Ⅰコリント15章12〜28節、50〜58節「終わりのラッパとともに、私たちは変えられる」(ヘンデル作 メサイア第二部、第三部 テキストから)

2008年3月21日

キリストの復活を文字通りの歴史的な事実と信じる必要はないという人々が数多くいます。私自身も昔、その影響を少しばかり受けていました。しかし、コリント人への手紙第一15章の生々しい表現に圧倒され、考えを改めました。パウロはそこで、そのような霊的な解釈は、「神について偽証」(15節)になるばかりか、「もし、私たちがこの世にあってキリストに単なる希望を置いているだけなら、私たちは、すべての人の中で一番哀れな者」(19節)だと断言します。

たとえば、遠藤周作は、「弟子たちにはイエスが死んでも、自分たちのそばにいるという生き生きとした感情が、いつのまにか生まれたに違いない。それは抽象的な観念ではなく、文字通り具体的な感情だった。」と記しています。しかし、遠藤は、それでは弟子たちの心の変化を説明しきれないということも同時に認めざるを得ませんでした。あの臆病な弟子たちが驚くほど見事に変えられ、イエスのためなら命をも賭けることができるようになりました。それはイエスの復活を目撃し、イエスの御霊によるダイナミックな力を受けることができたという以外に説明のしようがありません。

イエスの復活は、現代の私たちの生き方をも変える決定的なメッセージです。それは歴史的な事実であると同時に、私たちの将来に消えることのない力強い希望をもたらすものでもあります。ヘンデル作のメサイヤの第二部は有名なハレルヤ・コーラスで終わりますが、その後の第三部では、キリストの復活が、私たちの身体の復活につながると歌われます。私は今まで、旧約聖書からの神の救いのストーリーを把握することの大切さを語り続けていましたが、それでは語りきれないのがこの希望です。新約はそれを語るためにこそ記されています。私は信仰に導かれても、しばらくその意味が理解できないでいました。その頃は、自分の信仰の成長の程度を自分で計って一喜一憂していました。

1.「ハレルヤ。全能の神である主は、支配しておられる」

メサイヤ第二部のクライマックスはハレルヤ・コーラスですが、それに至るプロセスで詩篇2篇からのみことばが四曲も歌われます。イエスの復活によってサタンの敗北は決まったはずなのですが、それによって戦いが止むどころか、かえって激しくなっている面があります。それはたとえば、第二次大戦でナチス・ドイツの敗北を決定的にしたのは1944年6月のノルマンディー上陸作戦の成功でしたが、ドイツの降伏は1945年の5月であり、その間の戦争はそれ以前よりはるかに悲惨なものになったのと同じです。太平洋戦争の場合もミッドウエー海戦で日本の敗北は決定的になりましたが、それを理解したのはごく一部の人でした。しかも、敗戦の兆候が強くなるほど戦いは激しさを増し、硫黄島、沖縄、広島、長崎の悲劇につながりました。つまり、現在、サタンの攻撃が激しくなり暗闇が増し加わっているように見えるのは、勝敗が決定的となったしるしなのです。

そのことを第一曲では、激しい戦いのイメージの音楽で、1,2節からWhy do the nations so furiously rage together, and why do the people imagine a vain thing? 「なぜ国々は騒ぎ立ち、国民はむなしくつぶやく(むなしいことを思い巡らす)のか。地の王たちは立ち構え、治める者たちは相ともに集まり、【主】と、主に油をそそがれた者とに逆らう」と歌われます。これは、使徒4:25では、ダビデが、救い主とその教会に対する迫害のことを預言したものとして引用されます。この世では神に逆らう勢力の方が数多くいるように見えます。そのような中で、「人々は、むなしいことを思い巡らす」というのです。新改訳で「つぶやく」とも訳されている言葉は、「主の教えを思い巡らす」(詩篇1:2)というときと同じ原文です。

確かに、この世の不条理ばかりに目を留めると、「神なんかいない・・」と思えることがあるでしょう。しかし、聖書を読むことを忘れた「思い巡らし」、時間の無駄であるばかりか、人を狂気に走らせることすらあります。それよりも、私たちが「思い巡らす」べき「なぜ?」とは、この世の権力者が、なぜこれほどノー天気な生き方、つまり、自分の明日のことを支配する創造主を忘れた生き方ができるのかという不思議ではないでしょうか。それこそ真の疑問です。

聖書を通して私たちは、ダビデや救い主が受けた不当な苦しみのすべては、神のご計画であったと知ることができます。また、私たちの人生も、この世にあっては様々な試練に満ちていると知ることができます。神の敵は、サタンに踊らされているだけです。彼らは、隠された霊的な現実を見ることができないからこそ、神に反抗できるのです。

第二曲の合唱では、3節からLet us break their bonds 「さあ、彼らのかせを打ち砕き、彼らの綱を、解き捨てよう」と歌われますが、これは、「神の国(支配)」の民として生きることを、単に束縛ととらえ、創造主を否定した生き方に自由があると思い込むことを指します。しかし、彼らは自由なのではなく、自分の欲望の奴隷になっているだけです。

第三曲では、4節から、「天の御座に着いている方は笑い、主はその者どもをあざけられる」と歌われます。神は今、天に座しておられ、ご自身の権威を否定する者たちのことを「笑い」、また「あざけって」おられるというのです。そして、主は、ご自身のみこころのときに、新しい権力者を立てられます。それは当時、直接的にはダビデの戴冠の時でした。そのとき主(ヤハウェ)は、「わたしは、わたしの王を、聖なる山シオンに立てた」(6節)と言われました。ダビデはサウルに命を狙われ、逃亡していたことを思い起こしながら、このみことばを喜んでいたのではないでしょうか。私たちには不条理としか思えないことも、神のご支配の中にあります。私たちはこの地の支配者がどなたなのかを忘れてはなりません。

第四曲では、9節から「あなたは鉄の杖で彼らを打ち砕き、焼き物の器のように粉々にする」と歌われます。この表現は、黙示録で三回に渡り(2:27,12:5,19:15)、再臨のキリストが力を持ってこの地を治めることとして引用されます。救い主は、二千年前はひ弱な赤子としてこの地に来られましたが、今度は剣をもって神の敵を滅ぼすために来られるのです。

これらはすべてダビデの子イエスの最終的な勝利を約束するみことばです。そしてそれを前提に、第五曲では黙示録のテキストをもとにしたハレルヤ・コーラスが歌われます。そこでは最初、黙示19:6 から、Hallelujah!For the Lord God omnipotent reigneth.「ハレルヤ。全能の神である主は、支配しておられる」と繰り返し歌われます。これは、この世の現実が悲しみと不条理に満ちているようなときの何よりの慰めです。私たちの教会の群れの基礎を築いてくださった古山洋右先生は、ご自身の葬儀の際にはぜひこのハレルヤ・コーラスを歌って欲しいと切に願われました。そして、今から11年前の最も悲しいときに、私たちはこのみことばから、目に見える現実を超えたキリストのご支配をともに高らかに歌いました。これこそ黙示録のテーマです。それは賛美と礼拝です。そして、その頃、私も武蔵野や東村山の牧会にも携わりながら、何とも言えない疲れと無力感を覚えていましたが、ある方からメサイヤのコンサートにご招待いただいたとき、この部分の賛美を聞きながら、ことばにできない感動に心が満たされました。それは、目の前の状況がコントロール不能と思われる中で、「全能の神である主は、この状況を支配しておられる」と確信できたからです。

そのことが、引き続き、黙示11:15から、The kingdom of this world is become the kingdom of our Lord and of His Christ and He shall reign for ever and ever 「この世の国は私たちの主およびそのキリストのものとなった。主は永遠に支配される」、また、黙示19:16から、King of Kings, and Lord of Lords 「王の王、主の主」と歌われます。つまり、この地上を支配しておられるのは、私たちを愛し、私たちのためにいのちを捨ててくださったイエス・キリストご自身であられるというのです。私たちの救い主ご自身が、今、「王の王、主の主」としてこの地を治めておられるというのは何という慰めでしょう!なお、このヘンデルの指揮によるメサイアの演奏を聞いていたイギリス王、ジョージⅡ世は、この部分を聞いたとき、突然、起立したと言われます。それは、「王の王、主の主」であるキリストへの敬意の表現でした。それにならってすべての聴衆が起立し、それ以後の演奏会でも、聴衆がこの部分で起立するようになったと言われます。

2.「私は知っている。私を贖う方は生きておられる」

第三部は、興味深いことに、あの不条理な苦しみの中で主に叫んだヨブの告白から始まります。それはヨブ19:25,26の、 I know that my redeemer liveth・・・「私は知っている。私を贖う方は生きておられ、後の日に、ちりの上に立たれることを。私の皮が、このようにはぎとられて後、私は、私の肉から神を見る」をもとにしたソプラノのアリアです。ヨブは、何の落ち度もない義人であったのに、神の許可を得たサタンによって、死の苦しみに会います。彼の妻からは、「神をのろって死になさい」と言われ、親しい友人たちからは、「何かの罪のせいではないか・・」と悔い改めを迫られます。彼は、肉体の痛みばかりか人々の軽蔑を受けるという苦しみの中で、「私を贖う方」に思いを馳せ、その贖いによって、「私の肉から神を見る」という希望に満たされます。ヨブは、苦しみの中で、救い主の現れを預言したのです。

そして、「私を贖う方は生きておられる」というヨブの願望から生まれた預言が、キリストの復活によって保障されたという確信が、Ⅰコリント15:20から「なぜなら、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられたからです」と上記のアリアの最後の部分で力強く歌われます。そしてこれ以降のテキストはすべて新約のみことばになります。

旧約だけでは、キリストの復活が、現代の私たちにどのような希望をもたらすかを明確には語ることはできません。多くの人々が忘れている福音の核心、それは、キリストの復活は、私たちの復活の「初穂」であるということです。そのことが、第七番目の合唱曲で、Ⅰコリント15:21,22から、Since by man came death 「というのは、死がひとりの人を通して来たように、死者の復活もひとりの人を通して来たからです。すなわち、アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストによってすべての人が生かされるからです」と歌われます。キリストの復活は、アダムによる最初の罪によって死が私たちを支配するようになった現実を逆転させるものなのです。私たちはこれによって、どのような脅しにも立ち向かって行くことができます。

たとい、サタンの勢力が私の身体をどれほど傷つけ、滅ぼそうとしても、「私は知っている。私を贖う方は生きておられ・・」と告白することで、主から与えられた使命を全うする勇気が生まれます。確かに、肉体的な苦しみを避けたいのは人情ですが、それは一時的な外科手術のようなものです。キリストが死の中からよみがえったように、私たちはこの肉体の死を通して、復活の身体へと近づくのです。私たちの死は、青虫がさなぎになるのと同じです。時が来たら、私たちは新しい身体を受けて、蝶のように天を自由に羽ばたくことができます。キリストの復活は私たちの「初穂」として、そのことの保障です。

3. 私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみなが眠ってしまうのではなく、みな変えられるのです。

福音の奥義が、第八曲で、Ⅰコリント15:51,52から、Behold I tell you a mystery・・「聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみなが眠ってしまうのではなく、みな変えられるのです。終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです」と歌われます。ここで、「終わりのラッパ」とは、神に敵対する勢力へのさばきと、世界の完成を告げ知らせる希望の調べです。そして、美しいトランペット独奏の音色と共に、The trumpet shall sound・・「ラッパが鳴ると・・」と歌われた上で、and the dead shall be raised incorruptible, and we shall be changed、「死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。朽ちるものは、必ず朽ちないものを着なければならず、死ぬものは、必ず不死を着なければならないからです」(同52,53節)と、私たちの身体のよみがえりという希望が歌われます。そのことをパウロはここで、私たちが「朽ちないものを着る」、また「不死を着る」という表現を用いていますが、聖書の語る「救い」とは、たましいが肉体から解放されることではなく、新しい復活の身体をいただけることにあるのです。

それは、「みなが眠ってしまう」死後の話というよりは、キリストが再び来られる時、すぐに起きることです。たとえば今、主が来られるとするなら、私たちは、「たちまち・・雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と出会」(Ⅰテサロニケ4:17)うことができます。そのときに私たちはみな「変えられる」というのです。そのことを目の前に描きながら生きるというのが、私たちの信仰の核心です。どうか、年を重ねても、「私はもう棺桶に片足を突っ込んでいるような者です・・」などと言わないようにしてください。そうではなく、「私の目の前に、美しくしなやかな復活の身体が備えられています!」と告白し続けてください。そうするなら、あなたの身体は、いつまでも内側から湧き上がる不思議な輝きを増し加えることができることでしょう。私たちは年を重ねるとともに、この地上の基準で計ることができない美しさを身につけることができます。そしてそれは、人の努力によるものではなく、私たちのうちに住んでおられる創造主であられる御霊の働きです。

七年ほど前のことですが、上野の東京文化会館で、重見通典牧師の指揮によるメサイアの演奏会が大成功をおさめました。彼は、私たちがドイツで家庭集会を始めた頃洗礼を受けた音楽家で、十年ほど前から新宿でホームレス伝道をしています。また、トランペットを演奏したのは、その八年ほど前一時的にこの教会に集っていた尾崎浩之兄でした。私は、以前の彼ら二人を知っているだけに、「変えられるのです!」という賛美を重ねて聞きながら、「本当に、イエス様は私たちを変えてくださる!」という深い感動を味わうことができました。この変化は、キリストの再臨の時、一瞬のうちに起こることを確かに指したものではありますが、その予表は既に今から見えるものでもあります。

なお、エーリッヒ・フロムは、「人は意識のうえでは愛されないことを恐れているが、ほんとうは、無意識のなかで、愛することを恐れているのである」と言っています。実は、私たちの内側には、今からキリストのような愛の人には「変えられたくない・・」という思いがあるのではないでしょうか。正直に言いますと、少なくとも私の心の内側には、真実に神と人を愛そうとするなら、自分の現在の生活、富、時間、名誉、影響力等を失うのではないかという恐れがあります。単純に言うと、「めんどうなことに関わりたくない・・」というさもしい思いがあります。それは、「死への恐れ」とも言い換えることができます。なぜなら、肉体の死は、それらすべてを失い、裸にされることの象徴だからです。しかしパウロは、私たちは「裸の状態になることはない」(Ⅱコリント5:3)、「キリストをその身に着る」(ガラテヤ4:27)ことになると言いました。私たちが失うのは、「朽ちるもの」に過ぎません。「失う」というより「不死を着る」のです。そして、それを心から願い、最終的な変化を今から先取りして生きる者は、神の国の完成の時に実現する喜びと平安を、ここで味わうことができるのです。

4.「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう・・・」

第九曲では、Ⅰコリント15:54から、then shall be brought・・「そして、『死は勝利にのまれた』としるされている、みことばが実現します」と歌われます。これは、「ヤハウェは永久に死を滅ぼされる」(イザヤ25:8)という神の国の目に見える完成を、文脈に添って劇的に表現したものです。「のむ」とは、くじらが小魚を飲み込むように、死が決定的に無力になったことを表します。そのことが引き続き、Ⅰコリント15:55,56から、O death, where is thy sting・・「『死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。』死のとげは罪であり、罪の力は律法です」と歌われます。これはホセア13章4節からの引用で、そこでは、神が反逆の民イスラエルをあわれみ、彼らのすべての不義を赦し、新しくしてくださると約束されています。そして、ここで、「死のとげは罪」と言われるのは、罪がなければ人は死に支配されることはなかったからです。しかも、「罪の力は律法です」と、まるでモーセ五書の価値を否定するかのようなことが言われるのは、肉の人にとっては、律法が、「私は戒めを守っている」という傲慢か、「私は失敗者だ」という絶望かに追いやる作用を持ってしまうことがあるからです。人は自分の力で死の支配から自由になることができないのです。

第十の合唱では、Ⅰコリント15:57から、But thanks be to God who giveth us the victory・・「しかし、神に感謝すべきです。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました」と歌われます。なぜなら、キリストの十字架によって、私たちのすべての罪が赦され、死の「とげ」は取り去られ、死は私たちを傷つける力を失ったからです。私たちは、自分の敬虔さで勝利を獲得するのではありません。神はキリストに勝利を与え、そのキリストを私たちがこの身に着るのです。私たちは無力でも、勝利者であるキリストがこの身を包んでくださるのです。

私はかつて信仰を誤解していました。私はもっと強い人間になれることを期待していました。そして今も、ふと、人から、「三十年もクリスチャンやって、何が変わったの・・・」と聞かれたら、何とも答えることができないような気がします。でも、最近はそんなことを考えるのをやめました。なぜなら、私は欠けだらけでも、私を包むキリストは完全だからです。

第十一の曲では、ローマ8:31,33,34からIf God be for us, who can be against us?「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう・・・神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです」と、私たちの信仰の核心が歌われます。私たちは、恐怖に捉えられ、イエスに従うことを躊躇しますが、「神が私たちの味方」となってくださったのですから、どのような脅しにもひるむ必要がありません。

そればかりか、イエスに従うことで、いわれのない非難を受けたとしても、「神に選ばれた人を・・神が義と認めてくださる」(33節)という慰めを受けることができます。主ご自身が、「侮辱され・・つばきをかけられ・・訴えられ・・罪に定められ」(イザヤ50:6-9)ました。たとい、あなたが人から「罪に定められ」ても、それは十字架のイエスと同じ状態になることです。それこそ、「神に選ばれた」というしるしかもしれません。この世の尺度と、神の尺度は異なります。また世の価値観は神に敵対することがあるからです。しかも私たちはそこで、「死んで下さった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが・・とりなしていてくださる」(34節)という慰めを受けます。私たちは、自分の信心深さによって神の前に立つのではなく、イエスの信仰がうちに生きることによって、「アバ、父」と呼ぶことができるのです。

自分の不信仰を責める必要はありません。神は、私たち以上に私たちを愛し、受け入れてくださっています。私たちの存在の基盤は、何かを達成していること以前に、「神が私を愛してくださった・・・」という点にあるのです。

このことを受けて、第十二曲の合唱で、黙示5:12,13から、Worthy is the lamb that was slain・・・「ほふられ、ご自身の血によって、私たちを神のために贖ってくださった小羊こそ、力と、富と、知恵と、勢いと、誉れと、栄光と、賛美を受けるにふさわしい方です」と歌われます。これこそ天上の賛美です。

私たちはこの世で、自分が無力で貧しく愚かでひ弱で軽蔑され惨めで・・・という絶望を味わうことがあるかもしれません。しかし、私たちはその正反対の性質に満たされている方に結ばれ、その方が私たちのうちに住んでおられるのです。私たちは、そのことを覚えながら、天の賛美に共鳴しながら、「御座にすわる方と、小羊とに、賛美と誉れと栄光と力が永遠にあるように」と賛美を続けるのです。

最後に、これらすべてのことが真実であることを、私たちはすべての被造物ともに、「アーメン」と歌うことができます。メサイアの最後のアーメン・コーラスは、天上の「アーメン」という賛美に共鳴する地上の私たちの賛美です。

私たちはこの地において、肉体が抱える固有の弱さに縛られながら、自己保身の動機に駆り立てられがちです。しかし、この心が、聖書が語る真の希望に満たされるなら、自分自身から自由になることができるのではないでしょうか。残念ながら、多くのクリスチャンは、自分の「救い」を、「たましいが肉体の束縛から解放されて天国に憩うこと」という程度に捉えています。それは、「死んで極楽浄土に行く」という仏教徒の希望とどこが違うのでしょう。それは「たましい」と「肉体」を区別する二元論的な考え方であり、聖書的な発想ではありません。しかも、そのような希望には、「早くこの地上の面倒なことから離れて、自分だけの平和を楽しみたい」という現実逃避の匂いがあるのではないでしょうか。

しかし、「新しい天と新しい地」の希望、つまり、この世界も私たちの身体も造りかえられる途上にあるという聖書的な希望の告白からは、「私もこの地上の問題のただ中に敢えて身を置いて、神が造りだす新しい創造のみわざに参画させてもらいたい」という積極的な生き方が生まれるのではないでしょうか。この世界から愛が冷めているのは、人々が自分だけの平和を求めているからです。しかし、復活のイエスは、恐れ閉じこもっていた弟子たちの真ん中に現れ、「平安(平和)があなたがたにあるように」という祝福を祈りながら、「父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします」(ヨハネ20:21)と言われました。キリストの平和は、世に派遣される中で味わうことができるものです。