ほんとうに明日は、どうなるのだろう……という不安の中に私たちは置かれています。そのとき、何らかの合理的な説明がなされることを期待します。しかし、詩篇の祈りの世界はそうではありません。 “詩篇の祈り〜詩篇10篇” の続きを読む
詩篇144篇「すべてのことを主に祈ることができる幸い」
日本人にとってのキリスト教信仰はときに「武士道」にとって代わるような、無私で高潔な生き方を教えるものと見られてきた傾向があるかもしれません。「敬虔なクリスチャン」という表現には、勝つか負けるかというこの世の競争社会を超越した、聖なる生き方をする人というイメージがあるかもしれません。 “詩篇144篇「すべてのことを主に祈ることができる幸い」” の続きを読む
詩篇148篇「神の世界に生かされる自由」
私たちは、健康を求めすぎることで病気になり、お金を求めすぎることで貧しくなるという逆説をこの世界で味わいます。それから全く自由な生き方を、1200年代初めの中部イタリアの自由都市アシジを中心に活躍したフランシスコに見ることができます。 “詩篇148篇「神の世界に生かされる自由」” の続きを読む
詩篇127章1〜2節「主よ、あなたに守られて今日に至ります」 (早坂恭先生【東村山福音自由教会牧師】)
2019年7月21日(音声のみ)
詩篇147篇「エデンの東の町(東京)から新しいエルサレムへ」
世界で最初の都市を建てたのは、弟殺しのカインでした。彼は「さすらい人」となると神の宣告を受け、同時に、「主 (ヤハウェ) は、彼を見つけた人が、だれも彼を殺すことのないように、カインに一つのしるしをつけられ」、守ろとされました (創世記4:14、15)。しかし、彼は「エデンの東」に「町を建て」、定住します。それは神の宣告と神の守りを拒絶したことを意味します。 “詩篇147篇「エデンの東の町(東京)から新しいエルサレムへ」” の続きを読む
詩篇145篇「神のご支配を感謝しつつ生きる」
「主 (ヤハウェ) は王である」、「主 (ヤハウェ) は王座に着いておられる」という賛美のことばが詩篇には多数登場します。
この世界には多くの自然災害などがありますが、たとえば火山活動で生まれた日本列島にこれほど多くの人々が安心して暮らしていられるのは、主がこの地を守られているからです。この宇宙にこの不思議な地球が存在し、様々な生命体が存在していること自体が、宇宙の中での奇跡と言えましょう。 “詩篇145篇「神のご支配を感謝しつつ生きる」” の続きを読む
詩篇143篇「主 (ヤハウェ) よ 私を生かしてください!」
この詩篇は伝統的に七つの悔い改めの詩篇 (6,32,38,51,102,130,143篇) の最後と呼ばれ、作者もダビデであると見られています。しかし、この詩のどこにもダビデの罪の悔い改めの姿が描かれていません。ひょっとすると、多くの信仰者は詩篇を読むときに、すでに一つの枠を持ってしまっているからこそ、これを悔い改めの詩篇と分類したのかもしれません。 “詩篇143篇「主 (ヤハウェ) よ 私を生かしてください!」” の続きを読む
詩篇55篇「あなたの重荷を主 (ヤハウェ) にゆだねよ」
花粉症に苦しむ方が、「昨夜、私は鼻が詰まって眠られなかった……」と言ったことに、ある尊敬されるカトリックのシスターは、「あら、お薬をちゃんとお飲みになったの?」と応答してしまい、後で自分の配慮のなさを深く反省したとのことです。
私はそれを伺い、その気づき方に感心しました。人は、誰でも、自分の気持ち、自分の辛さをわかって欲しいと願います。そのときに、苦しみの原因を分析されたのではかえって気が滅入るかもしれません。私たちも、しばしば、そのような反応をすることを反省すべきでしょう。 “詩篇55篇「あなたの重荷を主 (ヤハウェ) にゆだねよ」” の続きを読む
詩篇146篇「望みをアダムの子ではなく、主 (ヤハウェ) に置く生き方」
聖書にある神のみわざの最も画期的なことは、人が「神のかたち」として、「神の似姿」に創造されたということではないでしょうか (創世記1:26-28)。ところが人は、「自分を神」としてしまい、そこから「力ある者」が弱者を支配するという構造が生まれました。
ときには、弱者を援助するという慈善事業を通してさえ「力ある者」が「神のかたち」に創造された人を支配するという構図が生まれます。それは人を「捕らわれ人」とすることです。 “詩篇146篇「望みをアダムの子ではなく、主 (ヤハウェ) に置く生き方」” の続きを読む
詩篇133篇、134篇「主にある交わりへの祝福」
日本語の「教会」とはギリシャ語のエクレシアの訳で、それは「召し出された者たちの集まり」と訳すこともできることばです。その本質は「教えを受ける会」ではなく、「互いに愛し合う共同体」です。
そのように言われる割には、「この教会には愛がない」と言われる現実がどの教会にもあります。新興宗教の交わりの方がずっと愛があるように思えることがあっても不思議ではありません。しかしそれは私たちの信仰が、一人ひとりが、たったひとりで創造主と向き合うということが信仰の基礎にあることの逆の面でもあります。 “詩篇133篇、134篇「主にある交わりへの祝福」” の続きを読む