創世記1章1節~2章3節「神のかたちとして、神の神殿なる世界を治める」

2025年5月4日

人生には、「あれさえ起きなければ、違った展開になったはず……」と思えるようなことが次々と起きますが、聖書にはこの世界の始まりと目的地の両方が記され、私たちの心の目を近視眼的な視点から解放してくれます。 “創世記1章1節~2章3節「神のかたちとして、神の神殿なる世界を治める」” の続きを読む

米国の悲劇——対立を超えて〜創世記3章5節

 先日の日曜日、米国で恐ろしいことが起きました。共和党の大統領候補のトランプ氏が、暗殺されそうになりました。
 耳をぶち抜かれていますから、ほんの数センチずれていたら確実に死んでたことでしょう。
 すべてが神の御手の中にあるという意味では、全能の主の守りの中で生かされたと考えることもできましょう。 “米国の悲劇——対立を超えて〜創世記3章5節” の続きを読む

主がおられるのに、それを知らなかった〜創世記28:16

母のためにお祈りいただき心より感謝申し上げます。昨日と本日、それぞれ一時間ちかく、母の手を握り、頭に手を置き続けて、お祈りすることができました。昨日は、「忙しいのに、よく来てくれたね……」とはっきりと言ってくれました。僕もつい、「母ちゃん、大好きだよ。母ちゃんがいなかったら僕が存在していないけど、すべて母ちゃんのおかげだよ、本当に感謝しているよ……」と心から言うことができました。 “主がおられるのに、それを知らなかった〜創世記28:16” の続きを読む

「人とその妻はふたりとも裸であったが、恥ずかしいとは思わなかった」 —— 35年前の卒業論文〜創世記2章25節

最近、facebook を通して、聖書解釈に関しての様々な対話を重ねています。その中で、35年前に自分が素朴に持っていた疑問が、今、ホットな議論になっていることに気づかされています。それは、第一に私たちが持つ痛みの感覚としての「恥」の意識です。創世記では、アダムとエバが禁断の木の実をとって食べる前の調和が、「人とその妻はふたりとも裸であったが、(互いに)恥ずかしいとは思わなかった」と、エデンの園での調和として描かれています。しかし彼らが神に逆らったことで互いの信頼関係が崩され、そこからアダムがエバに責任を擦り付け、二人から生まれた最初の子が弟殺しになるというストーリーが描かれています。 “「人とその妻はふたりとも裸であったが、恥ずかしいとは思わなかった」 —— 35年前の卒業論文〜創世記2章25節” の続きを読む

創世記42章~50章「神はそれを良いことのための計らいとされた」

2020年11月29日

「あのことのせいで……」という「恨み」「後悔」「怒り」などに囚われている時、ふと、より大きな神の物語の中に「自分の居場所」を見出せるなら、「赦し」と「和解」がずっと楽になるのではないでしょうか? “創世記42章~50章「神はそれを良いことのための計らいとされた」” の続きを読む