ってはならない」と、それを秘密にするようにと戒めました (16:16、20)。なぜなら、人々がイエスを、ダビデ王国を再興する指導者としての「ダビデの子」に祭り上げることを知っておられたからです。

当時の人々はローマ帝国の支配から解放する革命指導者を待ち望んでおり、それは紀元前165年にエルサレム神殿をギリシャ人の王アンティオコス四世から解放したユダ・マカバイオスのイメージに倣ったものです。その常識が変えられる必要がありました。

それでイエスは、キリスト預言として有名な詩篇110篇を引用しましたが、それは「ダビデによる」もので、その最初に「主 (ヤハウェ) は、私の主 (アドナイ) に言われた」と記されます。

ここで「私の主 (アドナイ)」と呼ばれた方は、神の右の座について、この「世界を治める方」として描かれます。さらにその2、3節を見ると、この方はご自分の「敵のただ中で治め」、その「民は」その「戦いの日に」「喜んで仕える」と記されていますから、当時の人々が期待した戦いを主導する「救い主」のイメージに反してはいません。

ただ何よりも不思議なのは、ダビデがこの方を「私の主 (アドナイ)」と呼んでいることです。それは、この方が実現する救いは、あのイスラエルの地にダビデ王国を再興するというよりも、全世界を従える「王たちの王」(黙示19:16) であるということです。

当時の人々はローマ帝国からの独立を望んでいましたが、救い主はローマ帝国ばかりかインドや中国という他の文化圏までをも支配する偉大な王となることを当時の人々は理解していませんでした。彼らの目は、世界全体のごく一部に過ぎない「約束の地」にだけ向けられていました。

それによって、イエスは彼らのキリスト理解がいかに人間的で、浅薄なものかを示されたのです。彼らは、イスラエルがローマ帝国から独立し、ダビデ王国が復興されることで、神の救いが完成すると信じていました。しかし、それは歴史が証明するように、別の民族紛争の始まりでしかありません。

しかし、世界の平和が実現するのは、キリストが神の右の座、つまり宰相の地位について、すべての敵がキリストの足の下に従わせられるときなのです。

その時のことをパウロはコリント人への第一の手紙15章24–27節でこの詩篇を引用しながら、「それから終わりが来ます。そのとき、キリストはあらゆる支配と、あらゆる権威、権力を滅ぼし、王国を父である神に渡されます。すべての敵をその足の下に置くまで、キリストは王として治めることになっているからです。最後の敵として滅ぼされるのは、死です」と述べています。

さらに続けて詩篇8篇6節を引用することで、「死」を含めた万物をキリストの支配下に置くことを、「神は万物をその方の足の下に従わせた」として記します。これこそ、世界の歴史のゴールです。

この世の帝国は、人に死をもたらす「剣の力」によって人々を脅し、従わせようとします。しかし、初代教会から古代教会にかけて、多くの信仰者はローマ帝国の脅しに屈することなく、皇帝を神として拝む代わりに殉教の死を遂げて行きました。

ローマ帝国の剣の力は彼らには通用しなかったのです。それは、キリストがご自身の十字架によって「死の力」に打ち勝ち、ご自身に従う者に栄光の復活を約束されたからです。

「永遠のいのち」とは、この復活のいのちが、今から始まっていることを意味します。そして、世界の完成の時には、「死」の恐怖で人々を惑わす悪魔自身が滅ぼされます。

つまり、聖書が語るキリストは「最後の敵」としての「死」をも滅ぼすことで、全世界に広がる「神の国」を打ち立てる方なのです。

22章45節では、それを理解させるためにイエスは最初の問いかけを繰り返しながら、「ダビデがキリストを主 (アドナイ) と呼んでいるなら、どうしてキリストがダビデの子なのでしょう」と、キリストとダビデの子との関係を問い直すようにと優しく語りかけます。

そして、「するとだれ一人、一言もイエスに答えられなかった。その日から、もうだれも、あえてイエスに質問しようとはしなかった」と記されます (46節)。

彼らは、神の救いを、カエサルに税金を納めなくて済む独立国家を建てる程度にしか理解していませんでした。確かに、キリストは「ダビデの子」として、目に見える「神の国」を実現してくださいました。それは現在、キリスト教会として全世界に広がっています。

しかしイエスは同時に、ダビデの主(アドナイ:主人)として、ダビデが果たすことができなかった、全世界的な真の平和 (シャローム) を実現してくださいます。この世界には今もなお、サタンの惑わしと攻撃が満ちており、私たちは「神よ、どうして……」とうめかざるを得ないことが多くありますが、キリストは、この戦いに対する勝利を、ご自身の復活によって確定して下さいました。それで私たちはすでに「圧倒的な勝利者」(ローマ8:37) とされています。

しかも神の救いのゴールは、目の前の問題の解決ではなく、世界の完成、愛の交わりの完成です。エデンの園にあった、祝福に満ちた神と人、人と人、人と被造物の交わりが、拡大された形で新しいエルサレムにおいて実現します。

今、私たちのうちには、復活のキリストの御霊が宿っています。私たちは何度も失敗し、落胆しますが、キリストの御霊は、あなたの中にご自身の愛を注ぎ、また神と人とを愛する力を生み出してくださいます。

律法の核心とは「神を知る」ことです。「知る」ということばは性的な交わりにも使われることばで、知識を超えた心の奥底からの体験を意味します。私たちの神への愛も、隣人愛にも、必ず自己中心性が潜んでいます。「私は真心から神を愛しています!」などと言い切れる人は、性格的に危ない面があります。それはパリサイ人への道です。

「人よ、罪に泣け」というドイツの讃美歌があります。それはタイトルとは違って、自分の罪深さを厳しく問うような歌詞ではなく、何よりも、神が自分の罪に泣く罪人のためにご自身のひとり子を世に遣わしてくださったという信仰告白の歌です。

すべての戦争は、「私たちは正しく、相手は間違っている」という発想から始まります。そしてそれぞれの国内では、過激な発言をする人の方が愛国者と見られ、他国の主張を正確に報道などしようものなら、売国奴のように非難されます。これはとっても危険な風潮ではないでしょうか。相手の国の論理、相手の発想に共感できなくなったら、対話は成り立たなくなります。

偏狭な熱心さほど危ないものはありません。確かに、イエスの時代のサドカイ人は、理想を軽蔑し、ローマ帝国に妥協することで国の根幹を揺るがしましたが、パリサイ人は偏狭な理想を追求しすぎて、国を破滅に導きました。

両者とも「信仰」を人間的な働きとしか理解せずに、自分たちの立場を正当化していました。それこそ自分を神としたアダムの罪の問題です。しかし、信仰とは、自分の弱さや愚かさを知る人のうちに働く神のみわざなのです。

神の基準を人間的なものに下げるのでもなく、人間的な熱心さによって、理想を達成するのでもなく、神の理想を神のわざによって全うするのです。