私たちの教会は、30年前の10月1日に、キリストの復活宣言とともに礼拝を始めました。世の多くの人々はイエスが私たちの罪の身代わりとして十字架で苦しまれたということを知っています。しかし、聖書では十字架と復活はセットになっており、十字架は勝利のシンボルでもあるのです。 “Ⅰコリント15章1〜11節,20〜24節、58節「キリストの福音に生きる教会」” の続きを読む
Ⅰコリント15章12〜28節、50〜58節「終わりのラッパとともに、私たちは変えられる」(ヘンデル作 メサイア第二部、第三部 テキストから)
2008年3月21日
キリストの復活を文字通りの歴史的な事実と信じる必要はないという人々が数多くいます。私自身も昔、その影響を少しばかり受けていました。しかし、コリント人への手紙第一15章の生々しい表現に圧倒され、考えを改めました。パウロはそこで、そのような霊的な解釈は、「神について偽証」(15節)になるばかりか、「もし、私たちがこの世にあってキリストに単なる希望を置いているだけなら、私たちは、すべての人の中で一番哀れな者」(19節)だと断言します。 “Ⅰコリント15章12〜28節、50〜58節「終わりのラッパとともに、私たちは変えられる」(ヘンデル作 メサイア第二部、第三部 テキストから)” の続きを読む
Ⅰコリント2章6〜16節「賢く生きる」(ジェームズ・フーストン博士)
1999年10月17日 ジェームズ・フーストン博士(リージェントカレッジ創立者)メッセージ “Ⅰコリント2章6〜16節「賢く生きる」(ジェームズ・フーストン博士)” の続きを読む