Ⅰコリント2章6〜16節「賢く生きる」(ジェームズ・フーストン博士)

1999年10月17日 ジェームズ・フーストン博士(リージェントカレッジ創立者)メッセージ

このような機会に家内ともどもあなたがたを訪問できたことは大きな特権です。私たちはあなたがたの心のうちにすでに招かれており、それをとても感謝しております。なぜなら、あなたがたの幾人もの友人がリージェントで私たちとともにおり、かけ橋となっておられるからです。神様は、私たちができないような形で、私たちを結びつけるすばらしい方法を持っておられます。なぜなら、それは1955年に始まるからです。1953年に私と家内が結婚して、まもなく、オックスフォードで新しい教会の交わりを始めました。あなたがたは10人ぐらいで始まったと聞きますが、私たちは12人でした。ですから、私たちは信仰のパイオニアの気持ちが分かります。それはからしだねのようなものです。神様は、小さいものの神様です。そして、神様は小さなものを私たちの想像を越えるほどに大きくしてくださいます。その信仰の体験から、私たちはより大きな信仰の体験として、リージェントカレッジを始めさせていただきました。ですから、あなたが神様のためにすることで、祝福に値しないような小さすぎることはないことを知って、励ましを受けて欲しいと願っております。神様以外のだれが私たちを結びつけることができるでしょうか。私たちはそれぞれ本当に異なった文化的背景や異なった行動様式や、背景から来ています。それは、この交わりにおいてさえも事実です。ある兄弟が昨晩、この教会のサインがとっても通りから小さかったけれども、その兄弟ばかりか家族全員をこの交わりに加えてくださったと証ししておられました。それこそが、霊的なできごとの本質です。霊的であるとは、あるものをあるものに結びつけることです。

本日の主題は、私たちは霊的に生きるときに、賢く生きているということです。古代、知恵の源泉は大きな文明と結びついていました。旧約聖書は、エジプトやバビロニアの知恵について言及しています。これらの文明が賢かったのは、それが物事を結びつけていたからです。彼らは、知識を社会の発展のために驚異的な方法で生かすことができました。ですから、たとえばエジプトやバビロンの知恵は、大量の水を治める、偉大な灌漑技術と結びついていました。それはちょうど、中国文明の核心は、揚子江を治めることにあったようなものです。つまり、知識は人間のより良い生活のために適用されるべきだということです。しかし、最近は情報の洪水の中で、人間の存在に結びつかない知識が増えています。T.S.エリオットという詩人は、「どこに知恵があるのか?私たちは知識のなかでそれを失ってしまった。どこに知識があるのか?私たちは、情報の中で失ってしまった」と言っています。電子革命は、データが急激に増えたことによりますが、それは知恵を失う危験でもあります。ですから、クリスチャンであろうとなかろうと、多くの現代の人々は、「私たちは情報の代わりにどのように知恵を得ることができるか?」と嘆いています。

旧約聖書には知恵の文学というのがあり、ヨブ記には、「どこに知恵を見いだすことができるのか?」という叫びがあります。ヨブの三人の友人は、ヨブ以上に知恵があると思っていました。ヨブが苦しみの中で悶えているという事実は、ヨブが知恵を知っていない証拠だと見られました。ですから、ヨブの三人の友人たちは、どこに知恵を見いだすことができるかについての三つの解釈を現していました。私たちはその響きを、パウロのこの手紙の9節に見ることができます。それは、イザヤ書64章からの引用です。しかし、イザヤ自身は、それをヨブ記から受けています。

第一の友人エリファズはヨブとの議論で、「あなたの目のまわりを観察しなさい。経験に基づいて行動しなさい。私が目で見たことこそが知恵の源泉だ。」と言いました。第二の友人ビルダテは、「前の時代を考え、あなたの父たちが言ったことを思い出せ。」と言いました。彼は、エリファズのような現実主義者ではなく、受け継がれた伝統を大切にしました。そして、三番目の友人ツォファルは、「私の思考こそが答えを与える。」と繰り返しました。彼は自分の直感に頼っていたのです。しかし、預言者は、「それは本当の知恵ではない、目が見たことのないもの(観察)、耳が聞いたことのないもの(伝統)、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの(直感)。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」(9節) と語っています。

知恵は、エジプトやバビロンで見いだされないばかりか、私たちの経験や人生の解釈からでも、観察や伝統や直感によるものでもなく、神の御霊によってのみ与えられるものです。しかし、どのように神の御霊を、私自身の霊によって見分けることができるでしょうか。それは非常に実際的な質問です。なぜなら、最近は、スピリチュアリティー(霊性)ということばが大流行だからです。

霊性が、最近のアメリカや日本や、ヨーロッパで、なぜはやるようになったのかを振り返って見ましょう。18世紀の啓蒙主義時代以降、私たちの考え方は非常に合理的になり、政治システムもイデオロギー中心になってきました。それは、現実を理性によって説明するシステムです。大学で教えられた人は、19世紀から20世紀初頭にかけてのイデオロギーを学びました。その中でもっとも成功したのはマルクス主義です。それは、ロシアから世界に本当に多くの影響力を与えました。ドイツではファシズムの展開がありました。西側では資本主義の発展がありました。それは、理性的なシステムが私たちのいのちを助けるというものです。それは、私たちの文化や国民がそのイデオロギーに従えば勝利に満ちた生活ができるという信仰でした。しかし、それらはみんな失敗におわりました。1989年の天安門広場であれ、ベルリンの壁の崩壊であれ、それはすべてイデオロギーの死を意味し、それが20世紀後半に起こりました。そして、霊性というのは、イデオロギーの後継者となったのです。ですから私たちが霊性という時、六つの違ったことを意味します。

第一は、合理的に考える代わりに、「あなたの霊は?」、「私の霊は?」と問うことです。私が考えることは、マルクスが考えることやヒットラーが考えることよりもはるかに重要だということです。私たちは互いに、「あなたには霊があるのか?」と尋ねます。別のことばで言うなら、「あなたにはアイデンティティーがあるのか、それとも、他の人が考えたシステムの背後に自分を隠そうとしているのか?」という問い掛けです。ですから、私たちは試験で、「あなたはどう思うか?」と問います。それは、「あなた自身を表現しなさい。」という励ましでもあります。あなたがた多くの女性にとってはそれは困難なことかもしれません。なぜなら、夫の霊の背後に隠れる傾向があるからです。また、あなたは、両親の霊の背後に隠れている場合があります。

第二は、「私はどのような霊を持っているか?」という問いです。「あなたは意地悪な、不親切な、自己中心的な霊を持っている。」と親切に言ってくれる友人がいるかも知れません。それは、どのような動機や態度を持っているかという質問でもあります。それは、良い霊か、悪い霊か、親切な霊か、自己中心的な霊かという意味です。

第三には、「私の霊はどれだけ強いか?」と互いに問い合います。たとえば、自分を強いと感じるか、弱いと感じるかです。別のことばで言えば、「私には力があるか、肯定されているか、それとも弱く、意志がない。」と思うかです。

第四には、「私はどれだけ霊的であるか?」という問いです。あなたはどれだけ他の人に結びついているでしょうか。それとも、自分の殻に閉じこもり、他の人と交わりを持つことができないと考えているでしょうか。東京のような過密な地に住むと、どれだけオープンになれるかという問題が生まれます。蜂の巣の中の蜂のように、狭い部屋ばかりで、十分呼吸ができるスペースもないと感じているかも知れません。人々は、私が私であるためのスペースを与えてくれるでしょうか。甘えの文化の中で、互いが依存し合う中で、私が何であるかを表現できる余地があるでしょうか?

第五に、「私はどれだけ真に霊的であるか?」という問いです。あなたには本当の変化が起こっているでしょうか。「私の霊は変わった。」と言えるでしょうか。明らかに、私は、自分が傷つくことにオープンにならなければ、決して変わりはしません。また、もし、私が他の価値観を知ろうとしなければ、決して変化は生まれません。あなたは、今までとは違ったように考え、違ったように生きる用意ができているでしょうか。

第六には、「私は霊において自由を味わっているか?」です。生まれながらある人は霊において他の人よりも自由であり、「私は、あなたがどのように思うとも構わない。」と言うことができます。それは、他の人の考えから独立していることです。しばしば反抗するのは、より自由な人です。放蕩息子が救われたのは、最初に反抗したからですが、家にいた良い子は失われたままでした。ですから、放蕩息子は、たとえ反抗的であっても、より霊を持っていたということになります。一方、私たちの知るかぎり、長男の方は、ほとんど霊を持っていなかった、また、救われなかったということが分かります。

これらは、最近言われる霊性であり、とても複雑で混乱しやすいものです。21世紀に向かって、すべての人が、それぞれ自分の霊を主張した時に何が起こるでしょうか。もし、三千万もの人が集まると言うこの首都圏で、果たして調和が可能でしょうか。ですから、ポストモダン(近代以降)と言われる時代には、霊性が私たちをどこに導くかについての大きな恐れがあります。パウロもコリントの教会に向けて、霊について、また霊性について語っていますが、それは、現代の東京とかけ離れたことではありません。そこは、国際都市であり、様々な人種が集まっていました。また、エジプトや中東諸国や黒海、小アジアをはじめとする様々な霊性の影響下にありました。文化的な多様性があり、コリントの教会の中にも様々な霊性があり、互いに競争していました。「私はパウロにつく、私はペテロに、私はキリストに……」という分裂がありました。不一致と混乱がありました。さらに問題を悪くしたのは、彼らは、いつも霊を意識して生きていたということです。

たとえば、いつも怒りやすい、ねたみやすい、勝手な人というのは、神経的な問題を抱えていると理解されますが、パウロの時代には、異なった霊に支配されていると理解されました。それは、東京圏には三千万もの人が住んでいますが、コリントには同じような数の異なった霊が存在したというようなものです。すべての感情、すべての情動にそれぞれ異なった霊があると見られました。たとえば、ギリシャ語のユードミニアは、文字どおりには、良い霊または幸せな霊を持っている人と言う意味です。ですから、当時、「あなたは元気ですか。」「平安ですか。」と尋ねる代わりに、「あなたは幸せの霊、平和の霊を持っていますか」と尋ねました。ですから、彼らには何百万もの霊が存在したのです。

パウロは、生まれたままで生きるとは、これらの霊に従って生きることだと言いました。それは、また、サイコロジカル(心理的)に生きるという意味であり、そのような人はサイキコイ(心理的な人)または、生まれながらの人と呼ばれました。しかし、その問題は幾つもの異なった霊の支配下に生きるということでした。その霊たちが家を支配し、あなたが家から追い出されているようなものです。それは、悪霊につかれている人がイエスに向かって、「私たちはレギオンです。」と答えたようなものです。ですから、イエスの宣教は、人をそのような多数の霊から自由にして、人を統合することでした。霊的な人とは、イエス・キリストの霊に支配される人です。クリスチャンになるとは、自分の霊や多くの霊にしたがって生きはしないと決断することです。パウロは、「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。今、私が、この世に生きているのは(自然の状態で生きているのは)、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子の信仰(新改訳とは別訳)によっているのです。」(ガラテヤ2:20) と言いました。

ただし、私たちはもっとキリストのように、もっとキリストの霊に支配されたいと思いますが、努力すればするほど、迷いに陥ることがあります。たぶん、それはあまりにも努力しすぎるからではないでしょうか。たとえば、あなたは、「今週私はオフィスでいやなことが続いた。私はたぶん誤った霊に支配されていたのだ。キリストの霊に従っては生きていなかった。日曜日が来たけれど、今日は教会には行きたくない。なぜなら、私は自分がいかに誤っているかを見せることになるから。だから、私は、来週頑張って、もっとクリスチャンらしく生きられたら教会に行こう……」などと思うかも知れません。でも、それはパウロがここで言っていることでしょうか。そうではありません。あなたの良い動機の霊があなたをクリスチャンにするのではありません。あなたをもっとクリスチャンとしてふさわしくするのは、もっと自分の霊を少なくして、主の霊がもっとあなたを支配することです。決して、私たちの良い霊が、主の霊の代わりになってはいけません。

それでは、どんなときに、私たちがキリストの霊に支配されることができるのでしょうか。それは、私たちがより弱くなるときであって、強くなるときではありません。それは、「主よ、私にはできません!」と言うときです。たとえば、「主よ。あなたは、私にあんなひどい仕打ちをした人を赦せと言うのですか。それは決してできません!あなたは私に不可能なことを命じます。私はそれらを実行するにはあまりにも弱過ぎるのです。」と告白するようなときに、まさに、主の霊が私をもっと支配できるのです。たとえば、私が家内とともにこちらに飛んで来たとき、疲れのために夢を見ているような感じで、果たして生き延びられるのだろうかと思うほどでした。しかし、朝目覚めて、「私たちはまだ生きている。これは奇跡だ!」と思いました。まだ、目の前に置かれたプログラムをすべてまっとうできる自信はありません。ところが、私たちが愛し、仕える神は、私たちをそもそも不可能な働きに召しておられるのです。なぜなら、主は、不可能を可能にしてくださる方だからです。事実、パウロは、「私は、私を強くしてくださる方によってどんなことでもできるのです。」(ピリピ4:13) と言っています。

さらにパウロは、自分自身の弱さこそが、彼の宣教の基礎だと語っています。私たちがキリストの霊に支配されるもっとも良い方法は、自分の霊において葛藤を味わうことです。神様は、私たちの葛藤を用いて、私たちを整えてくださいます。神様は、私たちが牢獄に閉じこめられているときこそ、私たちを自由にしてくださいます。それはパウロを見れば分かります。彼は、ローマ市民として、古代社会で福音のために全世界を旅行する自由を持っていました。しかし、現実には、彼はほとんどのときを牢獄で過ごしたのです。何という矛盾でしょう。「あなたが異邦人のための使徒であるなら、いつでも旅行しているべきではないですか?あなたはその自由を持っているのです。」とでも言いたくなります。ところが、彼は、「キリスト・イエスの囚人となった私パウロが言います」(エペソ3:1) などと、それを受け入れているのです。ですから、クリスチャンの霊がもっとも自由なのは、もっとも葛藤を味わっているときであり、クリスチャンの霊がもっとも強いのは、生まれながらの私がもっとも弱いときです。もし、私が自分の力によって主に仕えているなら、それは無神論者として仕えていることになります。なぜなら、もし自分でできるなら、私は主を必要としないことになるからです。もし私が主のために、自分の力で何かをしているとしたら、私はしばしば、無神論者として行動しているのです。

人々は、「おおパウロよ。あなたは変なことを教える。あなたは気が狂っている。人々が、あなたを世界を混乱させるものとして責めたのも無理はない。」と言うかも知れませんが、それが事実です。パウロは、「私が弱いときにこそ、私は強いからです。」(Ⅱコリント12:10) と言ったのですから。また、彼が牢獄にいるとき、彼は自由だったのです。別のことばで言えば、彼は自分の奉仕を逆さまに立ってしたようなものです。これこそ、霊的な自由の要点です。私たちがイエスの死をこの身に帯びているとき、私たちの死においてイエスのいのちが現わされるのです (Ⅱコリント4:10、11)。これこそが、神の知恵です。これは生まれながらの人間には愚かなことです。しかし、神である方が、十字架に甘んじてかけられるということほど愚かなことがありましょうか。私たちはキリストの死において何を理解することでしょうか。それは、キリストの愛ではないでしょうか。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。」(ヨハネ3:16) のですから。

そして、さらに、私たちはキリストの御霊を受けることができます。キリストが死なれたとき、ご自身の霊を御父にお渡しになりましたが、それは、御父が、主の霊を私たちに分かち合うことができるためです。あなたと私がどれだけキリストの霊を受けているかは、キリストにあって私たちがどれだけ死を体験しているかによります。ですから、新約聖書では、バプテスマと御霊を受けることが同じ現実と見られているのです。バプテスマによって私たちは死にます。私たちはその現実の中で、私たちの霊の代わりにキリストの霊を受けるように願うのです。私たちは、そこに見られるふたつの死によって、つまり、キリストがご自身の御霊を分かつために死んでくださったことと、私たちが主の御霊を受けるために死ぬこと、それによって私たちが霊的な人間になるのです。主のいのちを生きるための力は、主ご自身の賜物です。ですから、もはや私がするのではなく、主が私を通してなしてくださるのです。

十字架の神学、弱さの神学こそが、神の知恵です。もちろん、これは、世が理解できるものではなく、世にとっては愚かなことです。しかし、これこそが、私たちを一致させ、結びつけ、交わりを可能にするものです。もし、私が、あなたは自分の生まれながらの霊に従って生きておらず、神の御霊を待つことを願っていることが分かるなら、また、あなたが、この私も同じ現実を味わおうとしていると認めることができるなら、私たちは互いに交わりを持つことができます。あなたが自分の霊を守ろうとし、私が自分の霊を守ろうとしているかぎり、私たちに一致は生まれません。もし、あなたにとって信頼できるクリスチャンを思い浮かべるなら、その人は、キリストに信頼している人ではないでしょうか。そして、あなたにとって信頼できない人は、自分自身に信頼しているような人ではないでしょうか。私たちが共通に信頼している方こそ、私たちを結びつける方です。

ですから、使徒ヨハネが言っているように、あなたがたの回りには多くの霊があるので、主が、あなたがたに、霊を見分ける力を与えてくださるようにと願っています。私たちはその霊を見分けるという現実の中で、賢く生きることができるのです。そのために私たちが互いに助け合うことができますように。

最後に、この通訳をしてくださった兄弟に心から感謝をしたいと思います。なぜなら、彼は、自分の説教を犠牲にすることによって、私があなたがたに語ることを可能にしてくださったからです。彼が、自分の霊に固執することなく、互いに分かち合うことができたからです。どうか、主の霊が私たちとともにありますように、と祈ります。